時は中世ヨーロッパ。神聖ローマ帝国のハプスブルク家と、フランスのヴァロワ家の間で「イタリア戦争」がくり広げられました。その背景には何があったのでしょうか。この記事では、第一次から第六次までの戦争の経緯と流れ、「主権国家」「勢力均衡」などその後の影響もわかりやすく解説していきます。
イタリアをめぐり、フランスと神聖ローマ帝国が戦った戦争を「イタリア戦争」といいます。一般的には、1494年のフランス王シャルル8世によるナポリ遠征から、1559年の「カトー=カンブレジ条約」締結までの間を指しますが、期間については諸説あり確定していません。
別名は、「ハプスブルク・ヴァロワ戦争」「ルネサンス戦争」など。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロらが活躍したルネサンスの時期に重なったこともあり、彼らの芸術活動に大きな影響を与えたともいわれています。
「イタリア戦争」の背景にあったのは、ナポリ王国とミラノ公国の継承争いです。
1339年から勃発した「百年戦争」で疲弊していたフランスですが、1491年に王であるシャルル8世が、ブルターニュ公国のアンヌと政略結婚をし、フランスの再統一を成し遂げました。アンヌはもともとハプスブルク家のマクシミリアン1世の婚約者だったため、この結婚は、その後18世紀まで続くフランス王家のヴァロワ家と、ハプスブルク家の対立の原因になります。
シャルル8世も、勢力を拡大しつつあったハプスブルク家に対抗するため、イタリアの領土獲得を目指すようになりました。
一方でイタリアでは、1454年に五大国と呼ばれるフィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ローマ教皇国、ナポリ王国が和平協定である「ローディの和」を結び、ルネサンスが最盛期を迎えていました。
しかし1489年、ナポリ王フェルディナンド1世がローマ教皇インノケンティウス8世と対立し、破門処分を受けます。インノケンティウス8世はフェルディナンド1世を失脚させるために、フランス王シャルル8世をナポリ王位へ推薦しました。
すると1492年、ナポリ王家とローマ教皇の間で和睦が成立し、破門処分は取り消しに。ナポリ王位を手に入れ損ねたシャルル8世は、フェルディナンド1世の死後、王位を継承したアルフォンソ2世に対して王位を要求し続けたのです。
またミラノ公国では、1494年にミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァが25歳で病死。実権を握っていた叔父のルドヴィーコ・スフォルツァがミラノ公位を継承し、支配者になります。これに対し、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの妻の父親である、ナポリ王アルフォンソ2世が異を唱えました。
ルドヴィーコ・スフォルツァは、ナポリ王国に対抗するため、アルフォンソ2世と対立するフランスのシャルル8世に支援を求めます。この要請を受けて、シャルル8世が大軍を率いてナポリ遠征を開始し、「第一次イタリア戦争」が勃発したのです。
また「イタリア戦争」の特徴として、技術革新と軍事革命が起こり、戦場の様相が一変したことが挙げられます。それまでの戦いは主に騎士たちの一騎打ちだったのに対し、シャルル8世が率いるフランス軍は、騎兵・歩兵・砲兵という近代的軍隊を組織しました。
そのためこの戦争は、「近代ヨーロッパの始まり」と評価されているのです。
ナポリ遠征を実行したフランス王シャルル8世。1495年2月にナポリ王国に到達し、「第一次イタリア戦争」が開戦しました。
するとナポリ王だったアルフォンソ2世は、王位を弟のフェルディナンド2世に譲って逃亡。フェルディナンド2世がフランス軍と戦うものの、大軍を前に成す術はなく、5月までにナポリ王国のほぼ全土が制圧されることになりました。
しかし、この状況を見ていたヴェネツィア共和国が動きます。
ヴェネツィア共和国は、神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世やスペイン王のフェルナンド2世に援助を要請。そしてローマ教皇アレクサンドル6世、ナポリ王フェルディナンド2世、フィレンツェ共和国と結び、「神聖同盟」を締結しました。
この同盟に、ミラノ公国がフランスを裏切って参加。周囲を敵に包囲されたフランスは甚大な損害を被り、「第一次イタリア戦争」は終結しました。シャルル8世は失意のうちに、1498年に亡くなっています。
