5分でわかる三方ヶ原の戦い!徳川家康が武田信玄に大敗!背景や布陣を解説

更新:2020.3.23

徳川家康の人生において最大の危機だったといわれている「三方ヶ原の戦い」。戦国最強と名高い武田信玄に手痛い敗北を喫しています。この記事では、戦いの背景や結果、布陣などをわかりやすく解説。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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「三方ヶ原の戦い」とは。年号や場所、兵力など概要を簡単に紹介

 

「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」は1573年1月25日に、現在の静岡県にあたる遠江国敷知郡三方ヶ原で起こった、徳川家康・織田信長連合軍と武田信玄軍との戦いです。

三方ヶ原は東西に10km、南北に15kmの広さがある扇状地が隆起した洪積台地で、3つの村の入会地だったことに由来して地名がつけられました。家康の居城である浜松城は、三方ヶ原の東南端にあります。

戦いに参加した兵力は、諸説あるものの徳川家康軍が織田信長からの援軍を加えて、1万~2万8000。武田信玄軍が2万7000~4万3000ほどといわれています。

徳川家康は戦国最強と名高い「甲斐の虎」武田信玄を相手に野戦を挑み、多くの有能な家臣を失い、自身も討ち死に寸前に追い込まれるなど手痛い敗北を喫しました。

敗走中の家康が恐怖のあまり馬上で脱糞し、それを家臣に指摘された際に「これは味噌だ」と言ったという逸話や、敗戦してしかめ面をしている己の姿を自戒を込めて描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」などが有名です。

「三方ヶ原の戦い」の背景は?

 

徳川家康と織田信長は1562年に、織田信長と武田信玄は1565年に、徳川家康と武田信玄は1568年にそれぞれ同盟を組んでいて、当初から敵対関係にあったわけではありません。

しかし織田信長が勢力を増し、自らが擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭との対立を深めていくなかで、彼らの関係は悪化していきます。

武田信玄にとって、上洛はかねてからの悲願。1572年10月3日、「信長包囲網」の構築を望む足利義昭の呼びかけに応じて遠江、三河、美濃への同時侵攻を開始します。

この時、徳川家康も足利義昭から「信長包囲網」に加わるよう誘われましたが、断りました。

10月13日、徳川領の要所である二俣城が包囲され、敵方の偵察に出た家康軍が武田軍と遭遇。「一言坂の戦い」となり、家康軍が負けています。二俣城は約2ヶ月にわたる抵抗のすえ、12月19日に降伏しました。

この時点で、家康と、信長からの援軍の指揮をとっていた佐久間信盛は、武田信玄の次の狙いが浜松城であると考え、籠城の準備を始めます。しかし12月22日に二俣城を出発した武田軍は、浜松城を素通りし、西に向かう進路をとったのです。

この時、家康には3つの選択肢があったそう。ひとつは、今からでも足利義昭の誘いに乗じ、武田信玄に降伏するというもの。しかし援軍の信長軍がいる状況では現実的ではありません。信長が自身も「信長包囲網」への対応に追われるなかで家康に援軍を出したのは、家康の裏切りを警戒して監視する目的もあったと考えられています。

もうひとつの選択肢が、このまま武田軍をやり過ごすというもの。

そして最後のひとつが、武田軍の後を追い、野戦を挑むというものです。

結果的に家康は、3つ目を選択しました。その理由については諸説ありますが、「武士としての面目」という考え方が有力です。

もともと今川家に従っていた徳川家康は、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に敗れた後、独立して今川家に攻撃を仕掛けています。これは「松平蔵人逆心」「三州錯乱」と呼ばれ、今川家の家臣団を激怒させていました。

その後家康は、武田信玄との間に今川領を分割するという条件の盟約を交わし、そのうえで遠江に侵攻。今川義元の跡を継いだ今川氏真がいる掛川城を1569年に攻略しています。

「三方ヶ原の戦い」当時は、それからまだ4年しか経過していません。旧今川家の家臣団が多く残る遠江の支配は、盤石とはいえない状態。すでに「一言坂の戦い」で敗れている以上、戦わずしてやり過ごすような弱腰な姿勢を見せれば、遠江の者たちに徳川家康は武田信玄に怖気づいたとみなされ、徳川家による支配が瓦解する恐れがあったのです。

「三方ヶ原の戦い」における布陣の謎。家康はなぜ「鶴翼の陣」をとったのか

 

武田信玄の後を追い、野戦を挑むという選択をした徳川家康。家康の勝算は、三方ヶ原が洪積台地だということにありました。高台から平地に降りるためには坂を下らなければいけません。家康は、武田軍が坂を下りている途中に背後から攻撃する状況を作り出そうとしたのです。

戦場で勝敗を分けるのは、「兵力の差」「士気の差」「疲労の差」「高低差」だといわれています。家康軍は兵力では劣っていましたが、士気はほぼ同等。武田軍がすでに2ヶ月以上戦っている遠征軍であることを考慮すれば、疲労の面では家康軍が有利です。高低差で有利な位置を確保できれば、十分に戦えると計算しました。

「三方ヶ原の戦い」に関して、家康はその若さゆえに無謀な戦を挑んだと批判されがちですが、実際はそこまで無謀なわけではなかったのです。

武田軍が坂を下り始める時を見計らい、三方ヶ原に向かった家康と信長の連合軍。しかし彼らを待ち受けていたのは、坂の手前で陣を敷く武田軍でした。家康が籠城ではなく野戦を選ぶことも、坂を下りるタイミングで攻撃を仕掛けてくることも、武田信玄に見破られていたのです。

