5分でわかる柳条湖事件!満州事変に発展した謀略の真相をわかりやすく解説!

更新:2021.11.22

「満州事変」の発端となった「柳条湖事件」。南満州鉄道が爆破された事件で、当時は中国軍の犯行とされていましたが、後に関東軍の謀略だと明らかになりました。この記事では、事件が起こるまでの経緯と、その影響をわかりやすく解説していきます。関連本も紹介するので、参考にしてみてください。

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「柳条湖事件」とは。自作自演の謀略事件

 

1931年9月18日の午後10時20分頃、中国東北部満州にある柳条湖という場所で、「柳条湖事件」が起こりました。日本が管理する、南満州鉄道の線路が爆破されたのです。「9.18事件」「奉天事件」とも呼ばれています。

南満州鉄道は「日露戦争」の講和条約である「ポーツマス条約」によって、ロシアから譲られた南満州支線の施設を継承して設立されたもの。条約には「鉄道附属地行政権」も含まれていて、線路だけでなく、その付近の土地も南満州鉄道株式会社が所有するとされ、中国に行政権はありませんでした。

南満州鉄道と附属地の警備を担当するために設立されたのが、大日本帝国陸軍の部隊のひとつで、遼東半島の旅順に司令部を置く「関東軍」です。

関東軍は当初、「柳条湖事件」を中国軍の犯行によるものと発表。しかし実際には、関東軍の部隊が起こした謀略事件だったことが後に明らかになっています。

事件の首謀者は、関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と、関東軍作戦主任参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)中佐です。また花谷正少佐と今田新太郎大尉が指揮をとり、奉天に駐留する河本末守中尉、小杉喜一軍曹など数名が実行にあたりました。

さらに戦後に発表された、奉天特務機関補佐官だった花谷正の手記によって、関東軍司令官の本庄繁中将、朝鮮軍司令官の林銑十郎中将、参謀本部第一部長の建川美次少将、参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐なども「柳条湖事件」についてあらかじめ知っていたことが明らかになっています。

事件の損害は、レールの片側約80cmと枕木2本の破損のみ。爆破の数分後には急行列車が現場を問題なく通過できていることからも、鉄道を破壊することが目的ではなく、「爆破」という既成事実をつくることが目的だったことがわかるでしょう。

しかし、この小さな爆破だったはずの「柳条湖事件」が、後に日本の運命を揺るがす「満州事変」を引き起こすことになってしまいました。

「柳条湖事件」が起こるまでの経緯を解説

 

1925年に中国国民党総理の孫文が亡くなった後、クーデターで実権を掌握した蒋介石と毛沢東によって、中国国内では「国共内戦」が続いていました。

日本は当初、「日露戦争」時に日本やロシアのスパイを務めていた軍閥、張作霖と手を結びます。しかし、満州の維持を目指す日本と、中国本土への進出を狙う張作霖の関係は徐々に悪化。さらに張作霖が欧米資本を引き込んで、南満州鉄道に競合する鉄道路線をつくろうと計画したことが、関東軍を怒らせました。結果として1928年6月4日、北京から奉天に向かう列車が爆破され、張作霖が殺されます。

この「張作霖爆殺事件」は、関東軍の参謀である河本大作大佐の策略であると考えられ、張作霖の息子の張学良はこれを機に反日に転じ、父親のライバルだった蒋介石と手を結びました。

張学良は1930年、父親が計画していた南満州鉄道に競合する鉄道路線の敷設を実現し、南満州鉄道は創業以来初の赤字に転落します。

またこの頃、日本国内は世界恐慌の影響を受けて不況の真っただ中。企業は倒産し、失業者が増え、農村も疲弊するなど深刻な不景気に陥っていました。多くの日本人にとって、満州は「日露戦争」で膨大な犠牲を払ってまで手に入れた土地。日本経済の生命線だと考えられていて、この地の支配が揺らぐことは許容できなかったのです。

満州で反日運動が激化すると、日本の世論も沸騰。当時の幣原喜重郎外務大臣が、強硬策ではなく国際協調路線をとると、さらに国民の怒りは大きくなり、「軟弱外交」と批判する声が高まります。

「柳条湖事件」は、このような世論も背景に、政府に追随する陸軍上層部に対し、煮え切らない思いを抱いていた青年将校らが中心となって起こした、一種の下剋上のようなもの。日本国民の多くは、熱狂的に歓迎したのです。

「柳条湖事件」の影響は?内閣と陸軍の反応、リットン調査団の対応を解説

 

「柳条湖事件」の後、関東軍は即座に奉天を制圧。さらに朝鮮軍司令官の林銑十郎に援軍を要請します。本来、国境を越えて出兵をするには統帥権を有する天皇の許可が必要でしたが、無視されました。

攻撃対象は奉天に留まらず、長春、安東、鳳凰城、営口など、南満州鉄道沿線の各地に拡大。9月19日には、満州南部の主要都市を制圧します。

一方の中国軍は、兵力では圧倒的に優位だったにもかかわらず、張学良の指示による「無抵抗主義」にのっとって本格的な抵抗をしませんでした。

日本では、9月19日から陸軍の首脳が集まって、「柳条湖事件」の対策を練る会議が開かれます。しかしこれは、中国軍が南満州鉄道線を爆破したという報告にもとづくもので、関東軍を疑う者はおらず、増援を送ることで一致しました。ただ朝鮮軍の派遣に関しては、天皇の許可がいることから、行動を控えるようにという指示を出しています。