「第二次イタリア戦争」が開戦したのは、1499年のこと。シャルル8世の跡を継いでフランス王となったルイ12世が、ミラノ遠征を実行します。「第一次イタリア戦争」の反省を活かし、スペイン王国やヴェネツィア共和国と同盟を結んだうえで侵攻しました。
ルイ12世はこの戦いに勝利し、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァを捕縛し、ミラノ公国を併合します。
さらに、ナポリ王国の分割を定めた「グラナダ条約」をスペイン王国と結んだうえでナポリ王国に侵攻し、勝利しました。
しかしスペイン王フェルナンド2世は、ナポリ王位を譲るつもりはなく、今度はフランスに対して攻撃を開始。フランス軍はそのまま大敗し、1504年に「第二次イタリア戦争」は終結しました。
「第二次イタリア戦争」の結果、フランスを倒したスペイン王フェルナンド2世は、ナポリ王を兼ねることになりました。しかし唯一の息子であったフアンが亡くなっていたため、王国の領有権は、長女のフアナと神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の子である、孫のカール5世へと受け継がれます。
1519年にマクシミリアン1世が亡くなると、「皇帝選挙」がおこなわれることに。有力候補は、ハプスブルク家のカール5世と、ルイ12世の跡を継いでフランス王となっていたヴァロワ家のフランソワ1世です。
選挙の結果、カール5世が神聖ローマ皇帝に。これによって神聖ローマ帝国、スペイン王国、アラゴン王国、ナポリ王国がハプスブルク家のもとに連合を構成することになり、圧倒的な力をもつ超大国ができることになりました。
しかし当時は、ドイツの神学者であるマルティン・ルターの宗教改革が盛んなころ。カール5世がその対応に追われている隙をつき、1521年、フランス王フランソワ1世がナバラ王国とネーデルラントに侵攻。イベリア半島、フランス北部を主戦場に、イタリア北部ロンバルディア地方でも戦いが起こりました。「第三次イタリア戦争」です。
1525年には、フランソワ1世自身が軍を率いてミラノを攻撃。しかし大敗を喫し、フランソワ1世は捕虜となります。身柄の釈放と引き換えにフランスは、ブルゴーニュ、ミラノ公国、ナポリ王国、フランドル、アルトワなどを放棄するとした「マドリード条約」を締結して「第三次イタリア戦争」は終結しました。
1536年、ミラノ公国のミラノ公フランチェスコ2世が死亡。子どもがいなかったため、公妃クリスティーヌ・ド・ダヌマルクの叔父で神聖ローマ皇帝の、カール5世がミラノ公位を継承することになりました。
フランソワ1世は、イタリアにおける神聖ローマ帝国の勢力がさらに増すことを危惧し、オスマン帝国と同盟を結んだうえでイタリアに侵攻しました。「第四次イタリア戦争」です。
フランスはオスマン帝国と連合艦隊を構成し、ジェノヴァやピエモンテを攻撃。
一方でカール5世はフランスのプロヴァンスに侵攻しましたが、マルセイユを落とせずに停滞してしまいました。1538年6月、フランスとの間に「ニースの和約」を締結し、「第四次イタリア戦争」を終結させます。
しかし、イタリアを得るための拠点であるミラノ公国を失いたくないフランソワ1世と、ミラノ公国の放棄を定めた「マドリード条約」の履行を迫るカール5世が対立。
1541年にカール5世が実施した北アフリカ遠征が失敗すると、翌1542年にフランソワ1世が戦線布告。「第五次イタリア戦争」が始まります。
フランス側にはオスマン帝国のスレイマン1世、神聖ローマ帝国側にはイングランドのヘンリー8世がつき、イタリア、フランス、ネーデルラントなど、西ヨーロッパの大半を巻き込んだ戦争に発展しました。
一時は神聖ローマ帝国とイングランドの連合軍がフランス本土に侵攻し、パリが脅かされる事態になりましたが、攻略まではいたりません。資金不足と宗教問題に悩まされていた神聖ローマ皇帝カール5世は、1544年、フランソワ1世との間に「クレピーの和約」を結び、単独講和に踏みきることにしました。
フランソワ1世とイギリス王ヘンリー8世の戦いはそれ以降も続きますが、やがて両国の資金も尽き、1546年に「アルドレスの和約」が締結。これにて「第五次イタリア戦争」が終結します。
「第六次イタリア戦争」は、1551年、フランスと同盟を結ぶオスマン帝国がトリポリを攻撃したことに対し、フランソワ1世の跡を継いだアンリ2世が宣戦布告をして始まりました。
