西ローマ帝国の後継を称し、約1000年にわたって続いた神聖ローマ帝国。中世ヨーロッパ史を知るうえで欠かせない存在です。この記事では、帝国の始まり、大空位時代、最盛期、そして滅亡にいたるまでの歴史をわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部の地域を中心に統治していた国家「神聖ローマ帝国」。480年に滅亡した西ローマ帝国の後継国家を自称し、1806年まで存在していました。
その始まりは、西ヨーロッパのほぼ全土を手中に収めていたフランク王カール1世が、ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝に戴冠された800年とする説が有力。ただ東ローマ帝国の皇帝はカール1世の皇帝位を承認していませんでした。カール1世も「ローマ帝国の統治者」と名乗ることはあっても、「皇帝」を名乗ることはなかったそうです。
そのため日本では、カール1世の戴冠から約160年後、フランク王国の後継国家のひとつである東フランク王国のオットー1世がローマ皇帝を戴冠した962年を、神聖ローマ帝国の始まりとする説が一般的です。
カール1世の時代は、ローマ教皇の権威は東ローマ帝国の皇帝よりも下でした。やがてオットー1世の時代になると、皇帝の権威はカトリック教会と不可分のものとする考え方が一般的なものとなります。これはつまり、俗界の最高権力者である皇帝の権威は、聖界の最高権力者であるローマ教皇を通じて、ヨーロッパ全土におよぶものであるということ。そのため皇帝には、キリスト教社会の守護者としての振る舞いが求められました。
帝国の中心がローマではなく現在のドイツにあたる東フランクにあること、それにも関わらず歴代の東フランク王がローマ王となり、その帝国が神聖ローマ帝国と呼ばれるのも、キリスト教社会の中心が教皇のいるローマだったからなのです。
しかし、皇帝と教皇の関係が常に良好なわけではありません。互いに封建領主だということもあり、領土問題などさまざまな紛争で対立関係に陥ることもあります。
その背景には皇帝の直轄地がドイツと北イタリアなどの一部に限られていて、帝国の大半が300以上の教会領や貴族領、帝国自由都市などの独立した政体で構成されていたという点があります。皇帝の力は必ずしも盤石なわけではなかったのです。
そもそも神聖ローマ帝国に明確な首都はなく、皇帝は領邦内を巡回しながら統治をしていました。しかし諸侯の力が増すにつれて皇帝の移動範囲は狭くなり、最終的には自分の領地から出ることさえ難しくなっていったのです。
11世紀後半から12世紀後半にかけて教皇の発言力が増すと、司教や修道院長の任命権をめぐる「叙任権闘争」に皇帝ハインリヒ4世が敗れ、教皇の地位が優勢になっていきました。
ハインリヒ4世が敗れる原因となったのは、神聖ローマ帝国の皇位継承の仕組みです。神聖ローマ帝国ではゲルマン民族の伝統にのっとった選挙制でローマ王が選出され、教皇から戴冠を受けることで初めて皇帝を名乗ることができました。
「叙任権闘争」にて、皇帝は教皇の廃位を宣言しますが、教皇も皇帝の破門を宣言します。この時、投票権をもつ諸侯が教皇側につき、ハインリヒ4世に代わる新たなローマ王の選定に動きました。
皇帝には諸侯を敵に回すだけの力はなく、ハインリヒ4世は雪が降るなか、教皇が滞在するカノッサ城の門前で裸足で許しを請うことになるのです。これが有名な「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件です。
これ以降、皇帝の立場は教皇だけでなく、投票権をもつ諸侯に対しても劣勢となっていきました。その結果、1254年から約20年間、ローマ王位が空白になる事態になります。これを「大空位時代」と呼びます。
1254年、ローマ王コンラート4世が亡くなりホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、コンラート4世と対立していたウィレム2世が現存する唯一のローマ王となりました。
「神聖ローマ帝国」という国号は、このウィレム2世が初めて使用したもの。それ以前は「ローマ帝国」もしくは単に「帝国」と呼ぶのが一般的でした。
しかしウィレム2世も1256年に死亡。ローマ王位が空になります。この事態を受けて1257年に、諸侯によってローマ王の選挙がおこなわれることになりました。
ローマ王として選出されたのは、イングランド王ヘンリー3世の弟であるコーンウォール伯リチャードと、カスティーリャ王アルフォンソ10世の2人。いずれも帝国外からの候補者でした。
コーンウォール伯リチャードを推薦したのは、ケルン大司教、マインツ大司教、ライン宮中伯。カスティーリャ王アルフォンソ10世を推薦したのは、トリーア大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、そして当初はコーンウォール伯リチャードを支持していたものの鞍替えしたボヘミア王オタカル2世です。
血統ではフリードリヒ1世の孫娘を母にもつカスティーリャ王アルフォンソ10世の方が有利でしたが、ローマ教皇の反対や国内の反乱によって皇帝位を戴冠することができずに終わります。また、所領が金の産地だったことから莫大な富をもち、その経済力を背景に諸侯の支持を得たコーンウォール伯リチャードも、国内の反乱に敗れ、兄ともども捕虜になるという事態になり、皇帝になることはできませんでした。
ローマ王が2人とも皇帝になれなかった後、ボヘミア王オタカル2世やフランス王フィリップ3世など有力な君主を擁立する動きが出ます。しかし有力者が皇帝になることは諸侯や教皇にとって必ずしも好ましいことではありません。彼らとしては、簡単に操れる無力な皇帝であることが重要でした。
