5分でわかるフランス7月革命と2月革命!背景と目的、結果をわかりやすく解説

更新:2020.2.13 作成:2020.2.13

ナポレオン亡き後のフランスで起こった「7月革命」と「2月革命」。その余波はフランスにとどまらず、ヨーロッパ全体を揺るがす事態に発展していきました。この記事では、2つの革命について、背景と目的、結果をわかりやす解説していきます。

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7月革命が起こるまでの背景と目的を簡単に解説!市民の要求は?

 

「7月革命」とは、1830年7月27日から29日にかけてフランスで起こった市民革命のこと。フランスでは「栄光の三日間」とも呼ばれています。

ナポレオンが1814年に敗れた後、1815年の王政復古で王位に就いたのは、「フランス革命」で処刑されたルイ16世の弟であるルイ18世です。ルイ18世は「フランス革命」時、ドイツのコブレンツに亡命し、反革命運動の旗手として活動していました。

国王になると、革命で掲げられた「自由・平等・友愛」などをまったく無視して、かつてのように貴族や聖職者を優遇する政策を実行します。1824年に崩御しますが、彼の政策は後を継いだ弟のシャルル10世に引き継がれました。

シャルル10世は、ルイ16世の妻であるマリー・アントワネットの遊び仲間として知られていて、その享楽的な性格と、絶対君主制を支持する政治信条によって国民の反感を買っていた人物です。王位に就いた後はルイ18世以上に専制的な政治をし、かつての絶対王政復活を目指して、議会の解散や選挙権の縮小に乗り出しました。

「7月革命」は、そんなシャルル10世に反発して民衆が蜂起したものです。

7月27日、民衆は三色旗を掲げて、パリ市内にバリケードを構築。シャルル10世は郊外のサン=クルー宮殿で事態を見守っていましたが、軍は民衆を抑えることができず、蜂起初日にテュイルリー宮殿とパリ市庁舎が、3日目にはルーヴル宮殿が陥落します。

民衆たちを主導していたのは、銀行家のジャック・ラフィットという人物。彼らの要求は、シャルル10世の退位による復古王政の打倒と、新たな王のもとでブルジョワジーが支配を復活させるというものでした。

これらを実現するために、ジャック・ラフィットは、アメリカ独立革命や「フランス革命」で活躍したラファイエット将軍を担ぎ出し、シャルル10世に代わる新たな国王として自由主義に理解のあるオルレアン公ルイ・フィリップを推薦します。

ラファイエットの登場で軍は戦意を喪失。さらに処刑を恐れたシャルル10世も民衆の要求を受け入れ、8月2日に退位してオーストリアに亡命しました。こうして、1589年からおよそ240年間続いたブルボン朝が滅びたのです。

8月7日、議会は「1814年憲章」を改正して「1830年憲章」を可決。新たな憲章のもと、ルイ・フィリップは歴代の王が名乗った「フランスの王」ではなく、「フランス人の王」として即位しました。

この王朝は、「7月革命」によって誕生したことから「7月王政」、もしくはオルレアン公ルイ・フィリップの名をとって「オルレアン王朝」と呼ばれています。

7月革命の結果とその後の影響。ベルギーは独立へ

 

フランスでロマン主義の詩人、小説家として活躍したヴィクトル・ユーゴーは、ルイ・フィリップのことを「あらゆる階級の言葉に通じ、それを常に話していた」「最もよくブルジョワジーを代表した人物」と評価していました。

このようにルイ・フィリップは、自由主義と立憲主義を採用して貴族性を廃止するなど、ブルジョワジーの支配体制を構築。「国民王」と呼ばれるほどになります。

その一方で、選挙権をもっているのは全国民の0.6%にすぎず、産業革命が進行するなかでブルジョワジーがますます裕福になるのに対し、労働者であるプロレタリアート階級はいまだに無権利に等しい状況。不満を溜め込んでいきました。

また「7月革命」の余波はフランス国内にとどまらず、ポーランドやイタリアなどヨーロッパ各地に波及し、1815年に構築された国際秩序「ウィーン体制」を揺るがせることになります。

ウィーン会議によってオランダ連合王国に統合されていたカトリック系の南ネーデルラントでは、プロテスタント系のオランダからの支配に抵抗する暴動が起き、「ベルギー独立革命」に発展していきました。

2月革命の背景と目的を簡単に解説!

