パレスチナ問題とは。イギリスが悪い?発端、経緯、現状をわかりやすく解説

更新:2021.11.21

20世紀初頭から現在にいたるまで、混迷する中東情勢の大きな要因となってきたのがパレスチナ問題です。この記事では、問題の発端といわれるイギリスの三枚舌外交や、これまでの経緯などをわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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パレスチナの歴史。紛争の舞台となり、16世紀にオスマン帝国に支配される

 

現在のパレスチナ一帯は、もともと「カナン」と呼ばれていました。聖書には「乳と蜜の流れる場所」と記されていて、神様がユダヤ教・キリスト教・イスラム教の始祖であるアブラハムとその子孫に与えると約束したことから「約束の地」とも呼ばれています。

紀元前10世紀頃、古代イスラエルの王だったダビデは、この地に栄えていたペリシテ人を倒し、エルサレムをイスラエル王国の首都としました。その後イスラエル王国は、ソロモン王の時代にエジプトと友好関係を結んで勢力を増していきます。

しかし、やがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、弱体化したことで、アッシリアやバビロニア王国の侵略を受け、両国は滅亡しました。ユダ王国の遺民は捕虜として囚われ、「ユダヤ人」と呼ばれるようになります。

その後パレスチナは、マケドニア王国やセレウコス朝シリアなどの支配を受けた後、ローマ帝国のユダヤ属州に。ユダヤ人たちは独立を目指して「ユダヤ戦争」を起こすものの鎮圧され、135年にシリア・パレスチナ属州と名称が変更されました。この地がパレスチナと呼ばれるようになったのは、これ以降だといわれています。

ローマ帝国が衰えた後は、イスラム帝国の侵入を受け、11世紀以降はイスラム帝国と十字軍の戦いの場となりました。16世紀にはオスマン帝国に支配されます。

パレスチナの中心都市エルサレムは、紀元前30世紀頃に建造された世界最古の都市のひとつで、ユダヤ教の「嘆きの壁」、キリスト教の「聖墳墓教会」、イスラム教の「岩のドーム」という3つの聖地が存在することから、世界の中心ともいわれています。

3つの宗教の聖地が同じ都市に存在するという特異な状況は、パレスチナがヨーロッパ、アジア、アフリカの結節点にあたる交通の要衝にあること、それゆえに古代からさまざまな勢力の紛争の舞台となってきたことが理由として挙げられます。そして現代のパレスチナ問題の背景にも、このような複雑な歴史が影響を与えているのです。

 

パレスチナ問題の発端は?「第一次世界大戦」におけるイギリスの「三枚舌外交」とは

 

パレスチナが北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、いずれも滅びた後、移民として各地に移住するユダヤ人が現れました。この動きを「ディアスポラ(民族離散)」といいます。

しかしユダヤ人は、ヨーロッパでは「キリスト殺し」の罪を背負うものとみなされていて、迫害の対象となるのです。農業に必要な土地の所有、職人に必要なギルドへの加入、商売に必要な店舗の保有などが認められず、ユダヤ人ができるのは行商や芸能、金融などに限られました。そんななか彼らは教育に力を入れ、経済的に成功する者が出てくるのです。

なかでも、フランクフルト出身のユダヤ人、マイアー・アムシェル・ロートシルトが基礎を築いたるロスチャイルド家は、18世紀後半から、銀行業、鉄道事業、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などを通じて莫大な富を手にしました。

この頃のヨーロッパは、1789年に起きた「フランス革命」でユダヤ人解放が実現する一方で、ルソーやヴォルテール、カント、モンテスキューら啓蒙主義者達を中心に反ユダヤ主義が盛んに唱えられているという状況です。

そんななか、オーストリアのユダヤ人ナータン・ビルンバウムが「シオニズム運動」を考案します。これは、聖書にある「私はシオンに帰り、エルサレムの只中に住もう」という言葉に由来するもの。シオンはエルサレム市街にある丘の名前で、パレスチナに故郷を再建しようと働きかけ、この運動を支持する人は「シオニスト」と呼ばれました。

1914年に「第一次世界大戦」が勃発すると、ロスチャイルド家の協力を得たいイギリスがこのシオニズム運動に目をつけます。

イギリス外相のアーサー・バルフォアがライオネル・ウォルター・ロスチャイルド男爵に書簡を送り、ユダヤ人の「シオニズム運動」を支持することを表明。その見返りとして莫大な資金援助を得ることに成功します。これを「バルフォア宣言」といいます。

