第二次世界大戦中に、連合国を構成するアメリカ、イギリス、ソ連の首脳陣で開催された「テヘラン会談」。特にアメリカとソ連が顔をあわせるのは歴史的事件ともいわれますが、一体何が話しあわれたのでしょうか。この記事では、会談が開かれた背景、内容、影響などを、その後に開催された「ヤルタ会談」も絡めながらわかりやすく解説していきます。
「テヘラン会談」とは、1943年にイランの首都テヘランで開かれた、第二次世界大戦時の首脳会談です。1943年11月28日から12月1日までの4日間にわたって実施されました。
参加したのは、連合国の主軸を構成するアメリカ、イギリス、ソ連の首脳と、外交のトップたち。
アメリカからはフランクリン・ルーズベルト大統領とハリー・ホプキンズ外交顧問、イギリスからはウィンストン・チャーチル首相とアンソニー・イーデン外務大臣、ソ連からはヨシフ・スターリン議長とヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣が参加しました。
テヘランで開催されたのは、当時のソ連がドイツとの戦いの真っただ中で、スターリンが遠くまで足を運ぶのが難しかったから。ソ連から比較的近いテヘランが選ばれたのです。
会議ではさまざまな議題が取り上げられましたが、なかでもドイツに対する第二戦線の構築と、ドイツが降伏した後のポーランドの国境、そしてソ連の対日参戦について議論されました。
後に「ビッグスリー」と呼ばれることになるアメリカ、イギリス、ソ連の首脳が初めて一堂に会した歴史的な会談ということに加え、日本にとっては現在でも未解決状態である北方領土問題の始まりでもあり、非常に重要な会談だといえるでしょう。
ナチスを率いるヒトラーとソ連のスターリンが、1939年8月に「独ソ不可侵条約」を締結したことは、世界に大きな衝撃を与えました。両者はまさに犬猿の仲だと認識されていたからです。
その数日後の9月、ドイツがポーランドを侵攻したことで、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされます。ポーランドはドイツとソ連によって分割されました。
しかし、その後ドイツとソ連の協調は長くは続かず、1941年6月22日、ドイツは突如として不可侵条約を破棄して、ソ連へ侵攻。独ソ戦が始まったのです。
もともと、資本主義を掲げるアメリカやイギリスと、共産主義を掲げるソ連は相容れない存在。天敵といっていい仲です。アメリカやイギリスはソ連を支援するべきかどうかで悩みますが、最終的にはドイツの殲滅を最優先事項とし、ソ連を支援することを決断。これによってソ連は連合国側に加わりました。
独ソ戦開戦当初は苦戦をしていたソ連ですが、連合国軍の助けを受け、1942年の「スターリングラードの戦い」、1943年の「クルスクの戦い」に勝利。窮地を脱します。
テヘラン会談は、ソ連に反撃する余力が生まれたことをきかっけに、今後の戦争をどのように進めるのか調整するために開かれたのです。
ちなみに、2日前まで開かれていた「カイロ会談」では、主に日本への対応について話しあわれています。11月22日から26日まで開催され、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、そして中国の蒋介石国民政府主席が参加しました。ソ連が参加していないのは、日本との間に「日ソ中立条約」を締結していたからです。
カイロ会談の結果、「連合国は日本が無条件降伏するまで軍事行動を続ける」「日本が1914年以降に獲得した太平洋の領土は没収する」「満州、台湾、澎湖諸島などは中華民国へ返還する」「朝鮮は独立させる」などの連合国による対日方針を定めた「カイロ宣言」が出されました。
これ以降、カイロ会談とテヘラン会談の2つによって定められた方針にもとづき、アメリカ、イギリス、ソ連、中国は第二次世界大戦を戦っていくことになります。
先述したとおりテヘラン会談で主な議題になったのは、「ドイツに対する第二戦線の構築」「ドイツが降伏した後のポーランドの国境問題」「ドイツが降伏した後のソ連の対日参戦」の3つです。
そのほか、ユーゴスラビアでドイツと戦っているパルチザンへの支援問題や、トルコの連合国側での参戦問題、機能停止状態にある国際連盟に代わる新たな国際組織の設立なども話しあわれました。
まず「ドイツに対する第二戦線の構築」について説明します。
第二戦線とは、主戦場とは別の場所に設ける戦線のこと。この場合の主戦場とはドイツとソ連が戦っている東部戦線で、東部戦線以外に新たな戦線を作ることで、ドイツ軍の戦力を分散し、ソ連の負担を軽減することが可能になります。
テヘラン会談では第二戦線の候補地として、スターリンが東部戦線からもっとも遠い北フランスを提案。これに対しチャーチルはバルカン半島を主張しました。最終的に採用されたのはスターリンの提案した北フランスで、これにもとづいて1944年に「ノルマンディー上陸作戦」が実施されています。
次に、「ドイツが降伏した後のポーランドの国境問題」です。そもそも第二次世界大戦が始まったのは、ドイツとソ連によるポーランド分割があったから。戦後、ポーランドを再び独立させることに対しては各国とも異論はありませんでしたが、国境をどこに引くかが問題になります。
ポーランドは1795年以降長らくロシアの影響下にあり、第一次世界大戦後の「ヴェルサイユ条約」によって123年振りに独立した国です。この時、多種多様な民族が入り乱れていたことから国境の画定は難航し、最終的にイギリスのジョージ・カーゾン外務大臣が決定しました。これを「カーゾン線」といいます。
しかしこれに不服を抱いたポーランドは、ロシア革命の混乱に乗じてソ連に侵攻し、勝利。ベラルーシとウクライナ西部をポーランド領としました。
テヘラン会談にて、チャーチルやスターリンは、カーゾン線を国境にすることを提案しますが、ロンドンを拠点に活動していたポーランド亡命政権が強硬に反対。結論は先送りされました。
