5分でわかる安保闘争!いつ、なぜ起こったのか、学生運動等わかりやすく解説

更新:2021.11.21

1960年と1970年の2度にわたっておこなわれた「安保闘争」。日米安全保障条約をめぐる大規模なデモ運動です。この記事では、いつ、なぜ起こったのかを学生運動なども含めてわかりやすく解説していきます。おすすめの本も紹介するので、チェックしてみてください。

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安保闘争とは。いつ、なぜ起こったのか背景を解説

 

「安保闘争」は、世界が冷戦の真っ最中だった1959年から1960年、そして1970年の2度にわたって日本で起こった、「日米安全保障条約」をめぐる大規模なデモ運動です。「60年安保」「70年安保」とも呼ばれます。

参加したのは、日本社会党、日本共産党などの左翼政党、日本労働組合総評議会(総評)などの労働者、日本共産党から分裂した急進派学生らが結成した共産主義者同盟(ブント)と、彼らが主導する全日本学生自治会総連合(全学連)の学生など。

しかし闘争の激化によって、やがて多くの一般市民にも波及していくことになるのです。

「安保闘争」の背景にあるのは、「日米安全保障条約」の存在です。1951年9月8日、日本はアメリカのサンフランシスコにて、「第二次世界大戦」で連合国側として参戦した49ヶ国と「サンフランシスコ平和条約」を締結しました。

本来であれば、これにて日本に駐留していた占領軍は撤退するはずでしたが、「サンフランシスコ平和条約」の第6条(a)項には、「連合国のすべての日本占領軍は本条約効力発生後90日以内に日本から撤退。ただし、この規定は日本を一方の当事者とする別途二国間協定または多国間協定により駐留・駐屯することを妨げるものではない」と定められていたのです。

この条項を根拠に「サンフランシスコ平和条約」と同時に締結されたのが、「日米安全保障条約」。これによって、アメリカ軍は引き続き日本に駐留することが可能になりました。

当時の日本の防衛体制は非常に脆弱なもの。終戦にともない旧日本軍は解体されていて、1950年8月に警察予備隊を創設したものの、定員数はわずか7万5000人にすぎません。そんななか世界では、「朝鮮戦争」に代表されるように、冷戦が激化していました。

「日米安全保障条約」を締結することで、日本は、戦争で破壊された国土を再建し防衛力を整えるまでの時間を稼ぐことができ、またアメリカが防衛費を負担すればその分を経済復興にまわすことができると考えていました。

一方でアメリカにとっても、「朝鮮戦争」を戦う際の後方基地・補給拠点の確保として日本を活用できるうえ、日本が東側陣営に回って再び敵となることを防衛できるというメリットがありました。

1950年代中頃になると、日本経済は朝鮮特需や神武景気によって持ち直し、高度経済成長期へと移行していきます。政治も自由民主党と日本社会党という「55年体制」が構築され、安定していきました。

しかし1957年に、アメリカ兵士のウィリアム・S・ジラードが日本人主婦を射殺する「ジラード事件」が発生。日本とアメリカの双方が裁判権を主張したことから、「日米安全保障条約」の不平等性が問題視されるようになります。

さらに同年、内閣総理大臣に就任した自由民主党の岸信介が、「日米安全保障条約」の改定に乗り出すと、その内容に安保廃棄を掲げる日本社会党が抵抗。そのほか多くの市民も、改定したことで日本が再び戦争に巻き込まれるのではないかと危機感を抱き、「安保闘争」が起こったのです。

 

安保闘争の背景にあった「日米安全保障条約」とは。何に反対した?

 

新たな「日米安全保障条約」は、改定交渉のすえ、1960年1月19日にワシントンで締結されました。

その後、アメリカのアイゼンハワー大統領が訪日する6月19日までに批准したいとし、衆議院の仕組みによって自然承認が成立するギリギリのタイミグとなる5月20日に、衆議院本会議で条約承認を採決します。

この採決に対し、反対する日本社会党の議員らは、議長を監禁して抵抗。しかし警察によって排除されました。多数の議員が壇上に押し掛けるなか、マイクを握って強行採決をした議長の姿が報道されると、「安保闘争」が激化していくことになるのです。

新しい「日米安全保障条約」では、日米共同防衛の明文化、内乱条項の削除、在日米軍の配置・装備に対する両国政府による事前協議制度の設置、条約の期限を10年とすることなどが定められます。

「日米安全保障条約」に反対する人たちは、共同防衛によって、日本がアメリカの戦争に巻き込まれる可能性が高まるのではと疑念を抱くとともに、裁判管轄権が日本にないことを問題視。

