日本を「黄金の国ジパング」として西洋に伝えたことで有名なマルコ・ポーロの『東方見聞録』。しかし、マルコ・ポーロは実際には日本を訪れていなかったことをご存知でしょうか。この記事では、『東方見聞録』の内容や、元寇との関係などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
『東方見聞録』は、ヴェネツィア共和国の商人で冒険家でもあったマルコ・ポーロが、1271年から24年間にわたってアジアをめぐった全行程、約15000kmの旅の記録です。
マルコ・ポーロは帰国後の1295年から「クルツォラ戦争」に従軍。ヴェネツィア共和国の兵士としてジェノヴァと戦い、捕虜となりました。獄中で出会った著述家ルスティケロ・ダ・ピサに旅の詳細を話し、彼が口述をまとめたそうです。
マルコ・ポーロもピサもイタリア人ですが、『東方見聞録』は古フランス語で書かれています。また『東方見聞録』というタイトルは明治から大正にかけて日本や韓国で用いられるようになったもので、原題は不明です。
そのため国際的には『世界の記述』『驚異の書』、またマルコ・ポーロの口癖だった「100万」にもとづいて『イル・ミリオーネ』などと呼ばれています。
もともとの本は散逸し、完全な形では残っていません。出版後、多くの言語に翻訳され、手写本として世に広まっていく過程でさまざまな異本が作られ、現在では138種類の写本が確認されています。
『東方見聞録』は全4巻で構成されていて、日本に関する記述は3巻に登場します。日本のことを「黄金の国ジパング」として紹介したことが有名ですが、実はマルコ・ポーロは、日本を訪れてはいません。
『東方見聞録』に記されている内容は、中国でイスラム商人などから聞いた噂話をまとめたものだそう。事実に近いものもあれば、まったく空想上の事柄や他の国や地域と混同しているものも少なくないのです。
日本の位置については、「カタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国」と記されています。1500マイルはおよそ2500kmで、実際の中国大陸と日本の距離にはあいませんが、双方の海岸線ではなく、マルコ・ポーロが滞在していた北京から幕府のある鎌倉までの距離は約2100km。また当時の日中貿易の拠点となっていた泉州から博多までの距離とも一致していて、あながち間違っているとはいえません。
「黄金の国ジパング」というイメージのもとになったのは、「莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできている」という記述でした。
「莫大な金を産出し」とあるのは奥州の金産地を、「宮殿や民家は黄金でできている」は、中尊寺金色堂を指しているのではないかとする説が有力です。ただ通訳者が「木」と「金」を聞き違えて翻訳したのではないかとする指摘もあります。
また『東方見聞録』には、日本の風習として「捕虜にした敵を殺し、料理して食べる。彼らは人肉が他のどの肉よりも美味いと考えている」と食人習慣があったかのように書かれていますが、事実ではありません。
もうひとつ、『東方見聞録』には、日本軍が「奇跡の石」を武器にして戦っていたという記述があることも有名ですが、これが何を指しているのかは明らかになっていません。
『東方見聞録』で描かれる東洋の文物は、当時の西洋の人々からすれば信じがたい事柄も多く、マルコ・ポーロは「嘘つき」といわれたそうです。一方で多くの人々の東洋への憧憬をあおり、『東方見聞録』を読んで、まだ見ぬ世界を夢見て冒険に出る者も多く現れたといいます。
そのひとりが、アメリカ大陸の発見で知られるクリストファー・コロンブスです。彼が所有していた『東方見聞録』には、366の書き込みがされていたそう。そのため『東方見聞録』は、「大航海時代のきっかけ」という評価もされています。
マルコ・ポーロが、いつどこで生まれたかは明らかにはなっていません。有力なのは、代々商家を営むポーロ家の息子として、1254年にヴェネツィア共和国で生まれたとする説。現在でもヴェネツィアにはマルコ・ポーロの生家といわれている建物があります。
また当時ヴェネツィア共和国領のコルチュラ島で生まれたとする説もあり、こちらにもマルコ・ポーロの生家とされる建物が残っています。
父親のニッコロー・ポーロは、中東貿易に従事する商人で、家族を残してコンスタンティノープルやクリミア半島で活動していました。弟とともにアジアにも活動範囲を広げ、1266年には元の皇帝クビライに謁見しています。
