結婚政策を駆使して神聖ローマ皇帝となり、中世ヨーロッパ最大の君主となったハプスブルク家。ヨーロッパ屈指の名門貴族です。この記事では、始まりから最盛期まで、その栄枯盛衰をわかりやすく解説していきます。またおすすめの本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
愛と美と性を司るギリシアの女神アフロディーテと、トロイア王家のアンキーセースとの間に生まれ、古代ローマ建国の祖となったアイネイアース。彼の子孫はユリウス氏族と呼ばれ、ユリウス・カエサルをはじめとする多くの顕官を輩出し、古代ローマ随一の名門貴族となりました。
ハプスブルク家は、そんなユリウス氏族の末裔で、スイス北東部を発祥とする貴族です。
歴史上さかのぼることのできるハプスブルク家の始祖は、7世紀から10世紀頃、現在のドイツ南西部からフランスのアルザス地方を治めていたエティション家のグントラム金満公だといわれています。
1020年から1030年頃、彼の孫のクレットガウ伯ラートボトは、スイス北部のアールガウ州に「ハビヒツブルク城」を築きました。これが後にハプスブルク城と呼ばれるようになり、城主の家名となります。
13世紀なかばに、フリードリヒ2世と後継のコンラート4世が相次いで亡くなり、ホーエンシュタウフェン朝が断絶。ローマ王の座が空位になっていました。ローマ王というのは、諸侯に選挙で選ばれた神聖ローマ帝国の君主が、ローマ教皇から正式な戴冠を受ける前に名乗る称号です。諸侯や教皇の権力闘争でなかなか次のローマ王が決まらなかったことから、この時代を「大空位時代」といいます。
さまざまな対立関係があるなかで、妥協案として提案されたのが、まだ弱小で思い通りに扱いやすいと考えられたハプスブルク家の伯爵でした。ルドルフ4世がローマ王に選出され、ルドルフ1世となります。
その後ルドルフ1世は、勢力を拡大していたボヘミア王オタカル2世と対立。1278年の「マルヒフェルトの戦い」で勝利し、諸侯の思惑を越えて勢力を拡大していきました。
1282年にはオタカル2世の旧領だったオーストリア公国を獲得し、本拠地をスイスからオーストリアに移していきます。
ハプスブルク家は、ルドルフ1世の後も息子のアルブレヒト1世、フリードリヒ3世と3人のローマ王を輩出し、ヨーロッパでも指折りの名門貴族へと発展しました。
1359年になると、ルドルフ4世が「大公」を名乗ります。この称号は当時存在していないものでしたが、ルドルフ4世は「ハプスブルク家は選帝侯を上回る特権、すなわち自分の領内で爵位を授与し、封土を与える特権を有している」と主張しました。
これに対し、神聖ローマ皇帝のカール4世は、「特権の根拠となる証拠」の提出を求めます。ルドルフ4世は5通の特許状と2通の手紙を提出しましたが、どれも明らかな偽造でした。調査を依頼されたイタリア人の学者フランチェスコ・ペトラルカは、「この御仁はとんでもない大うつけだ」と報告しています。
しかし、嘘をついているからといって断罪するには、ハプスブルク家は大きくなりすぎていました。結果としてルドルフ4世の偽造文書は「大特許状」として認められ、「大公」という称号も追認されることとなるのです。
こうしてオーストリア大公となったルドルフ4世は、シュテファン大聖堂やウィーン大学などを建設。1365年に26歳の若さで亡くなりますが、『オーストリア年代記』には、「ルドルフが長生きしていたら、オーストリアを天まで昇らせたか、あるいは奈落の底まで突き落としていただろう」と書かれるほど、その後のオーストリアとハプスブルク家に大きな影響を与えました。
オーストリア大公として勢力を増しつつも、一時期王位から遠のいていたハプスブルク家。1438年に、およそ100年ぶりにアルブレヒト2世がローマ王となり、それ以降王位の世襲化に成功します。
