三十代半ばになり、日本茶が美味しいと思うようになった。まだ珈琲や紅茶の方がよく飲むのだけれど、氷を入れた水出しの緑茶は気持ちまでさっぱりするし、寒い日に飲む熱いお茶は、心をホッと和らげてくれる。
母は昔から食後に必ずお茶を淹れた。小さい頃は何の感情もなく飲み干していたが、今はその渋さのあとにくるほんのりとした甘い味わいや喉を通る温かさが好きで、家族とゆっくりお茶をすするその時間ごと、たっぷり味わうようにしている。
自分でもそんな時間が持てたら、と思い何年か前に急須を購入した。高いものではないが、アンティークゴールドのずっしりとした色味とざらざらした質感がかっこよくて気に入っている。しかも大きめのサイズなので、何度も淹れる必要がないし、洗いやすくて使い勝手がいい。お気に入りのものがキッチンにあるのが嬉しくて、食後やちょっと休憩したいときなど、お茶を淹れるようになった。
お茶は旅先で買ったものや頂いたものがなかなかなくならないので、それを飲んでいる。袋を開けるたびに何とも言えない清々しい香りがして気持ちいい。新鮮な緑の香り。高級なものほどそれが濃いような気がする。本当は淹れ方や温度にこだわった方がより楽しめるのだろうけど、今は“急須でお茶を淹れて飲む”ということ自体に満足しているし、あまり追及するとめんどくさくなってしまいそうなので、自分にできる範囲でお茶の時間を持つことにしている。
しかしふと、お茶を袋に入れたままにしているのはよろしくないのかも…と思うようになった。缶入りのお茶であればいいが、袋に入っているお茶は一度開けてしまうとその後はスナック菓子のために買ったクリップで封をしている。まぁ劣化したとて味の違いに気が付くほど繊細ではないのだが、せっかくの新鮮な香りを損なうのは残念だ。
それに、母が使っている茶筒が何となく好きだった。おそらく古いものであろうそれは、見た目が特別に素敵なわけではないが、蓋を開ける時のスポンという感触が心地いい。ズボラな私でも、お茶を茶筒に移すくらいのことはできるだろうと思い、早速買いに行った。
行く前に何となく目ぼしいものを見つけておきたくて、インターネットを探ってみた。しかしこれだと思うものはなく、とりあえずキッチン用品などが売っているであろうインテリアショップへ向かった。
着いてみると、店内にはたくさんの商品が並べられていてなかなかそれらしき物が見当たらない。おまけに気合いを入れてオシャレな店へ来てしまったので、そもそも茶筒自体が売っているのかどうかも不安になってきた。諦めて別の店へ行こうかと思ったが8キロ超えの娘を抱っこしていたのであまり動く気になれず、意を決して店員さんに尋ねてみることにした。
私は店員さんと話すのが異常に苦手だ。常に感じよくしたいとは思うのだが、緊張してしまい、話しかけられたとしても「・・・はぁ」と吐息のようなウィスパーボイスで返事してしまう。しかし娘が産まれてから話しかけられる機会が増え、よりきちんと話さなければならない状況も多くなったので、多少は鍛えられてきている。
私は一人の店員さんに近づき背後から「すみません」と声をかけた。やはり声が小さかったのか振り向いてもらえない。もう一度、さっきよりは少し大きめの声を出す。
「すみません」
今度は届いた。「はい!」と明るい声で、女性の店員さんが振り返る。「茶筒・・・」と言いかけたところで、私はハッとして固まってしまった。
(茶筒って茶筒でいいのだろうか?ズボンをパンツ、パーカーをフーディーなんて呼ぶように、今は何かしら名前が変わってるかも。だから茶筒を検索しても商品があまり出てこなかったということもありえる。きっとそうだ。・・・ティーポット?だったら急須の方が出てくるか。て言うか、そもそも茶筒って“ちゃづつ”でよかったっけ?当たり前にちゃづつって呼んでたけど、読み方を習った覚えもないし、誰かと茶筒について話したこともない。もしかして“ちゃとう?”いや、変か。・・・さとう、さづつ?いやいや、それより茶筒の別の言い方調べておけばよかった)
こんな感じの迷いが数秒のうちに頭の中を駆け巡り、あわあわと狼狽える。どうしよう。しかしもう声をかけてしまっている。自分から声をかけといて無言。変な人だ。ヤバい。何か言わなくちゃ。不審に思われる前に(思われてただろう)私は口を開いた。
「お茶を入れる筒みたいなんありますか?」
店員さんは一瞬不思議そうな顔をした後に、しばらく考えるような素振りを見せた。そしてこう言った。
「・・・茶筒(ちゃづづ)でございますか?」
そうでございます。合っていました。ちゃづつで正解でした。・・・それなら最初からちゃづつと言えばよかった。完全なるアホ。やってしまった。
