奈良の都である平城京と、1000年の都といわれる平安京の間に挟まれるように、たった10年間だけ存在した「長岡京」をご存知でしょうか。この記事では、その作りや遷都の理由などをわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
長岡京は、平城京から北に40km、平安京から南西に10kmの場所にある山城国乙訓郡の都です。現在の京都府向日市、長岡京市、京都市にあたります。
第50代・桓武天皇の勅命で、784年に平城京から遷都されました。
長岡京の近くには、京都盆地に繋がる桂川や、琵琶湖に繋がる宇治川、平城京のある大和に繋がる木津川が合流して淀川となり、大阪湾に流れるポイントがあります。桓武天皇は、遷都と同じ784年に「山崎津」という港を造営。各地の物資を円滑に運び込むことを可能にしました。
実際に長岡京が存在していたのは、わずか10年間。建設途中で放棄されたと考えられ、長年にわたって「幻の都」とされてきました。その存在を裏付ける大内裏朝堂院の門跡が発見されたのは、1955年のこと。その後、1962年に大極殿の跡が発見されるなど調査が進み、1964年に国の史跡に指定されました。
調査の結果、長岡京は従来の説とは異なり、都としてほぼ完成していたこと、さらに東西4.3km、南北5.3kmという平城京や平安京に劣らぬ規模をもっていたことが明らかになっています。
都の中心には長岡宮へ繋がる朱雀大路があり、南北方向に4本、東西方向に9条と碁盤目状に道路が作られています。それぞれの区画が官衙、市、貴族の邸宅などに割り振られていました。また各家に井戸があったこともわかっています。水運による物資輸送、そして豊富な水資源に恵まれた長岡京は、いわば「水の都」だったのです。
桓武天皇が平城京から長岡京への遷都を決断した理由は「既存の仏教勢力や貴族勢力と距離を置くため」「新京の周辺地域を治める渡来系氏族との関係を構築するため」「皇統が天武系から天智系に戻ったことを世に示すため」などの説があります。
実際には、遷都という大規模な事業の目的がひとつだけではないはずですが、なかでも特に大きなウエイトを占めていたのが「平城京が抱えていた欠点の解消」です。
欠点のひとつ目は、物資の輸送が難しかったこと。菅野真道などが797年に編纂した『続日本紀』によると、桓武天皇は側近の藤原種継に対し、遷都先の第一条件として「物資の運搬に便利な大きな川がある場所」を挙げていました。
もともと平城京における物資輸送の玄関口は、難波津。しかし海岸線が土砂の堆積によって徐々に後退し、762年には難波津で遣唐使船が座礁するなど港としての機能を失いつつありました。
人口が多く自活できない都にとって、物資の輸送は生命線。桓武天皇は、三国川の河口に着目し、長岡京遷都と同時に淀川と直結させる工事をおこなっています。
また平城京は、水資源が少ないという欠点も抱えていました。
主な水源は平城京内を流れる佐保川だったと考えられていますが、最盛期には20万人を超える人々が暮らしていたこともあり、井戸水は枯渇。河川は生活排水による汚染が進んでいたと考えられます。その結果伝染病も発生。豊かな水資源がある場所への遷都が、喫緊の課題になっていたのです。
平城京が抱える欠点を解消できる長岡京は、理想的な遷都先でした。しかし結果的に、わずか10年で平安京に遷都されることになります。
そのきっかけとなったのが、桓武天皇の側近で、長岡京遷都の責任者だった藤原種継の暗殺です。
藤原種継は藤原不比等の三男である藤原宇合の孫で、紀伊守と山背守を兼任した人物。母親は長岡にも近い山背国葛野郡を治める秦氏の出身です。長岡京の遷都の際は秦氏も協力し、一族のなかには昇進した者もいました。
藤原種継自身、「中外の事皆決を取る」と評されるなど桓武天皇からの信任が厚く、大伴家持など先任者を飛び越える形で出世をしていきます。
