3月。春の気配を感じる瞬間が日に日に増していく時期だ。職場や学校では、年度の替わり目が見えてくる。一般的な節目の数々との接点が薄い生活になって久しいが、そんな私でも、春になると、ちょっぴりソワソワした気分になるものだ。新しいクラスになること、新しい学校に通うこと、新しい仕事に就くこと。思えばいつも、私が感じるソワソワの大きな要因は、環境の変化に伴う人間関係を憂えたものだった。今回は、人間関係のお話です。
そんな風に思い始めたのは、小学生の頃だった。学年が上がるにつれて、クラスメイトの悪口を言う子どもが増えてきたのが原因だ。ホンシェルジュの最初の記事でも書いているが、早生まれの一人っ子としてのんびりと育っていた私は、唐突に誰かの悪口を聞かされて、ただ「何でそんな事を言うんだろう?」と思った。自分の事ではないけれど、「人ってそんな風に他人のことを見ているんだ…。」という視点を初めて突きつけられて、眉間のあたりをガーンと思い切りぶつけたかのように面食らった。
きっとそこで求められていたのは、知りもしない悪口に乗っかったり、面白く茶化したり煽ったりする、派手なリアクションだったのだろう。だからそういう子たちにとって私は、 “ 反応が悪いつまらない子 ” だったはずだ。実際その時、ファーストリアクションでしくじった私に会話が振られることは少なかったし、悪口を言い始めた子が積極的に話を振っていたのは、所謂 “ 良いリアクションで面白おかしく乗れる子 ” だった。
面白さがわからないから、何となく苦笑いをしているのだけど、いくら子どもとはいえ流石に愛想笑いには気付くわけで、そうするうちに、このつまらない子(=私)も悪口を言われたりした。クラスの中でみんなが順番に何かしらの陰口を言われる時期だったから、仲の良い友だちは他にいるし、別にどうでも良いかなと思って、具体的にどんな事を言われているのか追求もしなかった。
もちろん嫌な気持ちになって、学校に行くのがちょっと憂鬱だなと思う日もあったのだけれど、我関せずという態度が功を奏したのか、私の悪口ターンはそれほど長くなかった印象だ。その後、悪口グループともある程度仲良く過ごすのだが、愛想笑いをしてまで付き合うほど重要ではないと思っていたから、自分なりに無難な、一定の距離は取り続けた。
自分が良いと思わないものに迎合するのが苦手なのは、すでにこの頃から持っていた私の性格のようだ。びっくりすることに、こういう事は大人になっても繰り返しやってくる。あぁ人間ってなんて面倒なんだ、そういうところが嫌いだ。心のどこかで、そう思っていたのだった。
『気まずい愛想笑いは、もうしたく無い!』
中学生時代、そう思って行き着いたのが「気付かない人になる」ことだった。陰口を人生の楽しみにしているような人は、どんなコミュニティにも一定数存在するのだと、この頃になると察し始めた。中学生の女子ならば、なおさら。しかも大体そういうタイプの人間は、周囲を巻き込んでいくのだ。これは適当に相槌を打つのも危険だと思って、色々と試すうちに、自分なりの最適解を導き出すことができた。
【悪口・陰口の話題をやり過ごす方法】
①とにかく、同意しない。
②「そうなの〜?そんな風には見えないけどな〜?全然気付かなかったよ〜?(興味薄)」
③「ふーん、そうなんだー。(興味薄)」
この反応を貫いていると、不思議と良いリアクションを求められなくなったのだ。誰かが嫌われていることや、あの子ってちょっと変だよね、ということに一切気付かないような《ちょっと天然な子》で居ることで、面倒を最小限に抑えることができたと思っている。
そもそもこちらに話を膨らませる気がないのだから、話していて盛り上がる訳が無い。複数の子たちで噂話に花が咲いていたとしても、②を行使すれば「もう〜!気付かないなんて、さおちゃんはほんと天然なんだから〜笑。」ということで、なんとなく会話がひと段落するのも実証済みだ。
この立ち位置はとても有効だった。なぜなら、たとえ私が陰口の対象になっている人物を擁護しても、顰蹙を買う事が無かったのだから。この自分なりの最適解を見つけたことが、その後の私が、良いか悪いか “ 八方美人 ” と言われるようになった原点だろう。
- 著者
- 岸見 一郎 古賀 史健
- 出版日
- 2013-12-13
