日本と国交がないにも関わらず、人気の観光地として相互に人々が往来する台湾。この記事では、オランダやスペイン、日本、そして中国の統治時代など、台湾の歩んできた歴史をわかりやすく解説します。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
約1万年前の更新世氷河期時代、台湾は中国と地続きでした。この地には、大陸から渡ってきた人が定住したと考えられています。
確認されている最古の人類は、台南市左鎮区で発見された「左鎮人」です。しかし彼らの生活について、そして先史時代の台湾についてはまだ解明が進んでいません。
歴史上、台湾らしき存在をうかがわせる記述は『三国志』『隋書』『文献通考』などに見られます。ただ、中国大陸の沖合に島があるという程度の認識で、日本列島や琉球との混同を指摘する研究者もいるため、詳しいことはわかっていません。いずれにせよ、中国にとっては「辺境」という認識でした。
台湾が注目されるようになったのは、16世紀の明の時代になってからです。この頃の台湾は倭寇の根拠地となっていて、その戦略的重要性に目を付けたのがオランダやスペインなどのヨーロッパ諸国でした。
台湾の別名「フォルモサ(麗しの島)」は、ヨーロッパ人として初めて台湾にやってきたポルトガル船の乗組員が、緑におおわれた台湾島の美しさに感動して名付けたと伝わっています。
またこの頃、日本でも台湾の価値に気付く人が現れていました。安土・桃山時代には、豊臣秀吉が朝貢を促す使者を派遣。江戸時代には有馬晴信や村山等安などが軍を派遣しましたが、いずれも失敗に終わっています。
歴史上、台湾を初めて領有したのは、オランダの東インド会社です。明の領土だった澎湖諸島を占領した後、1624年に現在の台南市を中心とする台湾南部を占領しました。さらにオランダに遅れること2年、1626年にはスペインが基隆を中心とする台湾北部に進出。1642年にはオランダとスペインが戦火を交え、勝利したオランダが台湾全土を勢力下に収めます。
その後オランダは、重商主義にもとづいて台湾の開発を志向し、中国本土から多くの漢民族を労働者として移住させました。同時に、キリスト教への教化政策やローマ字による言語教育をおこないます。オランダの統治期間は長くはありませんでしたが、その影響は後の台湾に大きな影響をもたらしました。
台湾がオランダに統治されていた頃、中国の明は、「ボハイの乱」「文禄・慶長の役」「楊応龍の乱」などたび重なる戦乱によって疲弊し、東林党と呼ばれる政治集団と、反東林党との間に政争が勃発するなど、国家としての力を失っていました。
1616年、東北部の満州では、女真族のヌルハチが明の支配下から脱して、後の清となる後金国を建国。明と後金国は1619年に「サルフの戦い」で激突し、明が敗れる結果となりました。1644年には北京が陥落し、276年間続いた明が滅亡します。
遺民たちは南部に逃れ、清に対する抵抗を続けました。そのなかにいたのが、鄭成功(ていせいこう)という人物です。鄭成功は、中国人の貿易商兼海賊である鄭芝龍と、日本人女性の田川マツとの間に生まれた子で、福松という日本名ももっていた人物です。
隆武帝を擁して清と戦いますが、敗退。この時、父の鄭芝龍はこれ以上の抵抗は無意味と降伏しますが、鄭成功は父と袂を分かち、「反清復明」を掲げて抵抗運動を続けます。
1658年、 永暦帝を擁した鄭成功は、もう1度清と戦いますが敗退。勢力を立て直すため、台湾の占領を試みます。1661年に澎湖諸島を占領し、1662年にはオランダの拠点だったゼーランディア城を占領して、鄭氏政権を樹立しました。
しかし鄭成功は熱病に冒され、わずか4ヶ月後に亡くなってしまいます。その後、彼の意志は息子の鄭経に引き継がれますが、1683年に清に降伏しました。
鄭成功はわずか数ヶ月しか台湾に関わっていませんが、漢民族による初の政権として高く評価され、孫文や蒋介石と並ぶ「三国神」の一人として台湾の人々から尊敬を集めています。また鄭成功の戦いぶりは日本にも伝わり、近松門左衛門が人形浄瑠璃『国姓爺合戦』を執筆。人気を博しました。
