5分でわかる近江屋事件!坂本龍馬暗殺の背景や犯人候補をわかりやすく解説!

更新:2020.3.30 作成:2020.3.30

日本人に根強い人気を誇る坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」。いまだに犯人は明らかになっていません。この記事では、事件の背景と経緯、犯人候補や黒幕についてわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。

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近江屋事件の背景と経緯をわかりやすく解説

 

「近江屋事件」とは大政奉還から約1ヶ月後の1867年12月10日に起こり、坂本龍馬と中岡慎太郎、そして坂本龍馬の護衛兼従僕だった元力士の山田藤吉の3人が何者かに襲撃され、命を落とした事件です。

近江屋は、京都の河原町通にあった醬油商で、営んでいたのは現在の四条河原町一帯の土地を所有していた豪商の井口家。当主の井口新助は土佐藩の御用達となり、岩崎弥太郎をはじめとする土佐藩士と繋がりが深かったことから、方々から狙われる身であった坂本龍馬を匿っていたのです。

当時は、坂本龍馬が暗殺の対象になっているという風聞が広がっていて、元新撰組の御陵衛士である伊東甲子太郎と藤堂平助が近江屋を訪ねて、新撰組と京都見廻組が命を狙っていることを告げたり、薩摩藩の吉井幸輔が土佐藩邸もしくは薩摩藩邸に身を隠すように勧めたりしています。

しかし、坂本龍馬は近江屋に留まりました。その理由については、土佐藩邸に入るのは自身がもともと脱藩浪士だったため憚りがあるとして遠慮し、薩摩藩邸に入るのは土佐藩に対する当てつけになると配慮したためだといわれています。

また、近江屋と土佐藩邸は河原町通を挟んで真向かいにあり、いざとなればすぐにでも救援に駆け付けられる距離であったことも、近江屋に留まった理由のひとつです。
 

襲撃当日の夜、刺客たちは近江屋を訪れ、応対に出た山田藤吉に対し、十津川郷士を名乗って坂本龍馬への取次ぎを依頼します。名刺をもらった山田藤吉が、坂本龍馬のもとに持っていこうと階段に向かったことで、刺客たちは坂本龍馬が近江屋内にいることを確信し、背後から山田藤吉を斬りました。

山田藤吉が倒れて大きな物音がすると、坂本龍馬は土佐弁で騒ぐなという意味の「ほたえな」と叫びます。その声を頼りに刺客たちは2階に駆け上がり、奥の8畳間にいた坂本龍馬と中岡慎太郎に斬りかかったのです。

坂本龍馬は1撃目で前頭部を斬られ、床の間に置いていた刀を取ろうと振り返ったところ2撃目を受け、右の肩先から左の背中にかけて斬られます。刀を取るものの抜くことができず、鞘のまま3撃目を受け止めますが、鞘ごと刀を削られ、前頭部に致命傷を負いました。

一方の中岡慎太郎も1撃目で後頭部を斬られ、刀を抜く余裕もなく鞘のまま応戦しますが、後頭部の傷が重く、満足に動くこともできないまま両手両足、臀部を斬られ、倒れます。倒れたまま中岡慎太郎が死んだふりをしていると、やがて刺客は「もうよい、もうよい」と叫んで引き上げていきました。

この時、近江屋の主人である井口新助は1階の奥の間にいて、土佐藩邸に報せに向かいましたが、見張りがいたために引き返し、土佐藩邸の裏口に回って時間を浪費してしまいます。

やっと報せを受けた土佐藩士たちが近江屋に駆け付けた時には、すでに襲撃者の姿はなく、坂本龍馬は亡くなっていました。中岡慎太郎と山田藤吉はまだ息がありましたが、山田藤吉は翌日夕刻、中岡慎太郎も翌々日の夕刻には亡くなります。

襲撃があった12月10日は、旧暦でいうと11月15日。くしくも、坂本龍馬の生まれた日でした。

 

近江屋事件で殺された中岡慎太郎はどんな人?

 

坂本龍馬とともに「近江屋事件」で命を落とした中岡慎太郎。龍馬より2歳年下で、没年は29歳でした。

現在の高知県にあたる土佐国安芸郡の大庄屋、中岡小傳次の長男として生まれ、間崎哲馬や武市瑞山に師事して剣術を身に着け、彼らが中核メンバーとして立ち上げた「土佐勤皇党」に加わります。

尊王攘夷を掲げていた土佐勤皇党には、坂本龍馬や岡田以蔵も参加していて、最盛期には500人を超える土佐の一大勢力だったそう。土佐藩参政である吉田東洋の暗殺、安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧した者を暗殺するなど、猛威を振るいました。

