ゲームやアニメの世界でもおなじみの秘宝「三種の神器」。天皇家に代々伝わるものですが、実際には誰も見たことがないといわれています。この記事では、込められた意味や保管場所、成り立ちなどをわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介していきます。
八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の3つを、「三種の神器」といいます。これらは日本神話において、天照大神(あまてらすおおみかみ)から、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられたものだといわれているものです。
後に、瓊瓊杵尊の曾孫である神武天皇に受け継がれ、それからは歴代天皇に正統な帝の証として受け継がれてきました。しかし、三種の神器を実際に見ることは許されておらず、それは天皇も例外ではありません。
鏡や剣、勾玉は、古代より支配者であることを象徴するものとして用いられてきました。地方の豪族が大和朝廷を訪ねる際など、恭順の証として3つを差し出すことが通例だったようです。
また三種の神器は、儒教の「三徳」という説もあり、鏡は「智」、剣は「勇」、玉は「仁」に相当すると考えられています。
807年に斎部広成がまとめた資料『古語拾遺』によると、第10代・崇神天皇の時に、八咫鏡と天叢雲剣が宮中から出され、外で祀られることになりました。この時宮中には、「形代」が作られたそうです。
現在では、八咫鏡は伊勢神宮の皇大神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に、八尺瓊勾玉は天叢雲剣の形代とともに皇居の吹上御所の剣璽の間に、そして八咫鏡の形代は皇居の宮中三殿に安置されています。
仮に、天照大神が瓊瓊杵尊に授けたという神話が創作ではなく事実だったとしても、実物が現存しているかは定かではないのが現状です。八咫鏡については、これを保管していた箱の大きさが古代の記録と現在のものとで異なる点などから、崇神天皇以前に火災などで焼け、作り直された可能性が高いと指摘されています。
宮中で保管されていた八咫鏡の形代は、960年、980年、1005年の少なくとも3回火災に見舞われていて、980年の火災では半分以上がとけて鏡の形を失い、1005年の火災で完全に灰になりました。その後、藤原道長によって改鋳が議論されますが、公卿の大半が反対したため実際にはおこなわれていません。現在、宮中に安置されているものは、平安時代の末期に第81代・安徳天皇が入水で亡くなった際に、源義経が回収したものだと伝えられています。
天叢雲剣は、崇神天皇の時代に八咫鏡とともに宮中から外に移されましたが、第12代・景行天皇の時代に叔母の倭姫命によって日本武尊(やまとたけるのみこと)に授けられました。日本武尊の死後は、妻の宮簀姫の実家にまつられ、熱田神宮の御神体となります。
天叢雲剣の形代は、「壇ノ浦の戦い」の際に海中に没し、発見されていません。そのため、第82代・後鳥羽天皇は三種の神器が揃わないまま即位することとなります。その結果、南北朝時代には北朝と南朝の両陣営が天叢雲剣の所持を主張して天皇の正当性を争うことになりました。現在、宮中に安置されている天叢雲剣は、失われた剣の代わりとして伊勢神宮より献上されたものです。
三種の神器の成り立ちには、天照大神や素戔嗚尊(すさのお)など、日本神話の登場人物が深く関わっています。
八咫鏡は別名を「真経津鏡(まふつのかがみ)」といい、天照大神が天の岩戸に隠れた際、高天原の神々が天の安河に集まって、河原の堅石をもとに作ったもの。『日本書紀』によると、天照大神をかたどっているといわれています。八尺瓊勾玉もこの時に作られたそうです。
天の岩戸の神話では、日本の最古の踊り子とされる天宇受売命(あめのうずめ)が半裸で踊るのを見て、神々が大笑いしていることを不審に思った天照大神が岩戸を少しだけ開けた隙に、八咫鏡と八尺瓊勾玉をくくり付けた榊の木を振って気を引き、天手力男神(あめのたぢからお)が岩戸をこじ開けたとされていて、八咫鏡や八尺瓊勾玉が重要な役割を担うものとして登場しています。
一方で天叢雲剣は、素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治した際、その尾から出てきたとされる神剣です。素戔嗚尊がこの剣を姉の天照大神に献上し、天皇家へ伝わることになりました。そのため、天皇家における「武力」の象徴ともいわれていて、日本武尊の東征の際も神剣として授けられています。日本武尊が罠にかかって火に囲まれた時も、天叢雲剣で草を薙ぎ払って生還したことから、「草薙剣」ともいわれています。
三種の神器について、実はユダヤにルーツがあるのではないかという説があります。
シルクロードの終点だった日本には、古来からさまざまな文化が渡来してきました。たとえば天皇のことを大和言葉では「すめらみこと」と発音します。土地や民を「統べる王」という解釈が一般的ですが、専門家のなかには、人類最古の文明とされる「シュメールの王」を指すと指摘する人もいます。
また天皇家の菊の紋は、同じ紋様が紀元前575年に建設されたバビロンのイシュタル門に描かれていました。
さらに、サッカー日本代表のシンボルとしても知られる八咫烏(やたがらす)は、中国の少数民族ミャオ族の信仰に由来するもの。ミャオ族は村の内と外とを隔てる境界に、八咫烏が止まるための木製肖形を立てていましたが、これが日本の鳥居の原型ともいわれています。
三種の神器についても、かねてよりユダヤの「イスラエル神宝」との類似性が指摘されていました。イスラエル神宝は、ユダヤの王家に伝わるもので、「十戒を記した石板」「アロンの杖」「マナの壺」の三種です。これらの秘宝を収めた箱は「契約の箱」と呼ばれ、2本の棒を通し、民衆が担いでいました。その姿は日本の神輿を彷彿とさせます。
また、祇園祭とイスラエル謝恩祭、高天原とノアの箱舟が漂着したとされるアララト山周辺など、日本の言葉や紋様、文化などにシルクロードで繋がった朝鮮半島、中国、インド、中東など諸文化の影響が多く見受けられるのは間違いありません。
天皇家の祖先が、海を渡って伝わってきた異文化を積極的に受け入れる柔軟さをもっていたことがわかるのではないでしょうか。
- 著者
- 学, 戸矢
- 出版日
国学院大学文学部神道学科を卒業し、神道・陰陽道研究において独自の視点でアプローチをしている戸矢学の作品。本書では三種の神器の歴史をまとめ、天皇の起源を探ろうと試みています。
天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、初代・神武天皇以降歴代の天皇に受け継がれてきた三種の神器。いわば天皇と不可分の存在です。ただ、なぜ鏡・剣・勾玉の三種だったのかについて、これまでさまざなな解釈がされてきましたが、いまだにはっきりとは解明されていません。
三種の神器の歴史を紐解くことは、天皇家そのものの起源を探ることに繋がるでしょう。天皇家はどこからやってきて、どのようにして日本の帝になったのでしょうか。 三種の神器の存在意義とともに、考えるきっかけになる一冊です。
- 著者
- 渡邊 大門
- 出版日
中世の日本では、「三種の神器を持つから天皇なのか」それとも「天皇が持つから三種の神器なのか」とう議論が巻き起こりました。
「壇ノ浦の戦い」から南北朝時代にいたるまでは前者の考え方が主流で、その結果、天皇に退位を迫ってでも三種の神器を奪いあうこととなります。
本書では、当時の政治情勢に三種の神器がどのような影響を与えたのか、そして人々の考え方がどのような変遷をたどっていったのかを紐解いていきます。中世日本を、三種の神器を軸に解説する本は珍しく、新しい角度で歴史を見たい人におすすめです。