明治維新後の日本が初めて外国と結んだ近代的条約が「日清修好条規」です。この記事では締結まで背景や、条約の内容、批准までの経緯、解消のきっかけになった「日清戦争」についてわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの本も紹介するので、ぜひご覧ください。
「日清修好条規」は1871年9月13日、中国の天津にて、日本の大蔵卿である伊達宗城と、清の直隷総督である李鴻章の間で締結された条約です。
江戸時代の日本は、清と長崎で交易をしていましたが、両国は正式に国交を結んでいたわけではありませんでした。明治維新後の政府は当初、朝鮮との国交樹立を目指しますが、日本が送った国書に、清の皇帝しか用いることが許されていないとされる「皇」や「勅」などの文字を使っていたことに朝鮮が反発。交渉は暗礁に乗りあげていました。
この状況に日本政府内では、日本と清が対等の国交を結べば、清の冊封下にある朝鮮も必然的に国交を結ばざるを得ないのではないかという声が高まり、清との国交樹立を交渉するために、公家出身の柳原前光と元岡山藩士の花房義質が派遣されることになったのです。
これに対し清政府は、日清両国は古くからの友邦であり、今さら条約を結ぶ必用はないと回答。仮に日本の交渉に応じてしまうと、朝貢諸国からも同じような要望があがり、清を中心とする冊封体制が崩壊してしまうと危惧したのです。
しかし柳原らは引き下がりませんでした。そんな彼らの声に耳を傾けたのが、曽国藩や李鴻章など、清政府のなかで「洋務派」と呼ばれていた人たち。「アヘン戦争」や「アロー戦争」で清が敗れたことから、東洋と西洋の力の差を痛感し、清の国力増強のためには西洋文明の科学技術の導入が必要だと主張していました。
日本と国交を結ぶことは、清の経済再建と富国強兵にも有益だとし、保守派の冊封体制が崩壊するという懸念に対しても日本はもともと冊封下ではないことを強調します。
さらに柳原は、清の根強い攘夷思想を利用して、東洋の二大強国である日本と清が手を組んで西洋に対峙する構想を披露。反対派を説得するのです。
これを受けて1871年5月、全権大臣の伊達宗城、副使の柳原前光の2人が本交渉に臨みます。およそ2ヶ月後の1871年7月、「日清修好条規」が締結されました。
「日清修好条規」は、明治維新後の日本が外国と締結した初めての対等条約だといわれています。
この交渉で伊達宗城が当初示した条件は、清とドイツが結んだ「天津条約」を基本としたもので、日本に欧米諸国と同じ最恵国待遇や清国内での内地通商権を認めさせる不平等なものでした。
清側としてこの条件を受け入れることはできません。もしも日本が清よりも上だと認めるような案を受け入れてしまえば、冊封体制は崩壊してしまうからです。そのため李鴻章は、日本の案から最恵国待遇や内地通商権を削除し、領土保全と他国からの侵略に対する相互援助規定を盛り込んだ対案を提示します。
しかし日本も、交渉に入る直前にイギリス、フランス、アメリカから「日清が軍事同盟を結べば、決して幸福な結果をもたらさないだろう」という内容の脅しを受けていて、清の提案を飲むことができませんでした。
ただそもそも東洋の二大強国である日清が手を結び、西洋に対峙する構想を打ち出したのは日本。清が交渉に応じた理由のひとつでもあります。李鴻章からもその点を突かれ、「西洋から疑われるのが恐ろしいならば、伊達全権はむしろ清に来なければよかったのでは」と皮肉を言われるまでになってしまいました。
結果的に、日本側は相互援助規定を認め、「日清修好条規」は軍事同盟ではなく「紛争解決を友好国のよしみで調停する」ものと解釈して同意することになります。
つまり「日清修好条規」は不平等条約ではなく対等な条約。交渉術の点では清の圧勝でした。
「日清修好条規」の内容が日本国内に伝わると、さまざまな方面から反対意見が起こります。大きな理由は、西洋から日清の軍事同盟を疑われかねない相互援助規定が残ったことと、内地通商権を獲得できなかったことでした。
またそもそも清との国交樹立を図った目的が、朝鮮に開国を迫るためだったことを鑑みると、条約に清の皇帝と日本の天皇が対等の関係であることが明記されなかったことも問題視されました。さらに両国の国民が武器を携帯することを禁止されたため、士族からの反発も大きかったそうです。これらの理由から、「日清修好条規」の批准は遅れます。