1863年、京都で起こった「八月十八日の政変」にて、攘夷派の急先鋒だった長州藩が追放されると、土佐藩でも尊攘派への弾圧が強まりました。これを受けて中岡慎太郎は脱藩し、長州藩に亡命。脱藩志士たちを率いて、「禁門の変」や「下関戦争」にも従軍します。

この頃から、中岡慎太郎は尊王攘夷だけでは不足だとして、雄藩連合による武力討幕を主張するようになりました。薩摩藩と長州藩の同盟を画策し、坂本龍馬や土方久元など旧土佐勤皇党員を巻き込んで、薩長同盟の実現に奔走するのです。

1867年3月に土佐藩から脱藩の罪を許されると、薩摩藩と土佐藩の同盟実現にも奔走。薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、土佐藩の板垣退助との間で武力討幕を目指す密約を交わすことに成功します。

この密約はやがて「薩土盟約」、さらには安芸藩を加えた「薩土芸三藩約定書」に発展し、武力討幕に向けての準備が着々と進んでいきました。

6月には、高杉晋作の奇兵隊にならって「陸援隊」を結成。自ら隊長に就任します。坂本龍馬が結成した「海援隊」とよく似ていますが、商業的な活動に重きを置いていた海援隊に対し、陸援隊は純粋な軍事組織でした。

武力討幕を掲げる中岡慎太郎に対し、坂本龍馬は内戦回避を掲げ、実際に大政奉還を実現。両者に方法論の違いはあったものの、諸外国に対抗しうる新たな国を作りたいという目的は同じであり、坂本龍馬は中岡慎太郎と議論すること自体を好んでいたといわれています。

 

近江屋事件の犯人は誰?新撰組か、京都見廻組か

 

「近江屋事件」の犯人は明らかになっておらず、「本能寺の変」などと並んで日本史上の謎とされています。坂本龍馬は多くの人に愛された反面、多くの恨みも買っていた人物であり、候補者が多くいたことから、さまざまな想像が語られてきました。

「近江屋事件」が発生した当時、土佐藩や薩摩藩は新撰組が犯人だという説を唱えました。その根拠は、絶命する前の中岡慎太郎が残した「刺客の中に伊予弁を使っている者がいた」という証言と、現場に残されていた鞘です。元新撰組の御陵衛士である篠原泰之進や内海次郎らが、その鞘は新撰組十番隊組長の原田左之助のものであると証言しています。しかも、原田左之助の出身地は伊予だったのです。

これらの証拠にもとづき、土佐藩は幕府に対して新撰組を告発。しかし幕府から取調べを受けた新撰組局長の近藤勇はこれを否認します。翌年に「戊辰戦争」が始まったこともあり、取調べはうやむやになってしまいました。

一方で陸奥宗光など海援隊士たちは、紀州藩が「近江屋事件」の犯人だと疑います。海援隊の船と紀州藩の船が衝突事故を起こした 「いろは丸事件」によって、坂本龍馬に藩の面目を潰された紀州藩が、報復としておこなったと考えたのです。

彼らが根拠としたのも、現場に残されていた鞘でした。元新撰組隊士たちが原田左之助のものだと主張した鞘でしたが、実はさほど特殊なものではなく、同じような鞘を紀州藩士もよく用いていたのです。

また、「いろは丸事件」時に紀州藩の代表だった三浦休太郎が、新撰組と手を結んで犯行に及んだという噂も広がっていました。三浦休太郎は身辺警護を新撰組に依頼したことを受けて、海援隊と陸援隊が協力し、三浦休太郎を襲撃。新撰組の斎藤一らと「天満屋事件」で戦いました。

さらに、「戊辰戦争」が集結した後に新たに浮上した犯人が、京都見廻組です。京都見廻組は幕府によって創設された治安維持組織で、旗本と御家人で構成された折り目正しき部隊でした。

「戊辰戦争」の最後の局面である「函館戦争」で降伏した見廻組隊士の今井信郎が、取調の際に坂本龍馬の暗殺を自供したのです。証言によると、京都見廻組の7人で近江屋に向かい、そのうちの4人が坂本龍馬を殺害したとされています。しかし、後に証言内容を変更したことや、証言した近江屋の間取りが実際のものと異なること、証言と実際の傷が異なっていたことなど、信ぴょう性に欠ける部分もあります。

このほかにも、西郷隆盛や大久保利通など薩摩藩の武力討幕派が犯人だとする説、土佐藩内の武力討幕派が犯人だとする説、刺客が名乗った名前を事実だとして十津川郷士が犯人だとする説、十津川郷士が多く加入していた陸援隊が犯人だとする説、誕生日に暗殺されたため身内が犯人だとする説、そもそも刺客の狙いは坂本龍馬ではなく中岡慎太郎だったとする説など実に多種多様な推理が提示されています。

現在では、証言の変遷や食い違いなど疑問が残るものの、それは今井信郎の記憶違いや存命中の仲間への配慮だとして容認し、京都見廻組が犯人だとする説がもっとも有力です。

 

近江屋事件の黒幕は?