鄭氏政権を打倒した清は、台湾を福建省の統治下に編入。しかし台湾を「化外の地」、そこに住む人々を「化外の民」と呼び、皇帝の統治範囲外とみなすなど、一貫して台湾の統治には消極的でした。
そのため台湾の開発は、福建省や広東省から渡ってきた漢民族の移住者たちによって進められることになります。清が女性の渡航を禁じていたため、漢民族移住者と現地住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」が形成されていきました。
オランダ統治時代や鄭氏政権時代の開発は、南部が中心。彼らはマラリアやデング熱、台風などと戦いながら、徐々に北へ開発の手を伸ばしていきます。19世紀頃になると、現在の台北市など台湾北部が開発の中心となっていきました。
台湾と日本の本格的な接触は、悲劇的な形で起こります。1871年、遭難して台湾に漂着した宮古島の島民54人が、台湾の原住民によって殺害されるという事件が発生したのです。どちらかに悪意があったわけではなく、言葉が通じないことから誤解から生じた悲劇でした。
日本政府は清に対して、外交ルートを通じて厳重に抗議。しかし清の回答は、台湾の原住民は「化外の民」であり、清の責任外だというものでした。
駐日アメリカ公使らの助言を受け、日本は自力で捜査をすることに。54人が殺害されるという規模の大きさを鑑みて、警察ではなく、軍を派遣するのです。
「台湾出兵」「征台の役」と呼ばれるこの派遣は、明治政府として初めての海外派兵となりました。遭難事件から台湾出兵までの一連を「牡丹社事件」といいます。
この結果、清は日本に賠償金を支払うことになり、それとともに、台湾の戦略的重要性も思い知らされるのです。1885年には福建省から分離して台湾省を設置し、本格的な統治に乗り出しました。
しかし1894年に「日清戦争」に敗れた結果、締結された「下関条約」に従い、台湾は澎湖諸島とともに日本に割譲されることになります。
日本への割譲に反対する勢力が、台湾民主国の建国を宣言するものの、日本進駐軍との「乙未戦争」に敗れて崩壊。1896年、台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立されました。
これ以降、日本統治時代に台湾は3段階に分けて飛躍的な発展を遂げます。
まず第1期は、1895年から1915年までの20年間です。当初、台湾総督府は軍事行動を中心とする強硬策で台湾に相対しますが、結果として抵抗運動を引き起こすことになってしまい、日本と台湾の双方に大きな被害が出ました。
1898年、第4代総督となった児玉源太郎は、内務省の後藤新平を民政長官に任じます。後藤はイギリスの植民地政策を模範とする「特別統治主義」を採用し、日本との同化を無理に求めず、台湾の実情にあわせた政策を進めました。
この間に日本は「農業は台湾、工業は日本」とする政策目標を掲げ、台湾における農業振興策、鉄道をはじめとする交通網の整備、烏山頭ダムの建設など、大規模水利事業を実施。台湾の生産力を飛躍的に高めるとともに、専売制を敷くことで台湾財政の独立化を実現します。さらに、近代的な上下水道の整備による衛生環境の改善や、義務教育制度の導入による就学率向上などを果たしました。
1915年、民主と自由の思想による「民族自決」が国際的な潮流となるなか、大規模な抗日武装蜂起「西来庵事件」が起こります。日本の台湾統治政策も変化し、第2期を迎えました。
1919年、文官初の台湾総督に就任した田健治郎は、フランスの植民地政策を模範とする「内地延長主義」を採用。台湾人に日本人と同等の権利を与える、同化政策を進めます。
しかし1937年に「日中戦争」が勃発すると、単に同等の権利を与えるのではなく、日本人そのものにしてしまおうとする「皇民化運動」が盛んになり、台湾統治政策は再び変化。第3期を迎えます。
国語運動、創氏改姓、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点が推進され、台湾独自の文化は抑圧の対象となりました。
「太平洋戦争」の間、台湾は日本の重要戦略拠点として位置づけられ、水力発電所をはじめとする大規模インフラ投資がおこなわれます。戦争末期には、アメリカ軍による空爆の被害も受けました。また志願兵制ではあったものの、約21万人の台湾人が戦争に参加し、約3万人が命を落としました。
