5分でわかる株仲間!江戸時代の三大改革、田沼意次の政策をわかりやすく解説

更新:2020.5.25

江戸時代の三大改革に並ぶ「田沼時代」を築いた老中の田沼意次。彼の政策の目玉が、株仲間の奨励でした。この記事では、その仕組みや導入のきっかけ、そして解散までの経緯をわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、あわせてチェックしてみてください。

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株仲間とは。どんな仕組みかわかりやすく解説

 

株仲間とは、問屋などの同業者が、市場を安定的に独占するために新規参入業者を排除し、一種のカルテルをつくることです。

その仕組みは、幕府に運上金や冥加金と呼ばれる税金のようなもの納めるかわりに、独占販売権を獲得し、株仲間に加入している業者だけが特権を行使できるというもの。

現代においても、古くから組織にいて幅を利かせている人を「古株」ということがありますが、これは株仲間に古くから加入している業者を「古株」、新しく加入した業者を「新株」と呼んでいたことに由来します。

また株仲間には、行事、年寄、年番、取締などの役員がいて、彼らが寄合をして協議をしながら株仲間の方針を決めていました。一般的にこれらの役員には、古株の業者が就任していたそうです。

株仲間のような独占的な組合組織は、平安時代から存在し、当時は「座」と呼ばれていました。

もともとは寺社仏閣や民間業者が中心でしたが、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉がおこなった「楽市楽座政策」によって解体され、江戸時代初期にはたびたび禁令が出されるなど、座の結成は規制されていきます。新規参入やイノベーションなど自由な商業活動を妨げるというデメリットがあったからです。

しかし座のような組合組織には、盗品売買の取り締まりや盗人の摘発、商品の供給量および価格の安定化などのメリットもありました。そのため、江戸幕府の政策も徐々に組合組織の結成を認める方針に転換し、株仲間ができたのです。

 

株仲間のきっかけとなった「享保の改革」や五人組との違いも解説!

 

江戸時代は、山林や漁業をする権利、米を仲買する権利、両替する権利、武士が御家人になる権利、町人が名主になる権利など、さまざまな権利が売買の対象となっていました。これらの権利のことを「株」といいます。

職業は親子で代々受け継がれる世襲制が一般的でしたが、たとえ実の子どもであったとしても、株を失うと職業を受け継ぐことはできません。

すると人々はしだいに、自分の株を守ろうと同業同士で結束するようになります。これが「株仲間」の始まりです。

結成当初は同業者たちによる私的な集団に過ぎなかった株仲間が、幕府公認となったのは、第8代将軍・徳川吉宗が進めた「享保の改革」がきっかけでした。

「享保の改革」の主な目的は、幕府財政の再建。主な手段は、倹約の奨励と増税です。幕府は株仲間を公認し、独占販売権を与えるかわりに、運上金や冥加金を得て増収を図りました。

また農村部では、年貢の割合を従来の四公六民から五公五民に引き上げ、豊作や凶作に関わらず一定の年貢を納める「定免制」を導入します。しかしこれらの政策は農民の反発を招き、特に凶作時には負担が大きいとして農民一揆が頻発するのです。

このような一揆の発生や拡大を防止する役割を担っていたのが、「五人組」という組織です。五戸前後を1組として編成し、各組ごとに代表者を決めて組織化したものでした。

株仲間の目的が市場の独占と安定的な商業活動の維持であるのに対し、五人組は一揆の防止や治安維持、争議の解決、年貢の確保、法令の周知徹底、逃散防止などを目的にした、相互監視システムでした。

 

なぜ老中・田沼意次は株仲間を奨励したのか

 

「享保の改革」の時代は、幕府の政策は農本思想的な発想にもとづく重農主義が基本。株仲間の公認など商業的な政策もおこなわれはしたものの、主流ではありませんでした。

しかし商業資本や高利貸などが発達していた時代に、「米」を中心とする重農主義は時代遅れといえるもの。そのような政策をあらため、商業主義的な経済政策を推し進めたのが、徳川吉宗に続く第9代将軍・徳川家重と、第10代将軍・徳川家治の時代に権勢を振るった老中の田沼意次です。

田沼意次は、鉱山の開発、蝦夷地の開発、俵物などの専売による外国との貿易拡大などさまざまな政策を行いましたが、なかでも代表的なのが株仲間の奨励でした。

従来、田沼意次が株仲間を奨励した理由は、増収だといわれてきました。しかし規模の大きい株仲間であっても初年度の冥加金は30両、翌年度以降は10両など比較的安く、その効果を疑問視する声もあがっています。今日では、株仲間を通じて流通や物価を安定させることが目的だったのではないかとする説も有力です。