 

1848年のヨーロッパでは、イタリア、オーストリア、ドイツ、デンマーク、スイス、ポーランド、イギリスなど各地で革命が起き、結果としてウィーン体制が崩壊することになりました。これらを総称して「1848年革命」または「諸国民の春」といいます。

フランスで起こった「2月革命」も一連の革命のひとつ。1848年2月23日から12月2日にかけて起こりました。

これまでの「フランス革命」や「7月革命」と大きく異なる点は、革命の主体を担ったのがブルジョワジーではなく、プロレタリアートだったことです。

ヨーロッパでは、1845年から1848年にかけて、ジャガイモを枯らす胴枯れ病が発生。プロレタリアートにとってジャガイモは主食で、特に被害の大きかったアイルランドでは人口の2割が死亡、2割が国外に脱出する事態に陥ったそうです。

フランスでもジャガイモの値段が4倍に、小麦の値段が2倍になり、人々の生活を圧迫していました。しかし、人口の約0.6%しか選挙権をもっていなかったため、議会は特権階級に独占されており、有効な手を打ちません。

そんななか、より広い民衆の声を取り入れるべきだという、選挙制度の改革を求める声が巻き起こります。しかしフランソワ・ギゾー首相は「選挙権が欲しければ金持ちになれ」と言い、耳を傾けようとしません。

これに対し、民衆は不満のはけ口として「改革宴会」と呼ばれる政治集会を開くようになります。1848年2月22日にシャンゼリゼ通りで開かれた改革宴会は、雨にもかかわらず大勢が集まり、大規模なデモに発展。ギゾー首相の辞任を求めて議会に押し寄せました。

政府は改革宴会の解散を命じますが、民衆は応じません。猟騎兵が攻撃を開始し、民衆もバリケードと投石で応戦しました。この戦いのなかで2人の女性が亡くなると、人々の怒りは頂点に達します。

翌2月23日、国王のルイ・フィリップはギゾー首相を罷免しますが民衆の怒りは収まらず、2月24日にはついに武力衝突へ。民衆と戦うことを望まないルイ・フィリップは退位を決断し、ロンドンに亡命しました。こうして、7月王政は18年間で瓦解してしまったのです。

乱入した民衆に議会が踏みにじられる混乱のなか、政局を握ったのは外交官を経て政治家になった、アルフォンス・ド・ラマルティーヌ。ラマルティーヌは王政を拒絶し、共和制を主張。フランスは第二共和政へと移行していきます。

2月革命の結果。その後のフランスはどうなった?

 

第二共和政を発足させたラマルティーヌの臨時政府。最初に直面した課題が、「国旗問題」です。「2月革命」の主体となったプロレタリアートは、赤旗を国旗に採用することを求めていました。

しかし赤旗は、「フランス革命」時に戒厳令旗として用いられていたもの。ラファイエット将軍が急進派を弾圧する「シャン・ド・マルスの虐殺事件」を起こした際に、抗議する意味を込めて採用され、以降社会主義者や共産主義者が使用していたのです。

穏健派だったラマルティーヌは急進的な革命に反対していて、プロレタリアートの要求する赤旗の掲揚を拒絶し、三色旗をフランスの国旗と定めました。

ただそれ以外は、生存権や労働権、団結権などの諸権利を認め、言論・出版の自由を保障し、労働制を廃止するなどプロレタリアートが望む社会問題の解決に向けて取り組み、支持を繋ぎとめようと努力します。

3月2日、臨時政府は成人男子の選挙制を布告。6ヶ月以上の居住資格をもつ21歳以上の男子に選挙権が与えられ、有権者は「2月革命」前の25万人から、900万人にいっきに増大しました。

