5分でわかる寺田屋事件!2つの事件の背景と結果、龍馬の妻おりょうの活躍も解説

更新:2020.3.27 作成:2020.3.27

幕末史を語るうえで欠かせない「寺田屋事件」ですが、実は同じ場所で2回事件があったことをご存知でしょうか。この記事では、1862年と1866年それぞれの事件の背景と結果、さらには坂本龍馬の妻おりょうの活躍についてわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。

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寺田屋事件(1862年)の背景は?

 

「寺田屋事件」は、現在の京都府にあたる山城国紀伊郡伏見にある旅館・寺田屋で起こった2つの事件のことです。

ひとつは1862年に起こった薩摩藩の内紛で、「寺田屋騒動」ともいわれています。そしてもうひとつが、1866年に起こった伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件です。2つの事件に連続性はなく、誤認を防ぐために歴史用語として「寺田屋事件」を用いる場合は「寺田屋騒動」のみを指すのが一般的です。

寺田屋は、1597年に山城国で百姓をしていた伊助が創業した船宿。琵琶湖から大阪湾に注ぐ淀川水系の要所にあり、大いに繁盛し、幕末には薩摩藩の定宿となっていました。

この頃寺田屋を切り盛りしていたのは、女将のお登勢です。お登勢は18歳で6代目寺田屋伊助に嫁ぎ、一男二女をもうけます。放蕩者で経営を顧みず、酒に溺れて35歳で亡くなった夫に代わって、寺田屋の経営を担っていました。

1862年の「寺田屋事件」が起こった当時、薩摩藩の実権は、藩主の島津茂久の実父である島津久光が「国父」として握っていました。兄であり、先代の藩主でもあった島津斉彬の遺志を継ぎ、朝廷・幕府・諸藩の連携で諸外国に対抗しようとする「公武合体論」を推進していきます。

その一方で薩摩藩内には、有馬新七など「尊王攘夷」を唱える過激派もいて、藩論の統一にはいたっていませんでした。

1862年4月、島津久光は藩兵約1000人を率いて上洛します。薩摩藩だけでなく、全国の尊王攘夷派は島津久光がこのまま討幕に動くことを期待していましたが、久光自身にその気はなく、反対に朝廷からは尊王攘夷派の志士を取り締まるようにという命令が下されました。

これを聞いた有馬新七らは、諸藩の過激派志士と共謀し、関白の九条尚忠と、京都所司代の酒井忠義という朝廷と幕府の要人を襲撃。その首を島津久光に献上することで蜂起せざるを得ない状況を作り出そうと画策します。

襲撃の前に作戦を練ろうと志士たちが集結したのが、交通の便が良く、薩摩藩の定宿でもあった寺田屋だったのです。

島津久光は、側近である大久保利通、海江田武次、奈良原喜左衛門などを説得のために派遣しますが失敗。さらに剣術に優れた8人を鎮撫使(ちんぶし)として派遣します。鎮撫使には、過激派が説得に応じない場合は上意討ちとして斬り捨てるようにと伝えられていました。

寺田屋事件(1862年)の結果と影響。島津久光は公武合体へ動き出す

 

1862年4月23日の夜、鎮撫使8人と、志願して途中から参加した上床源助の合計9人が寺田屋に到着。有馬新七、柴山愛次郎、田中謙助、橋口壮介と面会し、説得を始めます。

面会は寺田屋の1階でおこなわれましたが、2階には多くの志士がいて、そのなかには西郷隆盛の弟である西郷信吾や従兄弟の大山弥助なども含まれていました。

鎮撫使たちは必死に説得するものの、過激派は応じようとしません。やがて鎮撫使のひとりである道島五郎兵衛が激高し、上意討ちだとして田中謙助に斬りかかります。これをきっかけに、薩摩藩士同士による壮絶な同士討ちが起こりました。

この時、女将のお登勢は3歳の次女をかまどに隠し、自らは帳場を守っていたそうです。また人数では過激派の志士たちが圧倒的に勝っていましたが、2階にいた者の多くは1階の状況をわかっておらず、ほとんど戦闘に参加しませんでした。

この「寺田屋事件」によって、鎮撫使側は口火を切った道島五郎兵衛が死亡。森岡善助が重傷、奈良原喜八郎、鈴木勇右衛門、山口金之進、江夏仲左衛門の4人が軽傷を負います。

一方で過激派志士たちは、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵が死亡し、田中謙助と森山新五左衛門が重傷を負いました。この2人も後に切腹を命じられています。

残った志士たちの多くは投降し、薩摩藩の者には帰藩謹慎が命じられ、他藩の者はそれぞれの藩に引き渡されました。行き場のない浪人たちは薩摩藩に引き取られましたが、護送の船上で惨殺。遺体は海に捨てられたそうです。

「寺田屋事件」の結果、朝廷における島津久光の人望は高まり、久光は江戸に行って「文久の改革」の実現に成功。しかし、外様大名で、しかも藩主ですらない島津久光や朝廷の圧力に屈したため、幕府の権威は失墜します。相対的に朝廷の権威が上がり、尊王攘夷派を勢いづかせることになりました。

その結果、朝廷のお膝元である京都にて、薩摩藩と会津藩を中心とする公武合体派と、長州藩や過激派志士たちを中心とする尊王攘夷派との争いが激しさを増し、ますます政情が混乱していきました。

寺田屋事件(1866年)の背景は?薩長同盟を結んだばかり!