田沼意次というと、「賄賂」というイメージがあるでしょう。確かに株仲間という組織の性質上、賄賂が横行していてもおかしくはありませんが、これらのイメージは、政敵である松平定信や、江戸時代を暗黒時代としたかった明治新政府などによって増幅されている面も否定できません。

実際に田沼意次自身が賄賂を受け取っていたという記録は発見されておらず、松平定信自身も、元禄期から寛政期までの約100年間において、幕府の財政がもっとも潤っていたのは田沼意次が政権を握っていた時期だったと認めているほどでした。

 

株仲間の解散と「天保の改革」を解説

 

田沼意次の時代に幕府の財政は好転しましたが、明和の大火や浅間山の噴火など災害の頻発によって、1782年から「天明の大飢饉」が勃発します。食糧難や疫病で農村が疲弊し、この時被災地の救援を積極的におこなわなかったことや、幕閣を親類縁者で固めるなどの専横ぶりが諸大名や庶民の反発を招きました。

また、当初は物価や流通の安定に効果を発揮していた株仲間も、その数が増えるにつれて、市場の独占による物価の高騰を招き、批判の対象となっていきます。

江戸時代の三大改革のひとつである「天保の改革」を進めた水野忠邦は、1841年、江戸で「株仲間解散令」を発令。商品流通の自由を保証しました。翌年までに大阪や京都でも同様の法令が発布され、株仲間は解散します。

水野忠邦は、物価が高騰する原因となっていた株仲間を解散させることで、新規参入者が増加し、物価が下がることを期待していました。

しかし、両替商など資本力や信用が重視される業種では新規参入者があまり増えず、物価は下がりませんでした。一方で、日用品など新規参入が容易な業種は、新規参入業者が増えすぎてしまい、過当競争や取引秩序の破壊によって流通が混乱してしまいます。

さらに影響が大きかったのが、株仲間が解散したために彼らがもつ株の価値が暴落したこと。担保の役割を担っていた株が価値を失ったことで、金融取引が停止し、経済活動が麻痺するなど大混乱が起こったのです。

これらが要因のひとつとなり、水野忠邦は失脚。1851年には遠山景元が「株仲間再興令」を出し、冥加金不要の株仲間として復活しました。

明治維新後の1872年に株仲間は再び解散しますが、その機能の多くは商業組合に改組され、現代に引き継がれています。

 

田沼意次の人物像がわかる本

著者
藤田 覚
出版日
2007-07-01

 

わずか600石の旗本から老中にまで昇格し、「田沼時代」ともいわれる一時代を築いた田沼意次。数多くいる江戸時代の政治家のなかで、もっとも評価が割れる人物です。

「賄賂と汚職に塗れた悪徳政治家」なのか「清廉潔白な開明的政治家」なのか、あるいはその両方か。彼が奨励した株仲間は、「賄賂を集めるための手段」だったのか、「近代日本の先駆けとなった開明的な政策」だったのか……。

本書では、そんな田沼意次の経歴や政策を、さまざまな史料を用いて解説していきます。自ら書き記した史料がほとんど残っていない田沼意次は、著名な人物であるにもかかわらず、多くの謎に包まれています。しかしタイトルにもなっている「御不審を蒙ること、身に覚えなし 」という言葉には、政治家としてやるべきことに全力を尽くしてきた揺るぎない自負が込められてとわかるでしょう。

 

株仲間と江戸時代の三大改革を解説する本

著者
藤田 覚
出版日

 

「江戸の三大改革」といわれる徳川吉宗の「享保の改革」、松平定信の「寛政の改革」、水野忠邦の「天保の改革」。共通するのは、「質素倹約・重農主義」を重視している点です。

これらに反し悪政と叩かれたのが「元禄文化」「田沼時代」「大御所政治」など。「自由・商業主義」を重視している点が共通しています。

しかし悪政といわれる田沼時代を象徴する株仲間が生まれたきっかけは、「享保の改革」です。本書は、「江戸の三大改革は本当に善政だったのか」という疑問に立ち返り、三大改革を見直そうと試みています。

改革の内容や導入された目的が丁寧に解説されていて、初心者でも理解することができるでしょう。読み進めていくと、いつから江戸時代の崩壊が始まったのかも見えてきます。

 

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