中国の首都・北京の玄関口としてたびたび歴史上の舞台となってきた「天津」。その名を冠する3つの「天津条約」は、近代中国史を理解するうえでも重要です。この記事では、3つの条約が結ばれるきっかけや内容をわかりやすく解説していきます。
歴史を学んでいると登場する「天津条約」。実は3つあるのをご存知でしょうか。日本で「天津条約」という場合は、一般的に1885年4月に結ばれたものを指します。
きっかけとなったのは、1884年12月に起こった「甲申政変」です。甲申政変は、朝鮮の開国と清からの独立を目指す「開化派」と呼ばれた勢力が、日本の明治維新を模範し、政権を握っていた保守派の「事大党」を追い落とそうとしたクーデターのこと。一時は政権を奪いましたが、清の介入でわずか3日で崩壊。開化派の多くが処刑される事態になります。
この時清軍によって日本の居留民が殺害されたこと、さらに仁川へ退避中の公使一行が襲撃されたことから、日本と朝鮮、清の関係が悪化しました。
日本国内では、自由党の機関紙「自由新聞」や福沢諭吉の「時事新報」などを中心に主戦論が巻き起こり、戦争への機運が高まります。
しかし、日本政府の要職者たちは、日本の国力では朝鮮とその背後にいる清と戦うことは不可能という共通認識を有していて、世論に反してでも関係修復に動きました。
交渉では井上馨が全権大使を務め、1885年1月9日、「朝鮮国王の謝罪」「日本人死傷者への補償金」「日本公使館再建費用の負担」などを定めた「漢城条約」が締結されます。
残された課題は、朝鮮半島で睨みあう日清両軍の撤兵問題と、清軍によって日本人が殺害された事件の責任追及でした。
日本は清と交渉するうえで、政府の最高実力者である伊藤博文を特命全権大使に任じ、西郷従道、井上毅、伊東巳代治、牧野伸顕など12人の随員と、10人の随行武官を引き連れて中国に向かいます。
一方で清の代表は、北洋通商大臣の李鴻章が務め、交渉の場所は天津に決められました。
日本は、公使と護衛隊が清軍に攻撃されたことと、漢城市街で在留日本人が多数殺害されたことを非難したうえで、朝鮮から日清両国の即時撤兵と、日本人殺害に関与した清軍指揮官の処罰を求めます。
これに対し清は、そもそも件のクーデターは日本が開化派をそそのかして引き起こしたのではないかと日本を非難し、日本人殺害は朝鮮人がやったことで、清は関係がないと責任を認めません。
日本人殺害事件については再調査をして、日本の主張が事実であれば処罰をおこなうという形に決着。また日清両国の即時撤兵についても早々に合意がなされました。
その後焦点となったのは、再出兵に関する問題です。日本は朝鮮を独立させるという目的を実現するため、「第三国による侵攻などの場合を除き、日清ともに出兵するべきではない」と主張します。しかし清としては、清が朝鮮の宗主国である以上、「朝鮮からの要請があれば出兵する」という主張をしました。
両者の交渉は6回にのぼり、最終的には「将来朝鮮に出兵する際には相互通知をおこなう」「事態終息後は駐留せず即時撤兵する」という妥協案でまとまり、1885年4月18日に「天津条約」が締結されたのです。
しかしこの締結が、後に「日清戦争」を引き起こすことになってしまいます。
1894年、朝鮮で「東学党の乱」が起こり、朝鮮政府は清に対して出兵を要請しました。日本も居留民を保護するために出兵を決定。日清両国は「天津条約」の取り決めにのっとって、相互通知のうえ、朝鮮に出兵します。
しかしこの間に朝鮮政府と東学党の間で和議が成立し、「東学党の乱」が終息。日清両国は派兵目的を失いました。
「天津条約」に従えば、事態の終息後、日清両国は即時撤兵するはずです。しかし日本はこれを拒否し、「朝鮮の国政改革」を名目に居座ります。
当時の伊藤博文内閣は、内閣弾劾上奏案が可決され、解散総選挙に追い込まれるなど政治力を失っており、国内の強硬論を抑えることができる状態ではありませんでした。朝鮮に出兵したにも関わらず、何の成果も持ち帰らないわけにはいかなかったのです。
日本は従来、朝鮮を清の冊封下から独立させることを目的にしていました。しかし国政改革を求めて圧力をかけることは内政干渉になり、従来の主張に反する行為といわざるを得ません。
しかし日本は、強硬な国内世論に引きずられる形で、国力ではるかに劣る清を相手に、戦争を挑むことになるのです。これが「日清戦争」です。
1885年、清はフランスとも「天津条約」を締結しています。
きっかけとなったのは、1883年に勃発した「清仏戦争」です。発端は1840年代に始まった、フランスによるベトナムへの進出でした。当時のベトナムは阮朝が支配していましたが、清に朝貢をしていて、形式的には清の従属国という立場です。
