天下布武を目指す織田信長にとって大きな障害となったのが、反勢力である「信長包囲網」です。この記事では、主導者とされる足利義昭の動きを中心に、第一次から第三次までの流れをわかりやすく解説していきます。
「信長包囲網」とは、室町時代の末期に、反織田信長の軍勢が結成した連合のことをいいます。まずはそれまでの経緯を説明しましょう。
1568年9月、織田信長に奉じられて上洛を果たした足利義昭は、10月に室町幕府第15代将軍に就任しました。1565年の「永禄の変」で第13代将軍の足利義輝を殺害し、第14代の足利義栄を擁立していた三好三人衆らは、義昭の後見人になっていた信長によって京から追い出されます。
しかし1569年、織田信長が美濃に帰国した隙をついて、三好三人衆や斎藤龍興などが、仮御所である本圀寺にいた足利義昭を襲撃。「永禄の変」と同じように将軍が殺されるという悲劇が起こる危機でしたが、明智光秀らの奮闘もあり、義昭は窮地を脱することができました。ただこの出来事は、三好三人衆が十分な軍事力を有していて、復権の機会を狙っていると危機感を抱くのに十分でした。
この頃の足利義昭は、3歳年上の織田信長のことを「室町殿御父」と呼ぶなど両者の関係は良好。義昭にとって信長は、三好三人衆の脅威から自分の身を守るために欠かせない人物でした。一方の信長にとっても、将軍である義昭のもつ権威は十分に利用価値があり、彼のために二条城を建設するなど、尽力します。
1570年、信長の上洛の命に背いたとして対立していた朝倉義景、朝倉氏を討伐する戦いの際に信長を裏切った浅井長政、三好三人衆、三好三人衆のひとり三好長逸と通じていた荒木村重、さらに石山本願寺などが、「第一次信長包囲網」を結成して挙兵します。信長は窮地に陥りましたが、この時は足利義昭に調停を依頼し、和睦が成立して戦いが収束しました。
しかしこの後、幕府の再興を目指す足利義昭と、天下布武を掲げる織田信長の意向はたびたび食い違い、両者の関係は徐々に悪くなっていきます。1569年1月、織田信長は将軍権力を制限する「殿中御掟」を出し、足利義昭に承認させます。
これは幕府法などの先例にのっとったものでしたが、信長を家臣とみなしていた義昭にとっては遺憾なもの。不満を抱いた義昭は、1571年頃から各地の有力大名に御内書を出し、信長の勢力を弱めようと共闘を促し始めるのです。ただこの時はまだ、両者が対立していたわけではありませんでした。
織田信長と足利義昭がの関係が完全に決裂するのは、1572年のこと。信長が義昭に対して、「17条の意見書」を送付。行動や生活態度を批判したのです。
義昭はこれに激怒し、ちょうど上洛を始めていた武田信玄に呼応するかたちで挙兵。これが「第二次信長包囲網」です。
戦いに敗れた足利義昭は京を追放。ただ将軍であることに変わりはなく、中国地方の大名である毛利輝元を頼り、備後の鞆(とも)を拠点に活動。信長包囲網を再構築します。これを「第三次信長包囲網」といいます。
「第一次信長包囲網」が構築されたきっかけは、1570年4月に、織田信長が越前の朝倉義景を討伐するための兵を挙げたことに始まります。足利義昭の後見人だった信長は、義昭の名を使って各地の大名に上洛を促していましたが、朝倉義景がこれに応じなかったことが原因でした。
「金ヶ崎の戦い」と呼ばれるこの戦いは、信長の義弟に当たる北近江の浅井長政が裏切ったことで、予想外の展開に。撤退を余儀なくされた信長の様子を見て、これを好機と捉えた敵対勢力が各地で蜂起し、「信長包囲網」を構築したのです。
参加したのは、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、南近江の六角義賢、比叡山延暦寺、石山本願寺、伊勢長島の一向一揆、三好三人衆など。
四方を敵に囲まれた織田方は各地で苦戦を余儀なくされます。比叡山延暦寺にこもった浅井、朝倉軍との戦いである「志賀の陣」は3ヶ月近く続き、信長の弟の信治が死亡。さらに石山本願寺の顕如に指示された一向一揆衆によって、こちらも弟の信興が殺されるなど、信長は窮地に陥りました。
1570年12月、織田信長は朝廷と足利義昭に対して、調停を依頼。和睦を結ぶことができました。
「第二次信長包囲網」が構築されたきっかけは、1572年10月に甲斐の武田信玄が上洛を始めたこと。当時「戦国最強」と名高い信玄が上洛すれば、織田信長を倒すことができると考えた反信長勢力が、これに呼応して次々と挙兵をしたのです。
同年12月、武田信玄が織田信長の盟友である徳川家康を「三方ヶ原の戦い」で一蹴し、信長は窮地に陥りました。
「第二次信長包囲網」には、第一次にも参加していた朝倉義景や浅井長政、六角義賢、比叡山延暦寺、石山本願寺、三好三人衆、荒木村重などに加え、甲斐の武田信玄、相模の北条氏政、丹波の内藤如安、近江の甲賀衆、伊賀の伊賀衆、さらにもともとは織田方だった河内の三好義継、大和の松永久秀、そして将軍である足利義昭も参加。信長の周りは敵だらけという状況です。