そのため、大伴氏や紀氏などの旧豪族、北家や南家などの藤原氏の他流、東大寺などの寺社勢力のなかには、藤原種継を快く思わない人も多かったのです。
長岡京への遷都がおこなわれた直後の785年9月23日、工事現場を監督していた藤原種継は矢で射られ、翌日亡くなります。暗殺犯として捕らえられたのは、大伴竹良や大伴継人など十数名。大伴氏の長である大伴家持はすでに8月に亡くなっていましたが、首謀者とみなされて官籍から除名されました。皇族の五百枝王、藤原北家の藤原雄依、紀氏の紀白麻呂、大伴家持の子の大伴永主などは流罪になっています。
さらに、暗殺事件には東大寺の役人が関わっていたことから、出家して東大寺に住んでいた早良親王の関与も疑われ、乙訓寺に幽閉された後、淡路国に配流となりました。早良親王は無実を訴えるために絶食し、配流の途中に憤死しています。
その後、日照りによる飢饉や疫病の流行、洪水の発生、伊勢神宮正殿の放火、早良親王に代わって皇太子となった安殿親王の発病、桓武天皇の妃である藤原旅子、桓武天皇の生母である高野新笠の死去など不幸な出来事が相次ぎ、人々は「早良親王の祟り」として恐れはじめます。
桓武天皇は鎮魂の儀式をおこないますが、その2ヶ月後には長岡京の中を流れる川が大雨によって氾濫。大きな被害が出てしまいました。
この事態を受けた治水担当者の和気清麻呂からの提案もあり、793年には新たな都への遷都が決定。翌794年に平安京への遷都が実現するのです。
- 著者
- 井上 満郎
- 出版日
- 2013-11-20
平城京から長岡京、そして長岡京から平安京へと2度の遷都を実施した第50代・桓武天皇の生涯を解説した作品です。
百済王室の血を引くといわれる高野新笠を母にもつ桓武天皇は、もともとは即位の予定はなく、官僚として出世する道を思い描いていました。しかし政争のすえ、思いがけず45歳で即位することになるのです。
平城京から長岡京への遷都は、平城京にて絶大な発言力をもっていた仏教勢力との政争から距離を置くことも理由のひとつにあったといわれています。しかし遷都の責任者だった藤原種継が暗殺され、事件に関わったとして弟の早良親王までが命を落とすなど、平城京を離れても政争から離れることはできませんでした。
あらためて平安京への遷都を決断した桓武天皇。なぜ「平安」という名をつけたのでしょうか。本書を読むと、彼の強い想いが感じられるはずです。
- 著者
- 西本 昌弘
- 出版日
- 2013-02-01
桓武天皇は、長岡京や平安京への遷都を実現し、中世の扉を開いたとして、「中興の祖」といわれています。
奈良時代を通じて続いてきた天武系ではなく天智系の天皇だったこと、母親が百済出身など出自に関する弱点を補うために、身分を問わず優秀な者を積極的に登用し、改革を進め、国家レベルの大事業に挑みました。
桓武天皇が成し遂げたもうひとつの功績が「征夷」です。征夷とは、蝦夷を征討するという意味。東北地方を平定するために、征夷大将軍に坂上田村麻呂を登用し、数度の遠征をおこなっています。
本書を読めば、桓武天皇が遷都と征夷という難事業をいかにして実行していったのかがわかるはず。ハンデを背負いながらも積極的に改革を進めていったその生き方を知ると、勇気をもらえるでしょう。
- 著者
- 歴史探訪研究会
- 出版日
本書では、長岡京から遷都された平安京を中心に、成り立ちから室町時代までの京都の変遷を紹介した作品です。
地図帖と題されているように、平安京と現代の京都を俯瞰して比べられたり、四神に守られた「風水地図」を紹介したりと、さまざまな角度でそのダイナミックな変遷を見れるのが魅力的。早良親王の怨霊を鎮める仕組みや、平安京を守る寺社の成り立ち、浄土を再現した宇治平等院、都をあやかしから守った安倍晴明の活躍など、興味深い話題ばかりでしょう。
エリアごとのおすすめ探訪コースも掲載されているので、京都をめぐる際のガイドブックとしても重宝しそうです。