1508年には「中世最後の騎士」と呼ばれるマクシミリアン1世が、ローマ教皇からの戴冠を受けないまま「皇帝」を名乗りました。それから1806年まで、神聖ローマ帝国の皇帝位はハプスブルク家によってほぼ独占されることになります。
マクシミリアン1世の時代は、ハプスブルク家のお家芸ともいわれる「結婚政策」がもっとも成功した時代。彼自身は、当時ヨーロッパでもっとも裕福だといわれていたブルゴーニュ公国のマリーと結婚し、ブルゴーニュ自由伯領と、ネーデルラントを獲得しました。
また息子フィリップの妻にはカスティーリャ王家の王女フアナを迎え、娘のマルグリットを王太子フアンに嫁がせる二重結婚を成立。イベリア半島の大部分とナポリ王国、シチリア王国を獲得します。
さらに孫のフェルディナントとマリアを、ハンガリーやボヘミアを治めていたヤギェウォ家と結婚させて、ハンガリーとボヘミアの王位をも継承しました。
マクシミリアン1世の死後、広大な領地はフィリップが早世していたため孫のカール5世に受け継がれます。カール5世の時代はハプスブルク家にとっての「最盛期」。ヨーロッパ、新大陸、アジアに跨る「太陽の沈まない国」を築きあげることに成功しました。
しかし同時に、その後長らく続くフランスとの争い、宗教改革、オスマン帝国の伸張などにも直面。カール5世は、ヨーロッパの統一と世界帝国の構築を夢見ますが、実現できないまま1558年に亡くなりました。
またカール5世は、弟のフェルディナント1世と領土を分割していましたが、カール5世の領地を息子のフェリペ2世が継承したことで、ハプスブルク家はフェリペ2世の「スペイン系ハプスブルク家」と、フェルディナント1世の「オーストリア系ハプスブルク家」に分裂します。
神聖ローマ皇帝位は、オーストリア系ハプスブルク家が世襲することになりました。
1717年、ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として、マリア・テレジアが誕生しました。
それまでのハプスブルク家では、6世紀初頭に確立した「サリカ法」にもとづき、男系相続が定められていました。しかしカール6世には成人した男子がおらず、後継者問題が浮上します。ここでいう後継者問題とは、誰をマリア・テレジアの婿として迎えるのか、ということです。
有力者たちは、バイエルン選帝侯やプロイセン王国の王太子を候補者として推薦。彼らはハプスブルク家のライバルで、結婚で敵を取りこんでオーストリアの勢力を安定させようという狙いがありました。
しかし最終的にマリア・テレジアが結婚したのは、彼女の又従兄妹のロートリンゲン公フランツ・シュテファンでした。なんと初恋の相手で、相思相愛の関係だったそうです。1736年2月12日に、当時としては珍しい恋愛結婚をしました。
周辺諸国の反対を抑えるために、フランツ・シュテファンは故国ロートリンゲン公国をフランスへ譲渡せざるを得ませんでした。怒りと絶望で3度もペンを投げ捨て、震える手で合意書に署名をしたと伝えられています。
1740年にカール6世が亡くなると、マリア・テレジアがオーストリア大公に即位。フランツ・シュテファンは共同統治者となりました。
しかしここで問題が発生します。カール6世は生前、マリア・テレジアがオーストリアを継承することを承認する、という約束を諸侯と交わしていましたが、諸侯はこれを無視。「オーストリア継承戦争」が勃発するのです。
ハプスブルク家に対抗するのは、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト。カール7世として神聖ローマ皇帝に即位します。
この苦境で采配を振るいオーストリアを救ったのは、フランツ・シュテファンではなく、マリア・テレジアでした。カール7世が亡くなるとフランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝に即位しますが、その後も実権はマリア・テレジアが握り続けます。