1573年、かつて信長が建ててくれた二条城で挙兵をした足利義昭。1度は天皇の勅命で講和を結ぶものの、再度挙兵をしました。しかし、頼みの綱である武田信玄が上洛してきません。
実は4月12日、信玄が病没。武田軍は甲斐に帰国しまっていたのです。義昭はこれを知らなかったといわれています。
武田軍が帰国したことで、「第二次信長包囲網」は事実上瓦解。足利義昭は追放され、朝倉義景、浅井長政、三好義継らは自害しました。松永久秀は降伏し、石山本願寺と織田信長が和睦を結ぶなど、信長に反発していた勢力はそれぞれ無力化していくのです。
「第三次信長包囲網」は、1570年から1580年まで続いた「石山合戦」が激化したことで、構築されます。
「第二次信長包囲網」が瓦解した際、1度は和睦を結んだ信長と石山本願寺。しかし本願寺は再度挙兵し、伊勢長島、越前、加賀の一向一揆などと連動しながら戦うことになります。ただ1574年には長島一向一揆が、1575年には越前一向一揆が壊滅するなど、その力は衰えつつありました。
さらに1575年の「長篠の戦い」では、織田・徳川連合軍の前に、武田信玄の息子である武田勝頼が大敗。1576年には明智光秀を中心とする軍が石山本願寺を包囲。さらに柴田勝家らが加賀の一向一揆の鎮圧を進めます。
そこで、「第二次信長包囲網」が瓦解した後に京を追放され、備後の鞆を拠点に活動していた足利義昭は、石山本願寺を救援。信長を打ち倒すために各地の勢力に御内書を出し、「第三次信長包囲網」を構築しました。
「第三次信長包囲網」には、備後の足利義昭、備前の宇喜多直家、越後の上杉謙信、安芸の毛利輝元、但馬の山名祐豊、甲斐の武田勝頼、大和の松永久秀、丹波の赤井直正、摂津の荒木村重、石山本願寺などが参加。要となったのは、上杉謙信です。
もともと上杉謙信は、信長と同盟を結んで石山本願寺の影響下にある加賀や越中の一向一揆と戦っていました。すると足利義昭は上杉謙信と石山本願寺の調停に乗り出します。謙信はこれに応じて和睦を結び、信長との同盟を破棄したのです。
「第三次信長包囲網」の計画は、毛利輝元が石山本願寺を援助し、物資の補給などで時間を稼いでいる間に上杉謙信が上洛、東西から信長を挟み撃ちするものでした。
1576年7月、毛利輝元が支持をする村上水軍が織田水軍を撃破し、石山本願寺への物資補給に成功。上杉謙信も呼応して、織田方の七尾城を包囲します。しかし堅城で、攻略することはできませんでした。
翌1577年7月、上杉謙信はもう1度侵攻を始めて、七尾城を攻略。「手取川の戦い」で、柴田勝家らを撃破しました。
しかし1578年3月、上杉謙信は突然病死してしまうのです。さらに謙信の養子だった上杉景勝と上杉景虎による家督争いが勃発し、上洛どころではなくなってしまいました。
1578年12月には村上水軍と織田水軍の間で、再び戦いが発生。1579年に宇喜多直家が織田方に寝返り、1580年に石山本願寺が降伏、1582年に武田氏が滅亡させられるなど、「第三次信長包囲網」のメンバーたちは次々に撃破されていきました。
- 著者
- 久野雅司
- 出版日
- 2017-10-25
本書は、足利義昭は織田信長の傀儡だったのか、という問題提起をし、最新の研究結果をふまえながら彼らの功績を振り返ろうと試みています。
足利義昭は、幕府機構を整備し、各地の大名を巻き込んで信長包囲網を構築するなど、政治能力や外交戦略などでかなりの能力を発揮していました。一方の織田信長も、冷酷非情で合理的なイメージがあるかもしれませんが、尾張守護の斯波氏にも義昭に対しても、十分に敬っていたことがわかっています。
つまり、彼らの関係は従来考えられていたものとは大きく異なるものである可能性がが高いのです。
戦国時代末期の権力構図がどのようなものだったのか、丁寧な説明でわかりやすく学べる一冊でしょう。
- 著者
- 山田康弘
- 出版日
- 2019-12-17
足利義昭はもともと、将軍になる気などなかったそう。足利将軍家には後継者となる男児以外は仏門に入るという掟があり、義昭も覚慶と名乗って興福寺一乗院で門跡となっていました。何事もなければ、そのままひとりの高僧として、一生を終えていたでしょう。
しかし1565年、第13代将軍だった兄の足利義輝が「永禄の変」で殺されたことで、彼の運命も大きく変わります。義昭は織田信長の援助を受けて第15代将軍となり、兄の遺志を継いで悲願であった幕府再興に邁進することになるのです。
本書は、乱世に生まれ、時代に翻弄されながらも懸命に生きた足利義輝・義昭兄弟の生きざまをわかりやすく解説したもの。QA形式でテーマごとにまとめられていて、「信長包囲網」についてもしっかり学ぶことができます。