この時、クビライから「文法や修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学などリベラル・アーツに通じる100人のキリスト教徒の派遣」を求めるローマ教皇宛ての書簡を託された2人は、1269年にヴェネツィアに戻り、ここで15歳になっていたマルコ・ポーロと初めて会いました。
マルコ・ポーロのアジアへの旅は、教皇からの返書をクビライに届けるために、元に向かう2人に同行するかたちで始まったのです。
パミール高原やゴビ砂漠を越える約3年半の旅路を終え、元の都に到着した一行は、皇帝から歓迎されて元の官僚に任命されました。マルコ・ポーロは南西部の雲南、蘇州、楊州で徴税実務を担い、外交使節としてビルマやスリランカ、ベトナムなどにも足を運んだそうです。
約17年間元に滞在したマルコ・ポーロですが、クビライが高齢になったこともあり、元の政情は不安定になっていきました。クビライが亡くなると、彼に厚遇されていた自分たちが政敵から排除されることを危惧し、帰国することを決断します。
帰りの航海は、600人の乗組員が18人になるほど厳しいものだったそう。1295年、24年ぶりにヴェネツィア共和国に戻りました。
その後獄中で『東方見聞録』を口述し、釈放されると、商人の娘ドナータと結婚。3人の子どもにも恵まれます。
それからは父の跡を継いで豪商となり、ヴェネツィア共和国を出ることなく1324年に亡くなりました。
マルコ・ポーロが元に滞在していた頃、元と日本は1274年の「文永の役」、1281年の「弘安の役」と2度にわたって戦火を交えています。この2つの戦いをあわせて「元寇」といいます。
元寇はどちらも日本の勝利に終わるのですが、かつては「日本軍が一騎打ちを挑もうとするも、集団戦を得意とする元軍に囲まれて次々と殺され、苦戦していたところに神風が吹いて奇跡的に勝利した」と伝えられていました。
しかし近年の研究では、「日本軍は弓の射程や正確性を活かす集団戦で臨み、奇襲戦法も駆使して元軍の上陸を許さなかった」ことが勝利に繋がったと見直されつつあります。
『東方見聞録』にも、元寇に関する記述がありました。しかし「元軍が京都まで攻め込んだ」など事実ではない事柄も多く含まれています。
『東方見聞録』の特徴として、「香辛料や金銀財宝など金になりそうな産物」については詳細に書かれているのに対し、「習俗」「政治・軍事」などは詳細に調べた形跡がなく、伝聞を鵜呑みにしている傾向があります。商人だったマルコ・ポーロの興味がどこに注がれていたかが、よくわかるでしょう。
また元寇に関しては、「クビライはこの島の豊かさを聞かされて征服しようと思った」と記述されていることから、マルコ・ポーロが日本を「黄金の国ジパング」としてクビライに紹介したことが元寇のきっかけになったのではないかとする説があります。
ただクビライが日本侵攻を考え始めたのは1230年から1260年代に高麗と戦っていた時だとされていて、日本に朝貢を促す使節を初めて送ったのも1266年のこと。いずれもマルコ・ポーロが元を訪れる以前のため、実際は異なるようです。
一方で、日本が「黄金の国ジパング」と形容されるほど豊かな国であるという噂については、マルコ・ポーロが伝えるよりも早く中国で広まっていた可能性はあります。
- 著者
- マルコ ポーロ
- 出版日
- 2000-02-01
『東方見聞録』という書名を聞いたことはあっても。実際に読んだことがあるという方はどれくらいいるでしょうか。日本について書かれている本だと思っている方も多いと思います。
ただ実際はマルコ・ポーロは日本にやって来ていませんし、日本について書かれているのも全4巻のうちほんのわずかです。『東方見聞録』でもっとも多くのページを割かれているのは、マルコ・ポーロが元の官僚として中国に滞在していた時のこと。
ヴェネツィアの商人であるマルコ・ポーロが故郷への思いも抱きながら過ごした世界最大の帝国と、その頂点に立つクビライの様子などは実に読みごたえがあります。注釈も充実していて、『東方見聞録』を読んでみたいと考えた人におすすめの一冊です。
- 著者
- ["マイケル ヤマシタ", "ジアンニ グアダルーピ", "井上 暁子"]
- 出版日
作者のマイケルヤマシタは、『ナショナルジオグラフィック』の寄稿家として、写真と旅という2つのテーマに20年以上取り組んできた人物。本作では、350点ほどの写真とともにマルコ・ポーロの足跡を辿っていきます。
イタリアから始まり、中東のイラク、イランを経てアフガニスタン、さらにパミール高原を越えて中国まで。マルコ・ポーロも見たであろう広大なユーラシア大陸の自然や、そこに暮らす人々の暮らしが見事に切り取られていて、『東方見聞録』に収められた偉大な旅路の足跡が蘇ってくるようです。
いわば現代版の『東方見聞録』ともいえるもの。イタリアの歴史家が寄せた解説も面白く、おすすめの一冊です。