ただ夫婦仲は良かったらしく、ヨーゼフ2世、レオポルト2世、マリー・アントワネットなど16人の子をもうけ、1765年にフランツ・シュテファンが亡くなった際はマリア・テレジアも大いに嘆き、以降は生涯喪服しか着なかったそうです。
帝位は息子のヨーゼフ2世が継承。以降はハプスブルク=ロートリンゲン家が、カール1世が最後のオーストリア皇帝として退位する1918年までその座を保ちました。
2020年現在の当主は、カール1世の孫にあたるカール・ハプスブルク=ロートリンゲン。 元欧州議会議員です。一族の数は500人を超え、ヨーロッパだけでなく全大陸にいることから、断絶することはないだろうといわれています。
スイスの小領主に過ぎなかった頃から、ハプスブルク家は結婚を重視してきました。大きく「政略結婚」と「近親婚」に分けられます。
まず「政略結婚」は、領地の拡大、同盟者の獲得、敵対者との和解などその時々の政治事情によって相手が選ばれました。
たとえばマリア・テレジアの時代には、新興勢力であるプロイセンとの対立をきっかけに、長年にわたってヨーロッパの覇権争いをしてきたフランスとの和解が必要でした。
そのため、息子ヨーゼフ2世の妻にパルマ公フィリッポの娘であるマリア・イサベラを、娘マリア・アマーリアの嫁ぎ先にパルマ公フェルディナンドを、息子レオポルト2世の妻にスペイン王カルロス3世の娘マリア・ルドヴィカを、娘マリア・カロリーナの嫁ぎ先にシチリア王フェルディナンド3世を、娘マリー・アントワネットの嫁ぎ先にフランス王ルイ16世をあてるなど、子どもたちの多くがブルボン家の一族と結婚しています。
彼らの次の世代も婚姻を重ね、ヨーロッパの王家に血脈が広がったことから、マリア・テレジアは「ヨーロッパの曾祖母」とも呼ばれているのです。
反対に「近親婚」は、結婚によってハプスブルク家の領地が他家に流失することを防ぐ目的がありました。
ハプスブルク家では数世紀にわたって、叔父と姪、いとこ同士など、近親者間での血族結婚をくり返します。
しかし近親婚には障害児が生まれたり、子どもが夭折する事例が増えるなど、弊害もありました。カール5世も、下顎前突症という障害があったといわれています。
スペイン系ハプスブルク家最後の王となったカルロス2世のように虚弱体質な者も多く、ブルボン家にスペイン王位を奪われる要因にもなりました。
ハプスブルク家の結婚にまつわる伝統は、マリア・テレジアの時代以降、徐々に緩和されます。ただ結婚相手は王侯貴族に限られ、庶民との「貴賤結婚」は厳格に禁止される状況が20世紀まで続きました。
21世紀現在では、当主への事前報告とカトリックの伝統を守るのであれば、貴賤結婚も認められるようになっています。
- 著者
- 中野 京子
- 出版日
- 2008-08-12
名画から浮かびあがる物語に焦点を当てた「名画で読み解く」シリーズ。本書ではハプスブルク家を取りあげています。
ヨーロッパの世俗権力における頂点とされる神聖ローマ皇帝の座を掴んだハプスブルク家は、常に歴史の中心。そこに生まれた人々は、さまざまな宿命を背負いながら波乱万丈の生涯を送りました。
とにかく文章が面白く、断片的な事実を知ることだけが歴史の勉強ではないと教えてくれます。収録されている絵画がすべてカラーなのも嬉しいポイント。200ページほどと読みやすい文章量なので、当時のヨーロッパに興味のある方、貴族の生活を覗いてみたい方なども気軽に手にとってほしい一冊です。
- 著者
- 加藤雅彦
- 出版日
スイスの一領主に過ぎなかったハプスブルク家が、いかにして神聖ローマ皇帝の座を掴み、「太陽の沈まない国」とまでいわれる帝国を築けたのか、その変遷を追う作品。
写真をはじめ豊富な資料や図説が収録されているので、彼らが領域を拡大していく過程を視覚的に捉えることができます。
また各地に点在する宮殿など、ハプスブルク家の栄華を彷彿とさせる名所や旧跡の写真も載っているので、本書を読むだけでさながら世界旅行をしている気分になれるでしょう。ハプスブルク家の偉大さと歴史の壮大さをあらためて感じられる一冊です。