 

1862年の「寺田屋事件」から4年が経った1866年1月23日、寺田屋を舞台に、坂本龍馬の襲撃事件が起こります。

襲撃事件というと暴漢に不当に襲われたかのような印象を受けますが、実際には当時の警察ともいえる「伏見奉行」が坂本龍馬を逮捕しようとしたものでした。

そのきっかけは、坂本龍馬が薩摩藩と長州藩の間を取り持ち、1月21日に「薩長同盟」が結ばれたこと。そして龍馬が、同盟の詳細な内容を知れる立場にいたことです。

長州藩は1864年の「禁門の変」で薩摩藩と会津藩に敗れた結果、朝敵となっていました。その長州藩が宿敵ともいえる薩摩藩と手を結ぶことは、幕府としては看過できない事態です。

そこで伏見奉行の林肥後守忠交は、坂本龍馬を捕らえて、「薩長同盟」の詳細な内容を明らかにしようとしました。

薩摩藩や長州藩としても、坂本龍馬が狙われる可能性を考慮して、薩摩藩の定宿であり龍馬とも親交の深いお登勢が女将を務める寺田屋に匿い、腕利きの藩士三吉慎蔵を護衛につけています。さらに龍馬自身も、長州藩の高杉晋作から贈られた拳銃を護身用として肌身離さず持ち歩いていました。

一方で伏見奉行は、目付である小林甚六郎の捜査で、坂本龍馬が寺田屋に滞在していること、さらに「薩長同盟」に関する書類を持っていることを突き止め、捕り方を差し向けるのです。

寺田屋事件(1866年)の概要を解説!坂本龍馬の妻、おりょうが大活躍

 

1866年1月23日深夜2時頃、伏見奉行の捕り方およそ30人が、寺田屋を包囲しました。この異変にいち早く気づいたのが、坂本龍馬の妻で、当時寺田屋で仲居として働いていたおりょうという女性です。

おりょうは風呂に入っていたそうですが、裸のまま2階へ駆けあがり、龍馬に危急を知らせました。

その後、踏み込んできた捕り方に対し、龍馬は「自分は薩摩藩士である」と虚偽の主張をしますが、見破られて戦闘が開始。坂本龍馬は護身用の拳銃で、三吉慎蔵は手槍で防戦し、捕り方2人を射殺、そのほか数人に重傷を負わせます。しかし龍馬も、両手の親指を斬られてしまいました。

三吉慎蔵が応戦している間、おりょうが裏木戸を隠していた漬物槽をどかし、退路を確保。何とか寺田屋の脱出に成功し、路地を走って近くの材木屋に隠れます。

この時、三吉慎蔵は切腹しようと言ったそうですが、龍馬に説得されて救援を求めるために薩摩藩邸に向かいました。報せを受けた大山彦八が藩士3人を引き連れて急行し、龍馬たちを救出して薩摩藩邸に匿います。

翌日、伏見奉行は薩摩藩邸に対して坂本龍馬の引き渡しを要求しますが、薩摩藩はこれを拒絶。龍馬は九死に一生を得ることになったのです。

その後、龍馬はおりょうとともに西郷隆盛の斡旋で鹿児島に逃れ、怪我を癒すために湯治をしながら83日間の潜伏生活を送りました。ちなみにこれは、「日本初の新婚旅行」ともいわれています。

こうして生き延びた坂本龍馬は、6月の「第二次長州征伐」では長州側で参戦し、戦後は大政奉還の実現に向けて奔走することになるのです。

なぜ薩摩藩士は仲間どうしで斬りあったのか

著者
["海音寺 潮五郎"]
出版日

 

1862年の「寺田屋事件」で悲劇的な同士討ちを演じることになった薩摩藩士たち。 彼らの多くは、西郷隆盛や大久保利通が中心となって結成した若手藩士の結社「精忠組」の同志でもありました。

本書は、そんな彼らがなぜ剣を交えることになったのか、その経緯を、薩摩藩のお家騒動である「お由羅騒動」にまでさかのぼり、西郷隆盛と大久保利通、西郷隆盛と島津久光の関係も絡めながら描いた作品です。作者の海音寺潮五郎も鹿児島県出身だそうで、ところどころに郷土への愛を感じることができるでしょう。

「寺田屋事件」を生き延びた者の多くは、明治維新後には顕官に就いています。もしも事件がなく、有馬新七らが生き延びていれば、きっと彼らが重要な官職に就いていたはず。幕末という動乱の時代を生きた若者たちが、それぞれ描いていた理想の未来と、その熱い生きざまが胸に迫ってくる一冊です。

「寺田屋事件」でも大活躍したおりょうの物語

著者
["慶喜, 門井"]
出版日

 

直木賞作家、門井慶喜が坂本龍馬の妻・おりょうを主人公に描いた歴史小説です。

夫である龍馬を呼び捨てにし、大酒飲みで、勝海舟にも食ってかかるなど、「貞淑」という言葉とは程遠い破天荒な性格をしていたおりょう。1866年の「寺田屋事件」では、文字通り己の命をかけて龍馬の命を守りました。裸で階段を駆けあがり、重たい漬物槽をどかして逃げ道を作るなど、彼女だからこそ成し遂げられたこともしれません。

その後は日本初の新婚旅行ともいわれる幸せな日々を過ごしますが、龍馬は大政奉還を実現した直後の「近江屋事件」で短い生涯を終えることになります。

夫を亡くしたおりょうは、その後20年にわたって強く生き抜きました。英雄としての龍馬ではなく、ひとりの男性としての龍馬を愛した女性の、たくましい人生に触れてみてください。