最後に、「ドイツが降伏した後のソ連の対日参戦」についてです。
1937年から続いていた「日中戦争」において、中国は連合国側から大量に物資の援助を受けていましたが、劣勢でした。ルーズベルトとしては、日本の陸軍と広大な中国大陸で戦うのは避けたいという思いがあります。
そのため、ドイツの第二戦線の地としてスターリンが提案した北フランスを承認する代わりに、ドイツが降伏した後に対日戦争に参戦することを持ち掛けたのです。
この時スターリンは、対日参戦の条件として南樺太と千島列島を要求し、これをルーズベルトも認めて両者の間に密約が結ばれたといわれています。
これが事実だとすれば、1941年にルーズベルトとチャーチルによって調印され、後にスターリンも参加を表明した「大西洋憲章」における「領土不拡大の原則」に背く行為。これが理由かはわかりませんが、テヘラン会談の公式な記録には、この旨は記載されていません。
ソ連の対日参戦が問題視されるのは、「日ソ中立条約」に反しているからです。しかしテヘラン会談の時点で、スターリンが条約を破棄して参戦することを決めていたのかというと、疑問が残ります。
「日ソ中立条約」が発効したのは1941年4月25日のこと。第3条において「有効期間は5年で、満了1年前までにいずれかが破棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長される」と定められています。しかしこの解釈について、日本とソ連の間に認識の違いがあったのです。
日本は、いずれかが破棄を通告した場合、自動延長はなくなるものの有効期間が5年であることには変わりはないと考えていました。つまり条約は、「1946年4月25日」まで効力をもつということです。
しかしソ連は、モロトフ外務大臣をはじめ政府の要職に就いていたほとんどの人が、破棄を通告した時点で条約の効力が停止するものだと認識していました。つまり、条約破棄の期限である「1946年4月25日」までにドイツに勝利できれば、日ソ中立条約を破棄し、堂々と対日参戦できると考えていたのです。
認識の差が生まれた原因として、1930年代後半のスターリンによる大粛清により、多くの実務者が処刑されたため、国際法に精通する人材が不足していたのではないかと指摘されています。
認識の違いにソ連が気付いたのは、1945年4月5日、モロトフ外務大臣が、佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約の破棄を通達した時のことです。この時佐藤尚武駐ソ大使は、第3条の規定にもとづきあと1年は有効なはずだと回答しています。
モロトフ外務大臣も誤りに気付き、誤解があったとして、日ソ中立条約が1946年4月25日まで有効であることを認めました。
しかしこの時、ソ連による対日参戦はすでに決まっていたのです。対日参戦が決定したのは、1945年2月4日から11日にかけてクリミア半島のヤルタで開催された「ヤルタ会談」にて。ドイツ降伏後3ヶ以内に対日参戦をおこなうことが決められ、同時に南樺太や千島列島をソ連に与える密約が取り交わされていました。
仮にドイツが1946年1月末まで持ちこたえていたら、ソ連は条約を犯す必要はありませんでしたが、実際にドイツが降伏したのは1945年5月8日。ヤルタ会談の密約では、1945年8月8日までに対日参戦しなければいけなくなりました。
この事態にソ連は、連合国が署名したモスクワ宣言や、締結されたばかりの国際連合憲章の規定を根拠に、ソ連が対日参戦するのは平和と安全のためであって国際法には違反しないと主張。そして1945年8月8日、日本に宣戦布告をするのです。
結局それからは、日本が降伏した後も軍事行動を継続して北方領土を占領しています。
戦後、ソ連は、1941年7月に関東軍がおこなった「関東軍特種演習」が対ソ連開戦準備だったとして、この時点で「日ソ中立条約」は破棄されていたと主張。しかし当時のモロトフ外務大臣が日ソ中立条約は1946年4月25日まで有効だと認めている以上、この主張は受け入れられないとするのが、専門家の見解です。
- 著者
- 芦田 均
- 出版日
- 2015-11-18
作者の芦田均は、 外交官出身の政治家で、戦後には首相も務めた人物。そんな彼が晩年、口述筆記でドイツのポーランド侵攻から日米開戦、そして日本の降伏までの外交史をまとめました。
淡々とした文章ながら、さまざまな一次資料を駆使して、当時の各国の首脳たちが何を考え、どのように決断をくだしていったのかがわかるのが特徴。
本書を読むと、1度も首脳級が会談をおこなう機会を作らなかった枢軸国に比べ、連合国がカイロ会談やテヘラン会談、ヤルタ会談などたびたび顔をあわせ、意見をすりあわせていたことが大きな勝因だったのではないかと考えさせられます。
日本は戦争以外の道を選ぶことはできなかったのか、なぜ袋小路に入り込んでしまったのか……。後世の人々が誤った選択をしないようにという願いが込められた一冊、ぜひ読んでみてください。
- 著者
- スーザン・バトラー
- 出版日
- 2017-09-27
資本主義社会のリーダーであるルーズベルトと、共産主義社会のリーダーであるスターリン。20世紀の巨人といっていい存在です。2人は、旧世界のリーダーともいえるイギリスのチャーチルとともに、第二次世界大戦の行くすえと、戦後の国際秩序を見据えてテヘラン会談とヤルタ会談に臨みました。
本書は、そんなルーズベルトとスターリンの間で交わされた膨大な書簡や電信をもとに、彼らの関係と、どのような交流をしていたのかを紐解く作品です。
2人の性格、歴史的会談となったテヘラン会談の舞台裏、ルーズベルトの後任として大統領になったトルーマンの原爆投下……激動の近代史がいきいきと描かれています。歴史が動く瞬間に立ちあっているかのような興奮を得ることができるでしょう。