日本社会党や日本共産党は構成員を動員して「反安保」のキャンペーンをおこない、総評は国鉄労働者を動員して「時限スト」を実施。全学連は「国会突入戦術」をとりました。

その背景には、日本とアメリカを離したいソ連の思惑も働いていたようで、対日工作の中心的存在であったイワン・コワレンコは自身の著作のなかで「社会党、共産党、総評などの勢力にかなり大きな援助を与えた」と記しています。

5月20日に衆議院でおこなわれた強行採決は、「民主主義の破壊である」と喧伝され、「安保闘争」は一般市民にも拡大していきました。国会周辺は連日デモ隊が取り囲み、その動きは徐々に「反政府・反米闘争」に変容していきます。

これに対し岸信介首相は、右翼団体と、暴力団関係者を用いて対抗。この事態に、石橋湛山、東久邇稔彦、片山哲などが事態を収めるために首相退陣を勧告しますが、岸信介は応じません。

6月10日には、来日したジェイムズ・ハガティ大統領報道官が、羽田空港周辺に押し寄せたデモ隊に包囲され、海兵隊のヘリコプターで救出される事件が発生。

6月15日には国会内に突入したデモ隊と機動隊が衝突し、東京大学の学生が死亡しました。これをきっかけに学生が暴徒化し、この日に負傷者約400人、逮捕者約200人、警察側の負傷者約300人が発生しました。

結局「日米安全保障条約」は、参議院の議決がないまま6月19日に成立。アイゼンハウワー大統領の訪日は中止となります。岸信介首相は混乱を収拾しようと6月23日に総辞職し、池田勇人内閣が成立すると「60年安保」は急速に鎮静化していきました。

 

安保闘争は学生運動に発展。どのようなものだったのかわかりやすく解説

 

一時は沈静化した「安保闘争」ですが、「日米安全保障条約」の期限を迎えた1970年に再燃します。「70年安保」です。

その目的は、条約の自動延長を阻止し、条約破棄を通告すること。全共闘や新左翼諸派の学生たちは盛んに学生運動をし、全国各地の大学でバリケード封鎖を実施。「70年安保粉砕」をスローガンにデモをおこないました。

「安保闘争」は、反戦運動や沖縄返還を求める運動などとも結びつき、日大紛争、東大安田講堂事件などを引き起こしました。ヘルメットとゲバルト棒で武装をし、投石や火炎瓶を使用して機動隊と戦うデモ隊の姿が、日夜報道を賑わせることとなります。

これらの運動は当初、世論の一部からは支持されたものの、全共闘と共産党系組織、全共闘内部での抗争が激化していき、集団リンチや暗殺など、一般人まで巻き添えになる状態に陥ると、支持を失っていきました。

結局、「日米安全保障条約」の延長は滞りなく自動承認され、「70年安保」は収束します。

その後、国民の支持を失った左翼系団体のなかには過激化する組織もあり、1972年に連合赤軍が引き起こした「あさま山荘事件」は有名でしょう。

 

安保闘争を描いたおすすめ本①『安保論争』

著者
細谷 雄一
出版日
2016-07-05

 

不平等だった「日米安全保障条約」をより平等なものに改定しようとしていた岸信介首相。しかし新たな条約には「戦争法」のレッテルが貼られてしまいました。

アイゼンハワー大統領の訪日までに条約を成立させることにこだわり、結果として強行採決という悪いイメージが独り歩き。肝心な「日本の安全保障」をめぐる論争は置き去りにされたままです。

日本を戦争から守るためには、どうすればいいのか。どうすれば平和を実現することができるのか。この難問を考えるために、作者の細谷雄一が、外交史の見地から現代の安全保障を考察していきます。

日本のあるべき姿を考えるきっかけになる一冊です。

 

安保闘争を描いたおすすめ本『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』

著者
西部 邁
出版日
2018-06-08

 

保守派の論客として知られた西部邁。彼の言論活動のはじまりは、「60年安保」です。東京大学の学生だった西部は、共産主義者同盟(ブント)の一員として学生たちの指導的立場にいました。そのため、後に東大の教授となると、「裏切者」といわれることもあったそう。

本書は、そんな西部が自身の「60年安保」を振り返り、まとめたものです。

アメリカの反戦運動やフランスの五月革命、中国の文化大革命など大衆運動が熱を帯びた時代、日本でも多くの若者たちが闘争に参加しました。その渦中にいた本人が語る言葉には、重みと、そして虚無感があふれています。

副題につけられた「センチメンタル・ジャーニー」という言葉が胸に響く一冊。「安保闘争」当時を知ることができる一冊です。

 

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