そして1945年、日本の敗戦により、50年間続いた日本統治時代が終了するのです。
終戦後、台湾には蒋介石率いる国民党軍が進駐し、台湾は中華民国の領土に編入されることになりました。
しかし国民党軍の軍紀は乱れていて、婦女暴行や強盗事件が頻発。さらに、行政を担うために新設された台湾行政公所の要職は「外省人」と呼ばれる新たに台湾にやってきた人々によって占拠され、もともと台湾に住んでいた「本省人」は排除されました。
これに反発した本省人は、1947年2月28日に蜂起します。「二・二八事件」です。蒋介石は徹底的な弾圧にはしり、数万人を処刑。台湾に恐怖政治を敷きました。
1949年、中国本土で起こった「国共内戦」に敗れた国民党軍が台湾に逃れてきたことにより、台湾は国民党による直接統治下に置かれます。兵士による強奪や、官僚による腐敗が蔓延し、本省人は「犬(日本)が去って、豚(国民党)が来た」と嘆いたそうです。
蒋介石は戒厳令を敷き、知識階級や共産党員などを厳しく弾圧するとともに、開発独裁体制を敷きます。数十万人いる国民党軍を養うためにも、共産党が建国した中華人民共和国に対抗するためにも、台湾の開発は喫緊の課題でした。
桃園国際空港、台中港、蘇澳港、中山高速公路、原子力発電所、台湾鉄路北廻線などを「十大建設」として進め、台湾経済の重工業化に急ぎます。中華人民共和国によるたび重なる侵攻の危機をしのぐことに成功しました。
アメリカとソ連が冷戦状態のなか、西側陣営は、台湾を東側陣営に対する防衛線とみなします。台湾にはアメリカから潤沢な援助がおこなわれるようになりました。「ベトナム戦争」の際も、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、台湾経済が潤っていきます。
しかし、アメリカと中華人民共和国の間に国交が樹立されると、台湾は国連からも追放されることになり、アメリカや日本と国交を断絶することになりました。
とはいえ、アメリカは「台湾関係法」を成立させて台湾の防衛を支え、日本も「国交は結ばないが、民間交流は続ける」という曖昧なかたちの関係を続けています。
この間も蒋介石は戒厳令を継続し、台湾ではこれに対する民主化運動が展開していきました。
1979年、世界人権デーにあわせておこなわれたデモ活動が警官隊と衝突し、主催者らが投獄される「美麗島事件」が起こります。この事件は台湾の民主化に大きな影響を与えることになりました。
1996年、蒋介石の跡を継いだ息子の蒋経国を支え、彼の死後に民主化を進めた李登輝が、台湾で初めての総統民選を実施。2000年の総統選では民進党の陳水扁が選出され、台湾史上初の政権交代が実現します。
現在の台湾は、引き続き膨張を続ける中華人民共和国の脅威にさらされながらも、ハイテク産業を中心に発展。香港やシンガポール、韓国とともに「アジア四小龍」に数えられるほどの経済規模を有する国家となっています。
- 著者
- 大東 和重
- 出版日
毎年多くの日本人観光客が台湾を訪れています。その人気の理由として、台湾特有の異国情緒と、どこか懐かしく感じる文化が挙げられるのではないでしょうか。本書は、そのような台湾文化がどのように形成されていったのかを解説する作品です。
約400年の歴史をもつ台湾。オランダ、スペイン、鄭氏、清、日本、中華民国とさまざまな政権に統治され、異なる影響を受けてきました。町並み、宗教、グルメなど、その痕跡は枚挙にいとまがありません。
戦前から現在にいたるまでの台湾の歴史を振り返り、文化形成を理解するのにおすすめの一冊です。
- 著者
- ["赤松 美和子", "若松 大祐", "赤松 美和子", "若松 大祐"]
- 出版日
世界の国や地域の概要をわかりやすく解説する「エリア・スタディーズ」シリーズ。本書では台湾を取り上げ、歴史、文化、経済、習俗、政治、安全保障など60章に分けられたテーマを、29人の専門家がまとめています。
1章はさほど長くないので、気になる項目から読んでもいいでしょう。
台湾について学びたいという方はもちろん、旅行に行く際のガイドブックとしても重宝する一冊です。