人間の面倒な部分は嫌いだが、基本的には性善説を信じたいと思っている。だから、どんな人でも、最初は好意的に受け入れる態勢なのだ。そして、ある程度の違和感は自分の中でフォローして許容できる。そういう意味で、私はきっとナチュラルボーン・八方美人だ。
基本的になぜか「ぶりっ子」のイメージは標準装備だし、大学時代は学校で菓子パンを買っているだけで「意外だね」と言われたり、気を遣えば「媚を売っている」だとか。そんなことだから、とにかく人目に触れるのが面倒で、大学一年生の頃は、一人暮らしをしていた家から夕方になるまで出られない時期もあった。社会人になった今でも、目の前や真後ろで悪口を言われたりする事があるのが、本当に驚きだ。
元々は、どれだけ嫌な思いをしても、特定の誰かを嫌いだと思ってしまう自分は嫌だなと思っていた。けれど、大人になるにつれ増えていった理不尽な思いを経験するうちに、そんな人たちを無理に “ 善い人 ” と思わなくて良いかなと、考え方を変えることにした。自分が “ NG ” と感じるような人間は、どれだけこちらが神経をすり減らして我慢しても、無遠慮にどんどん攻撃してくるものだ。世の中には、解り合えない人間同士もいる。
それで、一度 “ NG ! ”と思ったら、拒否反応を出して良いということにした。自分を消耗させる人間からは、離れるのが一番だ。そう決めたら、無駄な心労を減らす事ができた。“ NG ” の人たちに何と言われようと、使わずに済んだエネルギーは、もっと人に優しくするために使いたい。
ところで近頃、仕事関係の一部の方々から、「あざといキャラ」でいじられ始めた。「ぶりっ子」にしても「あざといキャラ」にしても、愛のあるキャラ付けは楽しい。善い人たちに囲まれていてこそ、 “ 八方美人 ” で在りたい、“ 八方美人 ”を極めたい、と思う。
人付き合いは腹8分目くらいが丁度良い、とはよく言われたもので、何となく私もそう思っていたのだが、ここ数年は新たな基準に設定し直した。どんなに仲の良い友人でも、60%くらいの距離感と気持ちでいると、ストレスは格段に軽減される気がする。
近すぎると、見えなくて良い所まで見えてしまったり、意見の違いに悩んだりすることがある。家族だって別の人格なのだから、友人や知人ならば当然、違和感を抱くことも価値観のすれ違いもあるはずだからだ。例外的に近い存在がいても、「本来60%くらいで良いものなのだ。」と思えば、大体のことは気にならないものだ。
意識的に遠ざける必要はないけれど、少し余白を持たせることで、その余裕の中で良質な人間関係を築くことができると、現在の私は感じている。たとえ連絡が密では無くとも、大切に思う存在は多かったりする。
- 著者
- 菅野 仁
- 出版日
- 2008-03-06
人間って面倒臭い。特に、肌の合わない人間関係は面倒だ。解り合えない人は、誰にでも必ず存在する。
けれどそれも全部含めて、いま私は、人間というものを面白いと思っている。そういう心境になってきたのは、落ち込んだり心を乱されたりを繰り返しながら、少しずつ、自分自身の存在を確立し始めた証なのかなと思う。その上で自分の嫌なことを認識できれば、人との付き合い方も変わってくる。善いものだけを残していけば良いという、とてもシンプルなことだと気付いたのだ。
少しモヤモヤしたときは、SEKAI NO OWARIの『Dragon Night』を聴くことにしている。この曲の歌詞を聴くと、ちょっとだけ寛容な気分になれるからだ。「自分だってもし立場が違っていたら、人を攻撃していたかもしれない。今そんな自分にならずに済んでいることに感謝しよう。」そんな気持ちにさせてくれる、好きな一曲だ。
- 著者
- SEKAI NO OWARI
- 出版日
- 2015-02-10
ただし…
もしあなたが攻撃されるなら、出来るだけ早く逃げてほしい。傷つけられる可能性がある人間関係において “ 離れた者勝ち “ は大原則だ。傷つきながら、ただ我慢して過ごすなんて、あなたの時間が勿体無い。無駄を無くすためには、まずは少しでも、離れること!
今年の新年度は、誰もが自分の心を大切に、あなたの大切な時間を無駄なく、楽しめますように!
おやつのじかん
毎月更新!荒井沙織がおすすめの本を紹介していきます