新しい選挙制度のもとで初めておこなわれる総選挙は、4月23日に実施。事前の予想に反し、880議席中600議席を穏健共和派が、200議席をヴィクトル・ユーゴーが率いる保守派が占め、社会主義者や共産主義者の革命派は80議席にとどまりました。

これは、臨時政府の取り組みが地方の農民などから支持された一方で、急進的な革命派が掲げた政策は敬遠されたということ。

これ以降、革命を収束させて第二共和政を安定させたいブルジョワジーと、革命を前進させたいプロレタリアートの間で、階級闘争が激しくなっていくのです。

革命派は「議会乱入事件」、「6月蜂起」と呼ばれる大規模な武装蜂起を起こします。「6月蜂起」では政府側と革命派側をあわせておよそ4000人の死者を出す惨劇となりました。ブルジョワジーとプロレタリアートの関係は完全に決裂。ブルジョワジーは保守的な政府を支持しつつ、反政府的なプロレタリアートによる社会主義革命を警戒するようになり、市民革命は終焉を迎えるのです。

過激な行動に出る革命派への忌避感と、社会主義者を弾圧する政府に対する反発で、双方が民衆の支持を失うなか、「第三の選択肢」として頭角を現してきたのが、ナポレオン・ボナパルトの甥にあたるルイ・ナポレオンです。

ルイ・ナポレオンは亡命先のイギリスから帰国し、11月におこなわれた大統領選挙に出馬。得票率74.2%という圧勝で大統領に就任します。臨時政府を主導してきたラマルティーヌも出馬しましたが、すでに民衆の支持を失っていて、得票率は0.2%でした。

ただ第二共和政下における大統領の権力は弱く、議会からさまざまな制限を課されます。

するとルイ・ナポレオンは1851年に議会に対してクーデターを敢行し、権力を掌握。翌1852年には皇帝に即位し、第二帝政を発足。こうして「2月革命」で誕生した第二共和政は、わずか4年で姿を消したのです。

読んでおきたいフランス文学の金字塔。「7月革命」後の世の中が舞台

著者
ヴィクトル・ユゴー
出版日
2012-12-18

 

フランス文学の金字塔ともいわれ、日本でも映画や舞台などで上演されてきた『レ・ミゼラブル』。本作は、現代の読者にもわかりやすいように、コンパクトにまとめ直しています。

1本のパンを盗んだことをきっかけに、19年間も監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンが主人公。物語の舞台は、ナポレオン1世が没落した1815年から、7月王政真っ最中の1833年までの激動の時代です。作者のヴィクトル・ユーゴー自身、28歳の若さで7月革命を目の当たりにしているため、その描写はリアルなものだといえるでしょう。

復古王政を打倒した7月革命は、芸術の分野にも大きな影響を与えていて、なかでも有名なのがフランスのロマン主義を代表するドラクロワの代表作「民衆を導く自由の女神」です。「7月革命」のパリ市街戦を題材にしたもので、『レ・ミゼラブル』の登場人物ガヴローシュのモデルになったともいわれています。

完訳本はなかなか難解だといわれていますが、本作は大筋はそのままに、それでいて読みやすく編集されているので、人生で1度はチャレンジしてほしい作品です。

当事者が語る、フランス「2月革命」の回想録

著者
アレクシス・ド・トクヴィル
出版日
1988-01-18

 

作者のアレクシス・ド・トクヴィルは、ノルマンディー地方の貴族出身で、その生涯において司法・行政・立法のすべてに携わった政治家です。

ジャクソン大統領時代のアメリカを見聞して『アメリカの民主政治』を執筆。また平民出身のイギリス人女性と結婚したリベラルな人物でもあります。

そんなトクヴィルは、「2月革命」の際は外務大臣の要職にあり、第二共和政の権力闘争を近くで見ていました。指導者たちの容姿はもちろん、思想や内面にいたるまで、彼だからこそ書くことができる「2月革命」の回想が綴られています。

冷静な筆致と的確な分析が魅力的。フランスの歴史に興味のある方はぜひ読んでみてください。