戦いが続くなか、神聖ローマ皇帝のカール5世が1556年に退位し、帝国はカール5世の子であるスペイン王フェリペ2世と、弟である神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の間で分割されることになりました。
地中海、イタリア、フランス、フランドル、ネーデルラントと広がり、長期化するとおもわれていた戦いですが、1559年4月3日、アンリ2世とフェリペ2世が「カトー・カンブレジ条約」を結び終結します。
突然講和にいたった理由としては、さまざまな技術革新による軍事革命で戦争のコストが増大し、国家財政が厳しくなったことや、フランスがユグノー教徒への対応に追われ、余力がなくなっていたことなどが挙げられます。
「カトー・カンブレジ条約」によってフランスは、占領していたピエモンテ、サヴォワをサヴォイア公国に、コルシカ島をジェノヴァ共和国に返還することになりました。その代わり、イングランドからカレーを、神聖ローマ帝国からヴェルダン、メス、トゥールを獲得します。
スペインは、ミラノ公国、ナポリ王国、シチリア王国、サヴォイア公国への宗主権を確立。さらにフィレンツェ共和国、ジェノヴァ共和国など、イタリアの小国に対する絶大な影響力を確保しました。イタリア半島で完全な独立を維持できたのはヴェネツィア共和国のみという状況。ほぼ全土がスペインの統制下に置かれることになるのです。
フランスにとって「カトー・カンブレジ条約」は、神聖ローマ帝国と肩を並べる存在と認められ、領土拡張も成し遂げられたという意味では満足のいくもの。しかし悲願だったイタリアを手に入れハプスブルク家に対抗する、という試みは失敗に終わり、結果としてハプスブルク家による覇権は強くなってしまいます。
シャルル8世以降、フランスの基本的な方針は、「ハプスブルク家と対抗するために誰と手を組むか」というもの。キリスト教徒にとって敵であるはずのオスマン帝国とも手を組みました。この考え方は、やがて大国同士のバランスを維持しようとする「勢力均衡」という秩序モデルを生み出すことに繋がります。
19世紀以降のイギリスが国家戦略として掲げた、各国の軍事力を一定にして国際秩序を保つための基本的な概念となっていきました。
また「イタリア戦争」では、軍事革命によって生まれた新たな戦争形態に対応するため、従来の騎士や傭兵で構成される軍隊ではなく、「常備軍」が必要になりました。常備軍を維持するためには財源が必要で、財源を国民から徴収するためには官僚組織の整備が必要になります。
これは「主権国家」形成の始まりともいわれていて、フランスとスペインを中心に、やがてイギリス、ドイツ、イタリアへと波及していくことになるのです。
- 著者
- 江村 洋
- 出版日
- 1990-08-10
数多の勢力が栄枯盛衰をくり返していたヨーロッパにて、約700年にわたり王として君臨したハプスブルク家。「ヨーロッパの背骨」「ヨーロッパの宗家」「王家の中の王家」など、仰々しい異名がついています。
本作は、ヨーロッパ文化史やドイツ文学を研究する作者が、一般読者向けにハプスブルク家の歴史をわかりやすくまとめたもの。多くの書籍が帝国が崩壊するさまを記すのに対し、帝国が形成される過程から扱っているのが特徴です。
そのなかには、「イタリア戦争」にてハプスブルク家を率いたマクシミリアン1世や、カール5世など歴代君主の活躍ももちろん掲載。ヨーロッパ史を貫くひとつの縦軸として重要な、ハプスブルク家を概観できる良書です。
- 著者
- 佐藤 賢一
- 出版日
- 2014-09-18
本書の作者は、ヨーロッパを舞台にした歴史小説を数多く手掛けている小説家。『王妃の離婚』では「直木賞」も受賞しています。
本書で取りあげるのは、ヴァロワ朝。ブルボン王朝に先立ち、1328年から1589年までフランスを治めていた王家です。
この時期のフランスは、「英仏百年戦争」「イタリア戦争」「宗教戦争」など争いが相次いでいました。作者は中世的な王朝だった前身のカペー朝を「個人商店」にたとえ、シャルル8世やフランソワ1世などの王たちが官僚機構を整備したヴァロワ朝を「会社組織」にたとえます。
登場人物たちに血が通い、存在を身近に感じられる描写はわかりやすいもの。イギリスや神聖ローマ帝国などの難敵と渡りあいながら、後のブルボン朝時代に花開くフランスの「国家」としての姿が整えていったヴァロワ朝の歴史に触れられる作品です。