また日本政府も緊急の閣議を招集。当時の若槻礼次郎首相は、南次郎陸軍大臣に対し、関東軍の行動は自衛なのかを確認。陸軍大臣はそのとおりだと答えました。

しかし奉天総領事の林久治郎が、関東軍による謀略や自衛権を越える戦線拡大を示唆する報告をしたため、陸軍大臣は満州への朝鮮軍の派遣を提議できず、閣議では「事変不拡大」の方針が決定されます。午後には若槻首相が昭和天皇に、不拡大方針を奏上しました。

その後、陸軍大臣、参謀総長、教育総監による陸軍三長官会議が開催され、不拡大および占領地を放棄した旧態復帰の方針が定められます。これに対し、今村均などの青年将校が反発。たとえ内閣を打倒することになろうとも、旧態復帰に反対することを主張しました。

9月21日、不拡大の方針に反して、関東軍が出兵。さらに朝鮮軍も独断で越境を開始します。これは死罪相当の重大な軍令違反でしたが、若槻内閣に止める力はなく、事後承認を余儀なくされました。

同日、蒋介石が一連の問題を国際連盟に提訴。しかし国連を構成する列強諸国は、日本の帝国主義よりも中国共産党やソ連の共産主義を脅威としていたため、日本に対し宥和的な姿勢を見せます。

この間に、関東軍は戦線を拡大。1932年2月までに、チチハル、錦州、ハルビンなどを占領しました。3月には、清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政として、「満州国」の建国を宣言します。

すると国連は、日本の行動は自衛権の範囲を超えるものだと非難するとともに、満州問題を調査するためイギリスのヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする「リットン調査団」を派遣しました。

3ヶ月にわたる調査がおこなわれ、リットン調査団は「柳条湖事件以降の軍事行動は日本の自衛的行為とは言い難い」「満州国は自発的な意思による独立とは見なし難い」と結論づけました。

同時に、「満州を非武装地帯とし、国際連盟の指導と中国の主権下に自治政府を樹立」することを解決策として提案します。

国連はこの報告にもとづき、日本に対して南満州鉄道附属地までの撤退を勧告。賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票、不参加1国で採択されます。日本の松岡洋右全権代表は反発してその場を退場し、日本政府は国連を脱退することを決定するのです。

「柳条湖事件」がきっかけとなった「満州事変」を簡単に解説!

 

「柳条湖事件」をきっかけに建国された満州国。国家承認に消極的だった犬養毅首相が「五・一五事件」で暗殺されると、衆議院本会議において全会一致で承認されました。

建国に際し、日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人による「五族協和」と、「王道楽土」を国家理念に掲げます。しかし実際には、関東軍と南満州鉄道の影響下にあり、実質的には日本の傀儡国家といえるものでした。

関東軍の独断専行は止まらず、1933年1月には、張学良と内通して抗日軍の組織化を進めていた熱河省主席の湯玉麟を討伐する「山海関事件」を引き起こします。

その後も熱河省全体を制圧しようと軍事行動を開始。5月3日には万里の長城を越えて南下し、北京や天津付近まで行きました。

これに対し蒋介石は、日本軍と戦うよりも共産党と戦うことを優先したいため、日本との間に「塘沽協定」を締結。日本と中国の武力衝突「満州事変」は終結しました。

ただ、蒋介石は満州国の独立を認めたわけではなく、両者の間に緊張関係は続きます。

その後、1937年には「盧溝橋事件」が起こって、泥沼の「日中戦争」へと発展するのです。

石原莞爾の構想を知る一冊

著者
川田 稔
出版日
2016-03-31

 

戦術的思考は優れていても、戦略的思考は欠落している……日本は国際社会からこのように評価されることがありますが、そんななかで「稀代の戦略家」と呼ばれたのが陸軍軍人の石原莞爾です。

彼の思想の背景にあったのは、「世界最終戦争」というもの。これは、東洋の代表である日本と西洋の代表であるアメリカはいずれ戦い、これに勝利した方が世界を統一するという考えでした。来るべきその時に備え、満州を領有し、中国と手を結んで、アジアの盟主になる必要があるとしていたのです。

本作は、「柳条湖事件」の首謀者となった石原莞爾の構想を紐解き、分析したもの。彼の頭のなかを覗くことは、事件を理解することにも繋がるでしょう。

「柳条湖事件」「満州事変」「太平洋戦争」の繋がりを理解する

著者
筒井 清忠
出版日
2015-08-06

 

「太平洋戦争」が起こった原因の多くは「日中戦争」にあり、「日中戦争」が起こった原因の多くは「満州事変」にあるとし、日本とアメリカが戦うことになった経緯を追求していく作品です。

作者は、「日露戦争」直後の南満州鉄道株式会社の設立をターニングポイントに挙げています。

南満洲鉄道の経営は、当初はアメリカの鉄道王ハリマンが資本算入する案があったそう。しかし日本は、単独で設立することを選択します。もしもこの時、アメリカが算入していたとしたら、「柳条湖事件」のような謀略行為は起こらなかったでしょう。ひいては、「満州事変」も「日中戦争」も、そして「太平洋戦争」も起こらなかったかもしれないのです。

歴史に「もしも」は禁物ですが、ひとつの決断をくだす時、どれだけ先を見越すことができるのかを考えることは、ビジネスにも当てはまるはず。「柳条湖事件」について知りたい方はもちろん、歴史の繋がりを理解できる一冊です。

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