フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトの最後の戦いとして有名な「ワーテルローの戦い」。この記事では、その背景や経緯、ナポレオンの敗因、また当時のフランスが舞台になっている『レ・ミゼラブル』についてわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、参考にしてみてください。
「ワーテルローの戦い」は、1815年6月18日にベルギーのワーテルロー近郊で起こった、フランス軍と、イギリス、オランダ、ハノーファー、ナッサウ、ブラウンシュヴァイクなどの連合軍およびプロイセン王国の戦いです。別名を「ラ・ベル=アリアンスの戦い」といいます。
ナポレオン率いるフランス軍は7万2000、連合軍は6万8000、プロイセン軍は5万という、かなり大規模なもの。1799年から始まった「ナポレオン戦争」最後の戦いであり、ナポレオン・ボナパルトにとっても、生涯最後の戦いとなりました。
「ワーテルローの戦い」の前年である1814年、皇帝だったナポレオンは、ロシアやプロイセンを中心とする「第六次対仏大同盟」との戦いに敗れて退位に追い込まれました。その後地中海にあるエルバ島に追放されます。
戦勝諸国は「ウィーン会議」を開催して戦後の体制を話しあいますが、「会議は踊る、されど進まず」という言葉があるとおり、なかなか進みません。
その間にフランスでは王政復古が起こり、ルイ18世が即位。しかし彼の政策は、「フランス革命」を否定するようなもので国民から反感を買いました。
その隙に乗じて、ナポレオンは1815年2月26日、エルバ島を脱出。3月1日にはカンヌ近郊に上陸し、パリへの進軍を開始します。ナポレオンの復活を民衆は歓喜して出迎え、ルイ18世が送った討伐軍すらそのままナポレオンの指揮下に入るほどでした。ルイ18世は逃亡し、3月20日、ナポレオンはパリに入城して再び皇帝に即位します。
この状況に対して、各国は「第七次対仏大同盟」を結成。しかしナポレオンの戦略は対仏大同盟の態勢が整う前に先制攻撃を加えるというもの。その結果、「ワーテルローの戦い」が起こったのです。
しかし結果は、フランス軍の敗北。死傷者と捕虜あわせて約4万の被害を受けます。
敗れたナポレオンは降伏を余儀なくされ、大西洋のセントヘレナ島に流され、この地で1821年に生涯を終えました。ナポレオンが帝位に復帰し、「ワーテルローの戦い」に敗れるまでの短い期間を「百日天下」といいます。
ナポレオン率いるフランス軍は、1815年6月15日、まずベルギーへと侵攻します。
目的は、宿敵ともいえるウェリントン公アーサー・ウェルズリー率いるイギリス・オランダ連合軍と、ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍が合流する前に、それぞれを個別に撃破すること。
フランス軍の真骨頂である速さが試される作戦ですが、かつて活躍したフランス軍兵の多くはロシア戦役で命を落としており、少数の古参兵と多数の新兵でできた軍に、以前のような強さはありませんでした。
プロイセン軍と「リニーの戦い」、イギリス・オランダ連合軍とは「カトル・ブラの戦い」で激突しますが、いずれも決定的な勝利を得ることはできず、フランス軍の精彩を欠いた動きが目立ちます。
6月17日、カトル・ブラから後退したイギリス・オランダ連合軍は、ワーテルローに防御陣地を構築。これを撃破しようとフランス軍も向かいます。
この時プロイセン軍は、ワーヴルに集結していて、一部が後援としてワーテルローに向かっていましたが、フランス軍はこの動きに気づくことはできませんでした。
6月18日、「ワーテルローの戦い」が開戦します。激戦地となったのは、「ウーグモンの館」と呼ばれる邸宅です。1軒の邸宅をめぐって双方あわせて約3万の兵が投入されました。フランス軍は猛攻を重ね、イギリス・オランダ連合軍は耐え抜きます。
お互いに兵力を消耗する激闘が続くなか、戦況は徐々にフランス軍優勢に傾いていきました。しかし、そこにプロイセン軍の後援部隊が現われます。お互いに予備兵力も投入していたギリギリの状態だったので、戦況が一気に覆りました。
プロイセン軍の前衛を指揮するビューロー中将は、フランス軍の退路を遮断しようとします。ナポレオンもなけなしの近衛隊を投入してプロイセン軍の動きを阻止しようとしましたが失敗。近衛隊が敗走したことで、フランス軍全体に混乱が波及し、戦線は崩壊してしまうのです。敗走するフランス軍の残兵にプロイセン軍が襲い掛かり、勝負がつきました。
「ワーテルローの戦い」におけるナポレオンの敗因について、これまで多くの軍事学者たちが研究を重ねてきました。