一方でイギリスは、現地のアラブ人に対し、オスマン帝国への武装蜂起をに呼び掛けていました。1915年に「フサイン=マクマホン協定」を締結し、見返りとして、戦後の独立を認めるのです。

さらに1916年には、連合国であるフランス、ロシアとの間で戦後の中東分割を協議し、パレスチナをイギリスとフランスの共同統治下に置くとする「サイクス・ピコ協定」を締結します。

イギリスが矛盾する内容の3つの協定を結んだことは「三枚舌外交」と呼ばれ、批判の的になるとともに、パレスチナ問題の発端となりました。

 

現在のパレスチナ問題の原因は?「パレスチナ分割」と「中東戦争」

 

「第一次世界大戦」が終結した後、パレスチナはイギリスの委任統治領になりました。国際連盟で決議された「パレスチナ委任統治決議」の序文には、「ユダヤ人の民族郷土をパレスチナに確立することに責任を負うべきである」と記されています。これは「バルフォア宣言」の条文とほぼ同じものです。

もともとシオニズム運動の目的は「ユダヤ人の故郷」を作ることであり、「国家」を作ることではありません。しかし「民族郷土」という概念自体が前例のないものであり、不明確であったことが、ユダヤ人とパレスチナ人の間に対立を生むことになるのです。

ユダヤ人の帰還運動が進み、パレスチナへの移住者が増えてくると、ユダヤ人は自治の拡大を求めるようになりました。シオニストのなかにはユダヤ人の国家建設を求める過激派も現れ、この動きをパレスチナ人が危惧したことで、両者の関係は悪化していきます。

そんななか、1936年にパレスチナ人による大規模な反乱が起きました。事態を憂慮したイギリスは調査団を派遣し、パレスチナを2つの国家に分割する「ピール分割案」を提案します。

しかしこの提案は、ユダヤ人とパレスチナ人双方から拒絶されます。これ以降、イギリスの中東政策は人口の多いパレスチナ側を重視するようになり、ユダヤ人のパレスチナへの移住が制限されるようになりました。

するとユダヤ人の過激派組織は反イギリステロを起こすとともに、アメリカとの間に協力関係を構築していきます。

「第二次世界大戦」が終結すると、アメリカはイギリスに対し、移民制限を撤廃し、ホロコーストの生存者である10万人のユダヤ人難民をパレスチナに移住させることを求めました。しかしアメリカの要求を飲めば、今度はパレスチナ人から新たな反乱が生まれることは確実。

板挟み状態に陥ったイギリスは、パレスチナの委任統治を断念し、パレスチナ問題を国際連合に提起します。1947年5月15日、国際連合は「国連パレスチナ特別委員会」を設立。賛成派と反対派双方による熾烈な票獲得のすえ、賛成33、反対13、棄権10、欠席1で分割決議が採択されました。

この決議で、パレスチナの人口の3分の1に過ぎないユダヤ人に土地の56.5%が、人口の3分の2を占めるパレスチナ人には43.5%が与えられるものとされ、両者が首都と主張するエルサレムについては国際管理とすることが定められます。アラブ人は反発し、パレスチナは内戦状態となりました。

1948年2月、アラブ連盟加盟国は、「ユダヤ人によるイスラエルの建国阻止」を決議します。しかし5月にイギリスによるパレスチナ委任統治が終了すると、ユダヤ人はイスラエルの独立を宣言。同時にアラブ連盟5ヶ国がパレスチナに侵攻し、「第一次中東戦争」が勃発しました。

結果として勝利したのは、イスラエル。一部の地区を除くパレスチナの80%を得ることになりました。エルサレムは旧市街をヨルダン、新市街をイスラエルが占領し、イスラエルによる大量虐殺や脅迫から逃れるために約80万人のパレスチナ人が難民となるのです。

この一連の出来事は、パレスチナ人を含むアラブ社会では「ナクバ(大災厄)」と呼ばれています。

 

パレスチナ問題の現在。パレスチナとイスラエルの関係は

 

イスラエルとアラブ連盟による中東戦争は、第4次まで続きます。最終的にはアメリカの和平交渉によって1978年に「キャンプ・デービッド合意」が成立し、1979年3月に連盟の盟主であるエジプトとの間に平和条約が調印されたことで終結しました。