「・・あ、あぁ!はい、それです」と謎に元気よく答える私。さも、「そうそう!ちょっと名前が出てこなかったのよね~」みたいな雰囲気で答えてはみたものの“茶を入れる筒”まで出てきていて“茶筒”が出てこない人なんてまずいないだろう。そして、そんな人なんていないのだから店員さんは茶筒以外の可能性を考えてくれたのだろう。恥ずかしい。このまま帰りたい。しかし茶筒は買って帰りたい。
店員さんは(何やコイツ)という表情をサッと隠して「確かこっちの方に・・・」と案内してくれた。すると、そこは見るからに高級そうなエリアだった。広々とした棚にポツン、ポツンと大事そうに急須や茶器が並べられている。これはやばい。空間を贅沢に使っているディスプレイは高い証拠だ。
茶筒なんて2,3千円で買えるだろうと思っていたけど、この並びにあるとしたら諭吉だ。一枚じゃ足りないかもしれない。だったらどうしよう。聞いといて買わずに店を出るのはタイミングが難しい。あぁ、やっぱり声なんてかけるんじゃなかった・・・と思っていると「すみません、今切らしてますね。」と店員さんの声が聞こえた。神の声である。安堵。ありがとうございます!と軽やかに店を出た。
私はこの手のミスをよくやる。自信がなかったり、恥をかくのがいやだからと予防線を張ったのに、盛大にそれにつまずくのだ。こんなことも知らないのかと思われるのが恥ずかしいので知ったかぶりをして深みにはまったり、人見知りを隠そうとして逆にコミュニケーション不足を露呈させたりしてしまう。
知らないことは知らないと言えばいいし、コミュニケーションが苦手なら堂々とモジモジすればいい。その方がかっこいいし、そうできる人が羨ましくあるのだが、どうもそれができない。何だか以前にもこんな記事を書いた気がするが、そこから全く成長していないのだろう。いつでもこんなことで悩んでいる。
しかし34歳になり、いよいよそう遠くない将来として40代が見えてきた。40を超えてからの方が楽しいという女性の話は度々耳にする。とは言っても体力は衰えるだろうし、お肌の調子とかも今より悪くなりそうで、どうにもそれが腑に落ちずにいた。では楽しい40代を迎えるためにはどうすればいいのだろう。
20代は“真剣にバカをやる大人”のことをかっこいいと思っていた。だが30代になるとバカだと思われることが怖くなった。しかし今回、茶筒を茶筒だと言えないことが一番息苦しいのかも、と思った。
もし間違っていたとしても「あ!そう読むんですね!知らなかった!」とペロリと舌でも出せばいいだけの話だし、実際そう正直に言える人がいたら可愛いし素敵だと思う。“茶を入れる筒みたいなもの”なんて不自然極まりない。
無駄に恥をかいたことで一つ勉強になった。40代と言うか、どの世代でもきっと“素直であること”が一番楽だし、生きやすいのだと思う。これからも恥をかくのは恥ずかしいので、いきなりは直せないだろうが、せめて40歳くらいまでにはわからないことをわからないと言える女性を目指したい。
ちなみに茶筒は二軒目に行ったお店で無事手に入れることができた。真っ白いシンプルなもので、スポンという感触もちゃんとあり、気に入っている。「茶筒はどこですか?」とハキハキした口調で尋ねたかったが、そうすることもなくあっさりと見つかった。大切に使って、お茶を淹れる度に、その深い味わいとともにこのことを思い出したい。素敵な40歳になるために。
- 著者
- 今村夏子
- 出版日
- 2019-12-06
出生直後から病弱だったちひろを救おうとした両親はあやしい宗教にハマります。どんどんのめり込んでいく両親と、そんなふたりに育てられるちひろ、そしてその姉。家族の形は徐々に歪んでしまいます。
“宗教”“歪み”などと聞くと、暗い物語を想像してしまいますが、登場人物の純粋さと素直さが際立っていて、むしろその逆。自分のひねくれ加減をあぶり出されたような気持ちになりました。何でも疑ってかかるような世の中にこんな物語が広がれば、皆の心が穏やかになって平和になるんじゃないかと思いました。
- 著者
- マヒトゥ・ザ・ピーポー
- 出版日
- 2019-05-23
GEZANというバンドのボーカルであるマヒトゥ・ザ・ピーポーが書いた初めての小説。それぞれの人生をそれぞれの場所で生きる人たちに届いた『通達』によって、日常の景色が変わっていき、タイムリミットまでをどう過ごすのかを描いた物語です。バンドでは作詞作曲も行っているという著者は、きっとずっと頭の中に言葉が溢れて仕方ないのだろうなという印象を受けました。
全編が詩的な文章で構成された作品はひねくれているようにも思えますが、むき出しの素直さも感じられるようで、こんな風に自分の内側をさらけ出せることが少し羨ましく感じました。
小塚舞子の徒然読書
毎月更新!小塚舞子が日々の思うこととおすすめの本を紹介していきます。