1200年以上続いてきた土地制度を大幅に変えた、明治時代の大改革「地租改正」。日本の近代化には欠かせないものだったといわれています。この記事では、地租改正がおこなわれた目的や内容、その後の影響と反対運動などをわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。
1869年3月、陸奥宗光から「租税制度改革の建白書」が提出されたことをきっかけに、明治政府内で導入が検討されるようになった「地租改正」。1873年7月に、地租改正法と地租改正条例で構成される「太政官布告第272号」が制定され、導入が決定しました。
それまでの税制度は、「大化の改新」で成立した「租庸調」の「租」。もとを辿れば古代の大和王権でおこなわれていた「収穫された稲を神に捧げる儀礼」に遡るものです。これが転じて、収穫物の一部を国や領主に納めるようになり、これらは「田租」「貢租」と呼ばれていました。
その後、豊臣秀吉が「太閤検地」などの改革をしたものの、基本的なことは大きく変わらないまま1200年以上にわたり継続されてきたシステムです。
税制度は国の根幹といっても過言ではありません。長年続いていた制度を大きく転換させようという試みは、大きな反発も予想されました。
明治政府は「地租改正」を推進するために、「地租改正事務局」を設置。内務卿の大久保利通を最高責任者である事務局総裁、大蔵卿の大隈重信を次席の御用掛、大蔵少輔兼租税頭の松方正義を局長とする強力な布陣を敷きます。彼らの指揮のもと、1880年までには大半の改革が終了し、新税への転換が完了しました。
従来の「田租」や「貢租」は、「収穫量」を課税の標準とし、生産者の農民は「物納」していました。
この制度の場合、農作物の豊凶や価格相場の変動によって、税収が大きく変わります。税収の見込みが立たなければ、長期的な予算案の作成もできません。これは近代国家の運営にとっては大きな障害です。
「地租改正」が実施された最大の理由は、この障害を取り除くこと、つまり「税収の安定」でした。
そのために、課税基準を従来の「収穫量」から、収穫力に応じて決められた「地価」へと変更。「物納」ではなく「金納」にしました。これまで政府が負っていた価格変動リスクを農民に転嫁する仕組みです。
また「田租」「貢租」では、毎年その年の収穫量に応じて地方役人が税率を決めていましたが、税の軽減を求めて賄賂が横行するなど不正の温床になっていました。「地租改正」以降は、税率を「地価の3%」と一定にしたため、不正が入り込む余地は無くなります。さらに従来は対象外となっていた商工業者や寺社領も税を納めなければいけなくなり、透明性と公平性を向上させる効果もありました。
後述する「地券」の発行で、古代から続いてきた「土地は天皇の物であり、臣民はその使用を許されているに過ぎない」とする「公地公民思想」が完全に崩壊し、個人による土地所有が認められた点も、日本の近代化において大きな出来事でしょう。
また税金が一定の金額になったため、収穫量が増えれば農民の取り分が増えます。さらに江戸時代には禁止されていた「作物選択の自由」も認められ、農民がより儲かりそうな作物、より収穫が増えるような栽培方法を模索するきっかけにもなり、生産性が向上するという効果もありました。
地租改正を実現するために必要なのが、「土地を測量し、地券台帳と地券を作成すること」です。
地券は土地の所有を公証し、誰が納税義務者であるのかを明示するだけでなく、土地の売買や、担保にする際の基礎になるものです。地券台帳は役所で管理され、土地所有者に地券が交付されました。
地券の表には、土地の所在、地目、面積、地価、所有者などが表記され、交付する府県の印と、大蔵省が各府県に配布した「地券之証」印がおされ、上部には地券台帳との割り印があります。
譲渡や売買で土地の所有者に変更がある場合は、地券台帳を訂正し、新たな土地所有者に新しい地券が発行されました。
1885年に「登記法」が成立し、登記簿に役割を譲るまでおよそ1億5000万枚の地券が発行されたそう。地券台帳も1884年には「土地台帳制度」に引き継がれ、1960年には「土地台帳制度」と「登記簿」が統一されて現在にいたっています。
そのため現在の登記簿においても、「地租改正」時の地券台帳や地券を作成するためにおこなわれた測量にもとづく記載が残っていて、登記簿と実際の地形が一致しない事態が頻出しているのです。
1200年以上続く国の形を根幹から変えるような大改革だった「地租改正」。当然ながら、大きな反発も招きました。
それまで課税の対象外だった商工業者や寺社領はもちろん、従来よりも税収が減らないようにと定められた「地価の3%」という税率が、それまでよりも負担になるとして、農民からも反発が起こります。
さらに、それまでは村などと共同所有としていた山林や川原、原野など「入会地」と呼ばれる土地が、所有者不明として国有地となり、自由に利用できなくなってしまったことが農民の生活を困窮させました。
彼らは地租の軽減や入会地の国有化反対を唱えます。「地租改正反対一揆」と称される農民一揆が、山形県や群馬県、茨城県、三重県、愛知県、岐阜県、現在の大阪府と奈良県にあたる堺県、熊本県など日本各地で起こりました。
明治政府を主導する大久保利通らは、これらの反対運動が不平士族と結託して大規模な内乱を引き起こすことを危惧し、税率を2.5%に引き下げ。江戸時代に比べて税収が2割減となることを容認したものの、「地租改正」そのものは断行しました。
また土地所有者を納税義務者とするかわりに、高額納税者には参政権を付与し、その声を国政に取り入れる仕組みを作ります。帝国議会が開設された当時、彼らには被選挙権や投票権が与えられ、実際に多くの農民出身の衆議院議員が誕生したのです。
以後、反対運動は自由民権運動とも繋がり、帝国議会開会後の民党による「民力休養論」に発展していきました。
- 著者
- 武田知弘
- 出版日
戦後の日本は、戦前の日本をあらゆる面から否定する傾向にありました。しかし本書ではその流れに反し、元大蔵省官僚の作者が戦前の日本をあらためて検証し、その姿を明らかにしていきます。
開国以来、金をはじめとする国内資産の流出に悩まされた日本は、明治維新以後、国家財政を安定させる必要に迫られました。そこで考え出されたのが、1200年以上続く国の根幹を一変させる「地租改正」です。明治維新のスローガンでもある「富国強兵」の「富国」とは、まさに「地租改正」を指すといっても過言ではないでしょう。
「地租改正」が実現しなければ、強兵も実現せず、日本が欧米列強と肩を並べることもなかったはず。そんな明治政府の経済政策を見ていくと、従来のイメージとは大きく異なる国の姿が浮かび上がってきました。実はかなりの高度成長期だった、日本の財政改革を理解できる一冊です。
- 著者
- 上念 司
- 出版日
本書の作者は、アベノミクスの生みの親ともいわれる浜田宏一教授に師事した上念司。「金本位制」という経済を軸に明治時代の日本の歴史を読み解き、さらには「なぜ経済的に困窮すると過激思想にとらわれ、戦争に駆り立てられるのか」という謎に挑んでいきます。
明治維新を成し遂げた政府は、農民や商工業者の怒りを買いながらも「地租改正」を成し遂げました。それは日本の近代化に不可欠な改革で、欧米列強の脅威に晒される日本には、反対派が納得するまで説得し、改革を間延びさせる悠長な時間はなかったのです。
明治時代の経済と、経済に大きく影響を受けた政治の実態がよくわかるでしょう。