そこで目を付けられたのが、ほぼ無名に近いハプスブルク伯ルドルフ4世です。1273年、ルドルフ4世はルドルフ1世としてローマ王になります。
大空位時代が終わりを迎え、後に神聖ローマ帝国の最盛期を築くハプスブルク家が歴史の表舞台に出た瞬間でした。
ルドルフ1世はローマ王に選出された時点で50歳を超えていました。かつてホーエンシュタウフェン朝が没落に向かうなかでも忠義を尽くして仕えた姿勢を評価されていたものの、他に特筆することのない凡庸な人物とみなされていました。
しかしそんな諸侯の予想に反して、1276年にはボヘミア王オタカル2世を倒し、ハプスブルク家をヨーロッパでも有数の家門に発展させていきます。
そのため、強大化を恐れた諸侯によってハプスブルク家が王位を世襲することは認められず、以後150年、ローマ王はハプスブルク家以外の家門から選出されることが通例になりました。これを「跳躍選挙」といいます。
1356年には、ルクセンブルク家のカール4世が後に神聖ローマ帝国の最高法規と位置付けられる「金印勅書」を発布。選挙のルールを明確化したうえ、マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の7人が「選帝侯」と定められ、数々の特権が与えられました。
ハプスブルク家は一時期歴史の表舞台から姿を消しますが、その間も自らの根拠地であるオーストリアの内政に力を入れ、徐々に勢力を増していきます。1438年にアルブレヒト2世が108年ぶりにローマ王になると、そこからは王位の世襲化にも成功。
さらに1508年にはマクシミリアン1世が教皇からの戴冠を受けないまま「皇帝」を名乗り、以降、神聖ローマ帝国皇帝位はほぼハプスブルク家によって独占されることになるのです。国号も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に変更しています。
マクシミリアン1世は、ハプスブルク家のお家芸でもある結婚政策で、オーストリアやドイツ、ハンガリー=ボヘミア、スペイン、ネーデルラント、ナポリ=シチリア、サルデーニャにまたがる広大な帝国を築きあげました。
孫のカール5世の時代にはさらに世界各地に拡大し、「太陽の沈まない国」と形容される神聖ローマ帝国の最盛期を築くことになるのです。
1806年、神聖ローマ帝国は滅亡します。直接的な要因となったのは、1805年にフランスとの間で勃発した「アウステルリッツの戦い」に敗れたことです。
1806年、ナポレオンはライン川流域の諸侯を集めて「ライン同盟」を結成。バイエルンやヴュルテンベルクなどの有力諸侯を含むドイツ南西部16の諸邦が、神聖ローマ帝国から離脱しました。
これを受けて、ハプスブルク家のフランツ2世が神聖ローマ帝国の皇帝から退位。神聖ローマ帝国は約1000年の歴史に終止符を打つことになったのです。
しかし実際には、すでに1648年の時点で神聖ローマ帝国は終焉を迎えていたとする研究もあります。
ボヘミアのプロテスタントが反乱したことをきっかけに起こった「三十年戦争」で神聖ローマ帝国が敗北し、「ウェストファリア条約」が締結されました。この条約で帝国内の各領邦に主権が認められ、皇帝の権利が著しく制限されることになったのです。皇帝の有名無実化が進み、神聖ローマ帝国は事実上解体されました。
ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国が滅亡した後も、オーストリア皇帝やハンガリー王として統治を続けます。一方でドイツはその手を離れ、1871年にはプロイセンによってドイツ諸邦が統一。ドイツ帝国が成立しました。
神聖ローマ帝国について、18世紀にフランスで活躍した思想家のヴォルテールは「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と評価をし、17世紀のドイツの法学者プーフェンドルフは「妖怪に似ている」と語りました。
しかし、この不可思議な帝国は1000年にわたって実在し、その政治体制は現在のドイツ連邦の基礎として今なお、生き続けています。
- 著者
- 菊池 良生
- 出版日
- 2003-07-19
約1000年にわたってヨーロッパの中枢に在り続けた神聖ローマ帝国の、歴代皇帝の功績を簡潔にまとめた作品。
年代を追って記述されているので、歴史の流れをつかみやすく、教会勢力や諸侯との抗争をくり広げながらもいかにして神聖ローマ帝国が存在していたのかを知ることができます。
壮大なテーマですが、260ページと読みやすい文量なのもポイント。また、ところどころに家系図などが挿入されていて、同じような名前の人物が乱立していても混乱せずに読み進めることができるでしょう。ヨーロッパ史の幹ともいえる神聖ローマ帝国の概要を知れる一冊です。
- 著者
- 文夫, 池谷
- 出版日
フランク王国のカール1世、東フランク王国のオットー1世、そしてハプスブルク家のカール5世、彼ら神聖ローマ帝国の皇帝たちが抱いていた夢は「古代ローマ帝国」の復活だったといわれています。
かつて古代ローマ帝国と戦った歴史をもつゲルマン民族系の人々が、古代ローマ帝国の復活を目指すのは不思議なことです。本書では、ゲルマン系民族と神聖ローマ帝国の関係に焦点を当て、「そもそも神聖ローマ帝国とは何だったのか」という疑問を解き明かしていきます。
神聖ローマ帝国の成立から滅亡までを振り返り、その歴史を再評価しようと試みる、読みごたえ十分の一冊です。