そのなかで共通して挙げられているのが、以前のナポレオンでは考えられなかったような「時間の空費」です。さまざまな判断ミスが重なり、時間を無駄にしたために、プロイセン軍のワーテルロー到着を許すことになったというのです。
たとえば、フランス軍とイギリス・オランダ連合軍の前哨戦だった「カトル・ブラの戦い」。この地を守っていたオラニエ公ウィレム2世率いる部隊は少数だったにもかかわらず、フランス軍の攻撃が遅れたために相手に兵力を増強する時間を与えてしまい、攻め落とすことができませんでした。
また、直前におこなわれていたフランス軍とプロイセン軍の「リニーの戦い」が終結していたため、リニーにいたフランス軍がすぐにカトル・ブラにすぐに向かっていれば、戦況は変わっていたはず。しかしナポレオンは無為に時間を過ごし、イギリス・オランダ連合軍が要害堅固なワーテルローに後退することを許してしまったのです。
さらにナポレオンは、この時グルーシー元帥にプロイセン軍の追撃を命じていましたが、指示が遅かったことや、その内容が曖昧だったことから、グルーシー元帥の部隊が迷走。結局プロイセン軍を捕捉することはできませんでした。それだけでなく、グルーシー元帥が率いる3万3000の兵が、「ワーテルローの戦い」に間に合わないという事態を招きます。
さらに「ワーテルローの戦い」本戦においても、雨で地面がぬかるんでいたため地面が乾くまで攻撃を延期するという判断ミスを犯します。この数時間の空費によって、プロイセン軍は戦場に間にあい、フランス軍の敗北に繋がったといわれているのです。
これらの背景には、ナポレオン自身の能力が低下しつつあったこと、そして1796年から長年にわたって右腕だった参謀総長ベルティエ元帥が不在だったことがあるといわれています。
天才肌のナポレオンの指示は、時に簡潔すぎ、意味が不明なものも多くあったそう。ベルティエにはこれを的確な命令文書に翻訳するという特殊な才能がありました。
しかし彼の後任となったスールト元帥は対応できず、不手際や意味不明瞭な命令伝達をくり返していました。フランス軍は混乱に陥り、時間を無為に過ごすことが増えたのです。
- 著者
- ヴィクトル・ユゴー
- 出版日
- 2012-12-18
1862年に発表された、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』。ロマン主義フランス文学の不朽の名作といわれています。
物語の舞台は、19世紀のフランス。1本のパンを盗んだことをきっかけに監獄生活を送ることになるジャン・ヴァルジャンの生涯を主軸にしつつ、「フランス革命」「ナポレオン第一帝政」「百日天下」「七月革命」などフランスが歩んだ激動の歴史的事件が挿入されています。
そして、「コゼット」と題された第2部の冒頭に挿入されているのが、「ワーテルローの戦い」です。一見すると本筋には関係ないエピソードに見えますが、後に物語において重要な鍵を握る2人の人物、テナルディエとポンメルシーが出会う場面でもあります。
戦いの様子やナポレオンの生きざまなどの描写は、ユゴーらしいもの。歴史に興味はあるけれど、堅苦しい読み物が苦手な方におすすめの一冊です。
- 著者
- ["石原 ヒロアキ", "清水 多吉"]
- 出版日
プロイセンの軍人で、軍事学者でもあるカール・フォン・クラウゼヴィッツ。「ワーテルローの戦い」にも参戦しています。
彼の著した『戦争論』が不朽の名作といわれる理由は、「戦争の勝ち方」を論じるだけでなく、「戦争とは何か」という本質に踏み込んだからでしょう。いまだに政治やビジネスにおいても重要視されています。しかし、体系的かつ弁証法的に幅広い分野について記しているため、いきなり読んでも1%も理解するのが難しいともいわれているのです。
本作は、そんな『戦争論』を理解しやすいよう漫画化したもの。プロイセンが「ナポレオン戦争」や「ワーテルローの戦い」をどのように戦ったのかもわかる一冊です。
- 著者
- ["ロバート・B・ブルース", "イアン・ディッキー", "ケヴィン・キーリー", "マイケル・F・パヴコヴィック", "フレデリック・C・シュネイ"]
- 出版日
- 2013-04-23
人類が歩んできた戦闘技術の歴史をまとめたシリーズの4作目。取り上げているのは、1792年から1815年までのヨーロッパの戦争です。
ナポレオンやウェリントン公、ネルソンなど歴史上に名を馳せた名将たちが、「ワーテルローの戦い」をはじめ、各戦争をどのように戦ったのか紐解いていきます。
特徴は、「歩兵」「騎兵」「砲兵(および攻囲)」「海戦」「指揮と統率」など戦い方で章分けしている点。豊富な図版やイラストを駆使し、各国の軍装や兵器を比較することで、当時の戦闘技術がいかに発展していったのかがわかるでしょう。