一方のフランスは1858年から1862年にかけておこなわれた「コーチシナ戦争」でベトナム南部を制圧。仏領コーチシナとして、東南アジア進出の拠点としていました。
そんななか、フランスのアンリ・リビエールやフランシス・ガルニエなどの士官が、上官命令を無視してベトナム北部や清の南部に侵攻する事件が発生。阮朝や、清南部を支配する軍閥の劉永福と対立します。阮朝は宗主国である清に救援を依頼し、清は援助をするとともに、自らも遠征軍を派遣しました。
戦線はベトナムの陸上だけでなく、海戦、そして台湾へと拡大。フランス軍に大きな損害を与えます。一方の清も、福建艦隊がほぼ壊滅するなどの打撃を受け、敗北を喫しました。
講和交渉で清の代表を務めたのは、日本の時と同様に李鴻章。フランスの代表は、公使ジュール・パトノートルです。
清とフランスの「天津条約」は1885年6月9日に締結され、清はベトナムに対する宗主権の放棄、フランスの保護権、中国南部における通商、鉄道建設を認めることになりました。これによって、フランスはインドシナ半島への支配を確固たるものとしていったのです。
中国が結んだ3つの「天津条約」のうち最初に締結されたのは、1858年の「天津条約」です。
きっかけとなったのは、1856年に勃発した「アロー戦争」。中国人による外国人排斥事件の象徴ともいえる出来事で、アヘン戦争に続く戦いだったことから「第二次アヘン戦争」とも呼ばれています。
イギリス・フランス連合軍と戦った清は、広州を占領され、北京の玄関口である天津をも制圧されてしまいました。
清は大学士の桂良を代表にして講和交渉をおこない、1858年6月13日にロシアと、6月18にはアメリカと、6月26日にイギリスと、そして6月27日にフランスと「天津条約」を締結します。
その内容は、「イギリス、フランスに対する軍事費の賠償」「外交官の北京駐在」「外国人による中国国内の旅行と貿易の自由および治外法権」「外国艦船の揚子江通行の権利保障」「キリスト教布教の自由と宣教師の保護」「10港の開港」「公文書等において西洋官吏を指す際に蛮族を意味する『夷』を用いないこと」「アヘンの輸入公認」などでした。
清国内では「天津条約」に反対する声も多く、1859年には再度イギリス・フランス連合軍と戦うことに。しかし清軍はまたしても敗れ、イギリス・フランス連合軍は北京に乱入。離宮「円明園」を略奪しました。
結果として、1860年には清にとってはより屈辱的な「北京条約」を締結することになるなど、中国は列強による草刈り場と化します。また「アヘン戦争」や「アロー戦争」で清が見せた衰えは、幕末期の日本にも大きな影響を当て、日本は明治維新へと進んでいくことになるのです。
- 著者
- 岡本 隆司
- 出版日
- 2017-01-06
従来の東アジアには、中国を中心に、省と朝貢国からなる「所属邦土」と呼ばれる秩序が形成されていました。「邦」すなわち朝貢国は、徴税や内政の権利を与えられていたのです。 しかしこれは、西洋列強の掲げる「国際法」とは相容れぬ考え方。19世紀になると、東アジアは押し寄せる西洋列強によって浸食されることになります。
日本は、新たな環境にいち早く対応し、明治維新を成立。「日清戦争」で敗れた清は朝鮮の独立を認めることになり、その影響はチベットやモンゴルなど他の朝貢国にも広がり、結果として「アジアの盟主」の座を失いました。
その過程を象徴するのが、3つの「天津条約」であるといっても過言ではないでしょう。本書ではいくつかのキーワードを軸に、中国と西洋、日本、チベット、モンゴルなどとの関係がどのように変化していったのかを読み解き、「中国とは何か」という壮大な問いに解を見出そうとしています。
「アジア・太平洋賞特別賞」と「樫山純三賞」を受賞した、近代中国史研究の決定版ともいえる一冊です。
- 著者
- 大谷 正
- 出版日
明治維新を成し遂げた日本が、その後長きにわたって抱き続けた目標が、「国土防衛のための緩衝地帯」をもつというもの。日本本土を守るためには朝鮮半島が必要で、朝鮮半島を守るためには遼東半島や満州が、満州を守るためには華北が必要という具合に、緩衝地帯を求めて侵略行為をくり返すことになるのです。
「日清戦争」は、その始まりともいえるもの。本書では、「甲申政変」や「天津条約」など、「日清戦争」開戦までの経緯や、戦いの推移、終戦後もなお続いた台湾での戦いなどを解説していきます。
対外戦争をくり返すことになる日本の近代史を知るうえで、読んでおきたい一冊です。