その一方で、パレスチナ人は1964年に結成された「PLO(パレスチナ解放機構)」を中心に、1987年から「第一次インティファーダ」と呼ばれる抵抗運動を展開します。

この運動でイスラエル側に160人、パレスチナ側に1162人の犠牲者が出たそうです。非武装のパレスチナ人に対して、イスラエル軍が実弾射撃をしたことで、国際世論からの批判が集まり、中東和平を求める声が高まります。

この流れを受けて、1993年にはアメリカのビル・クリントン大統領による仲介で、「イスラエルを国家とし、PLOをパレスチナ自治政府として相互に承認する」ことを趣旨とする「オスロ合意」が締結。パレスチナ自治政府が発足しました。

この合意は国際的にも高く評価され、イスラエルのラビン首相、シモン・ペレス外相、PLOのアラファト議長は1994年に「ノーベル平和賞」を受賞しています。

しかし1995年にはラビン首相が暗殺されるなど、和平合意に反対する勢力も大きく、イスラム原理主義勢力によるテロも頻発。2006年にはイスラエルが急進的イスラム主義組織ヒズボラを攻撃するためにレバノンに侵攻したため、オスロ合意は事実上破棄されました。

2008年から2009年にかけては、ガザ地区を統治する武装組織ハマスとイスラエル軍の間で「ガザ紛争」が勃発。イスラエルはガザを封鎖し、たびたび大規模な軍事攻撃を加えました。停戦後も物資の搬入に厳しい制限が課されていることから、復興は進んでいません。

またイスラエルは、ヨルダン川西岸地区の60%ほどを占領下に置き、ユダヤ人による入植地を建設。2002年以降は「イスラエル側の安全確保」を目的とする高さ8mもの壁を作り、両者を分断しています。

パレスチナ人の難民は、1948年のイスラエル建国から3世代目、4世代目を数え、その数は500万人を超えました。難民キャンプで無国籍状態で暮らしていて、社会的権利がない人が多くいるのです。

ただ2010年から2012年にかけて発生した「アラブの春」以降、パレスチナの独立を認めようとする機運が国際社会で高まり、2011年にはユネスコへの加盟が承認。2012年には国際連合総会に参加する資格も格上げされました。

しかし2016年のアメリカ大統領選挙で「親イスラエル」の姿勢を明確にするドナルド・トランプが当選すると、2017年12月には国際社会の反対の声を無視してエルサレムをイスラエルの首都として承認。全面的にイスラエルの主張に沿った和平案を提案して、パレスチナ人の反発を招いています。

パレスチナ問題は泥沼化の様相を呈し、解決の糸口はまだ見えていないといえるでしょう。

 

現地取材をわかりやすくまとめたパレスチナ問題の入門書

著者
高橋真樹(たかはし・まさき)
出版日
2017-04-18

 

作者の高橋真樹は、1997年に初めてガザを訪問して以来、たびたび現地を訪れ、取材を重ねてきました。本書ではパレスチナの子どもたちに焦点を当て、パレスチナ問題を考えていきます。

イスラエルが建国し多くのパレスチナ難民が発生してから70年以上が経ち、新たな世代にとっては現状が日常になってしまっています。しかし、壁に囲まれ、攻撃の恐怖にさらされながら生活することは、決して普通のことではありません。

多くの日本人にとって、パレスチナ問題はニュースで見聞きする遠い場所の話という認識で留まっているかもしれませんが、パレスチナを知ることは世界情勢を知ることにも繋がります。

文章自体はやさしい言葉で綴られているので、パレスチナ問題を知る入門書として、ぜひ読んでみてください。

 

パレスチナ問題を漫画でわかりやすく解説

著者
山井 教雄
出版日
2015-08-20

 

本書は、ユダヤ人の少年ニッシムとパレスチナ人の少年アリを中心に、パレスチナ問題をわかりやすく説明した作品。語り部は知恵のある「ねこ」で、イラストも豊富でキャッチーなため、中学生から読むことができるでしょう。

2000年代から2015年までの間、「アラブの春」や「IS」の台頭などで、中東情勢はさらに混迷を深めました。宗教や民族などの歴史が複雑に絡みあい、パレスチナ問題の解決はさらに遠のいているように見えます。

一体どうすれば解決することができるのか、考えるきっかけになる一冊です。

 

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