 

「近江屋事件」については、実行犯もさることながら、彼らを動かした黒幕についてもさまざまな説が提唱されています。

もっとも有力なのが、幕府です。これは実行犯として有力視されている者のなかに京都見廻組や新撰組といった幕府の治安維持組織がいることからも当然だといえるでしょう。

しかし、幕府のなかの誰が実際に暗殺命令を下したのかは、はっきりしていません。

候補として挙げられているのは、新撰組の上役である京都守護職を務めた会津藩主の松平容保、その弟で京都所司代を務めていた桑名藩主の松平定敬、京都見廻組の上役である京都見廻役を務めた旗本の小笠原長遠などです。

また、犯人が薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、あるいは土佐藩などの武力討幕派だとする場合、彼らを動かした黒幕として、イギリス人のトーマス・ブレーク・グラバーが挙げられます。

彼は武器商人をしていて、邸宅跡が長崎の観光名所として有名なグラバー園にもなっている人物。もともとは坂本龍馬の後ろ盾をしていて、亀山社中や海援隊を通じて薩摩藩や長州藩との関係を強化し、武力討幕派に武器を売って儲けていました。同時に、佐幕派にも武器を売っており、内戦を望む立場にいたとされています。

しかし、「薩長同盟」が実現した後、坂本龍馬は「大政奉還」を目指して内戦の回避に奔走。これはグラバーにとって、一種の裏切り行為ともいえるものでした。

「明治維新」後、グラバーは元土佐藩の岩崎弥太郎とともにキリンビールの創業に携わり、そのロゴとして現代でもおなじみの麒麟のデザインを提案。麒麟は「龍」と「馬」を合わせたような霊獣で、一般には「坂本龍馬への敬意」が込められているといわれていますが、実際は「贖罪」としてこのデザインを採用したのではないかといわれています。

また、意外にも有力だと考えられているのが、友愛結社のフリーメイソンです。「フランス革命」や「アメリカ独立戦争」にも関わっていたとされていて、「明治維新」の際も徳川慶喜の側近だった西周や津田真道など多くのフリーメイソンが活躍しています。

坂本龍馬がフリーメイソンだったという明確な記録は残っていないものの、グラバーや薩摩藩の五代友厚などフリーメイソンに関わりがあったとされる人物たちと交友があったこと、脱藩浪士でありながら潤沢な資金を持っていたこと、写真撮影の際にフリーメイソン特有のポーズをとっていたことなどから、少なくとも何かしらの関係があったと考えられています。フリーメイソンは武力討幕による革命を望んでいて、これに反する行動をとる坂本龍馬が邪魔だったのでしょう。

しかし、実行犯が確実に断定されていないため、いずれの黒幕説も根拠に欠けると考えざるを得ないのが現状です。

 

坂本龍馬の人生を読み解く一冊

著者
["道史, 磯田"]
出版日

 

本書は新進気鋭の歴史家としてテレビ番組などにも引っ張りだこの作者が、日本史上最大の謎のひとつとされる「近江屋事件」の解明に挑んだもの。坂本龍馬という人物の31年間の生涯について、ひとつひとつの史料を丹念に分析しています。

研究によって浮かびあがってきたキーワードは、「龍馬は一日にしてならず」。坂本龍馬という人物は生まれながらにして坂本龍馬だったわけではなく、さまざまな人と出会い、影響を受けるなかで人格が形成され、その思想が形作られていったことがよくわかるでしょう。

小説のような派手さはありませんが、テンポのよい軽妙な文章は読みやすく、坂本龍馬の人物像と当時の時代背景が目に浮かびます。

その画期的な論考はこれまでの「近江屋事件」に関する論争に一石を投じるもの。おすすめの一冊です。

 

「近江屋事件」の犯人は誰?薩摩藩犯行説を斬る

著者
["作人, 桐野"]
出版日

 

「近江屋事件」をめぐって、さまざまな犯人が提起されています。本書は薩摩藩の犯行説に対し、鹿児島出身の作者が、地元に着せられた「濡れ衣」を晴らそうと謎の解明に挑んだものです。

薩摩藩や長州藩、土佐藩、会津藩、桑名藩といった諸藩が入り乱れる当時の京都の政治情勢を読み解き、薩摩藩犯行説がいかに生まれ、いかに広がっていったのか、そしていかに根拠がない説であるかを喝破しています。

丹念な資料研究にもとづく主張は説得力のあるもの。地元出身者による身贔屓と侮ることはできません。日本史上の大きな謎である「近江屋事件」の犯人に興味のある方におすすめの一冊です。