もともと武田信玄は、情報戦を重視する武将。「三ツ者」と呼ばれる忍び集団や、「歩き巫女」と呼ばれる身寄りのない少女たちなどの情報網を駆使し、全国各地の情報を集めていました。家康のいる浜松城に間者を送り、その動向を掴むことも容易だったのでしょう。

三方ヶ原に到着し信玄軍を見た家康は、「鶴翼の陣」をとります。この陣形は、鶴が翼を広げたような形に部隊を配置するもので、通常は兵力に勝る方が、少数の敵を包囲する際に用います。

一方の武田軍は、「魚鱗の陣」で待ち構えていました。この陣形は部隊を三角形の形に配置するもので、通常は少数の部隊が攻撃力を一点に集中するために用います。

つまり両軍とも、定石とはあべこべの陣形。両者がなぜこの陣形をとったのかはわかっていませんが、武田軍については、家康軍が「鶴翼の陣」であることを間者から報告され、「魚鱗の陣」をとったのではないかと推測されています。

「鶴翼の陣」で「魚鱗の陣」に勝つには、一点に集中される攻撃に耐えられるための分厚い防御が必要。しかし兵力で劣る家康軍に、その力はありません。

とはいえ1度組んだ陣形を組み直すことも簡単ではないので、そのまま開戦せざるを得ない状況に。結果として家康軍の「鶴翼の陣」は、武田軍の「魚鱗の陣」に突き破られ、わずが2時間ほどで敗走することになるのです。

「三方ヶ原の戦い」の結果と影響

 

「三方ヶ原の戦い」の死傷者数は、武田軍が約200だったのに対し、家康・信長連合軍は約2000。鳥居忠広や成瀬正義、本多忠真など有能な家臣たちが討ち死にする大損害を被ります。

家康自身も追い詰められて、身代わりとなった家臣が時間を稼いでいる間に、わずかな供回りだけを連れて浜松城に逃げ帰りました。この敗走は、徳川家康の生涯においても最大の危機だったといわれています。

浜松城に戻った家康は、すべての城門を開いてかがり火を焚き、湯漬け飯を食べて眠りについたそう。敗れてもなお余裕があるフリをして将兵を安堵させ、城内に潜伏しているであろう間者を通じて武田軍を警戒させるためのパフォーマンスです。

これは『三国志演義』にて、蜀の諸葛亮孔明が魏の司馬懿(しばい)に敗れた際におこなった「空城計」にならったもの。実際に、浜松城まで追撃してきていた武田軍の山県昌景は、攻撃をせずに退却しています。

ちなみに徳川家に伝わる史料では、家康軍はこの夜に再度出陣し、野営をしている武田軍を襲撃して勝利したという「犀ヶ崖の戦い」が記されていますが、これは後の創作ではないかといわれています。

「三方ヶ原の戦い」が終わった後、武田軍は東三河に侵攻。要所である野田城を攻略しましたが、信玄の持病が悪化したために撤退を決断。その道中に信玄が亡くなり、家康は窮地を脱することになりました。

その後家康は、「三方ヶ原の戦い」で敗れた原因を分析するなかで、信玄や武田家の武将たちに対する尊敬の念を抱くとともに、戦における情報戦の重要さを痛感したそう。武田家が滅亡した際は、武田家の旧臣を積極的に召し抱え、情報網を構築しました。家康の天下統一に大きな貢献を果たしたといわれています。

武田信玄の狙いはどこにあったのか

著者
小和田 哲男
出版日

 

「三方ヶ原の戦い」は、武田信玄が1572年からおこなっていた「西上作戦」の最中に起こりました。

「西上作戦」の目的が上洛だったのか、それとも遠江、三河の攻略だったのかは、長年にわたって議論されてきた問題です。本書の作者は上洛説を唱え、さまざまな史料を駆使しながら信玄の行動を分析。「三方ヶ原の戦い」についても、なぜ家康が戦国最強といわれる信玄に野戦を挑んだのか、なぜ「鶴翼の陣」をとったのかなど解説しています。

信玄にとって最後の戦いとなった「三方ヶ原の戦い」。外交や戦術を紐解くことで、その裏にどんな構想があったのか、垣間見ることができるでしょう。

「三方ヶ原の戦い」を含めた徳川家康と武田家の抗争

著者
本多 隆成
出版日
2019-03-18

 

今川家から独立し、織田信長や武田信玄と同盟を結んで三河、遠江の領主になった徳川家康。しかしその時点で、西には織田家、北と東には武田家がおり、家康が勢力を拡大するためには、いずれかと戦わなければいけません。

戦国最強の武田信玄と組んで織田信長と戦うという選択肢もありましたが、家康は信玄と戦う道を選び、そして「三方ヶ原の戦い」が起こるのです。両者の戦いは信玄が病没した後も、息子勝頼との間で続き、最終的には武田氏の滅亡という形で幕引きしました。

本書は、徳川家康と武田家の抗争を解説した作品。家康の前半生が、ほとんど武田家との戦いに費やされていたことがあらためてわかるでしょう。

通説と最新の研究を踏まえた解説はわかりやすく、文章も読みやすいのでおすすめです。