しかし1871年から1872年にかけて、台湾に漂着した宮古島の島民が原住民に虐殺される「宮古島島民遭難事件」、横浜港に停泊中だったペルー船籍に乗せられた清の人苦力を日本政府が解放する「マリア・ルス号事件」が発生し、「日清修好条規」の重要性があらためて認識されるようになりました。さらに征韓論や台湾への出兵論などの強硬論も台頭。国交樹立の必要性が高まります。
西洋文明を積極的に受容し、文明開化と富国強兵に励む日本の姿に列強の警戒も緩み、清側からも西洋の懸念を解く説明がされたことで、批准への障害は取り除かれていきました。
日本政府は一連の事件の後始末という名目で、1873年に外務卿の副島種臣を派遣。批准書の交換がされ、「日清修好条規」は締結から約2年の時を経て、ようやく正式に発効されたのです。
日本と清はお互いに領土を侵略しないことが「日清修好条規」で定められていました。しかし1871年に起こった「宮古島島民遭難事件」で、発効前に早くも危機を迎えます。
日本では、事件をきっかけに台湾出兵論が高まりますが、もし出兵するとなると「日清修好条規」に抵触してしまいます。ただ当時は、清が台湾を清の統治が及ばない「化外の地」として責任を負うことを回避したこともあり、「日清両国互換条款」が調印されました。清が日本の軍事行動を「義挙」と認め、宮古島島民に対して見舞金を支払うことで収束します。
しかし1894年、日本と清が挑戦をめぐって対立。「日清戦争」が勃発するのです。これによって「日清修好条規」は発効から21年で解消されてしまいました。
「日清戦争」は日本の勝利に終わり、講和条約として締結された「下関条約」において、清は朝鮮を「完全無欠なる独立自主の国」と認め、遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲と2億テールの賠償金を課されます。
超大国の清が新興国の日本に敗れたことを受け、西洋列強は清の分割支配に乗り出しました。フランス、ドイツ、ロシアは「三国干渉」をおこない、日本から清に遼東半島を返還させる代わりに賠償金を増額させます。
その金額は清の国家収入の数年分にもおよぶもので、とても払える額ではありませんでした。すると西洋列強は借款の供与を申し出て、見返りとして租借地、鉄道敷設権などの利権を獲得していったのです。
1900年には、このような西洋の領土侵略に反発する秘密結社による「義和団事件」が勃発。戦いを挑みますが、敗北します。清はさらに苦しい立場に置かれることになりました。そして1912年、孫文などが起こした「辛亥革命」で、約300年の歴史に終止符を打つことになるのです。
- 著者
- 神野 正史
- 出版日
劇を見るかのようにわかりやすく歴史を学ぶことができると人気のシリーズ。作者は予備校の人気講師です。
本作では、迫りくる西洋の脅威によって開国を余儀なくされた日本、清、朝鮮について解説。それぞれの国が列強の荒波にどう対峙したのか、なぜ「日清戦争」と「日露戦争」が起こったのか、その結果何が起こったのかを説明しています。
「日清修好条規」は、日本にとっても清にとっても、外国と結ぶ初めての対等条約でした。その後の両国が歩んだ悲劇の歴史を思うと、交渉に臨んだ柳原前光が語った「日清が手を取りあい西洋に対峙する」という構想がもし実現していたらと想像してしまいます。
臨場感をもちながら、当時の朝鮮半島の情勢を理解できる一冊です。
- 著者
- 岡本 隆司
- 出版日
- 2017-01-06
これまで複雑すぎて誰にも書けないといわれていた「中国」誕生の全体像に迫った作品です。
古代から「華夷秩序」の中心であり続けた中国ですが、西洋のアジア進出や明治維新後の日本の近代化によって、その秩序が大いに揺さぶられます。
なかでも大きなきっかけになったのが、「日清修好条規」の締結。西洋の侵略がアジアの外からの外圧だったのに対し、対等な条約を結ばなければならないほど日本が台頭することは、アジア内部で起きた変化だったからです。
単に歴史上の出来事として振り返るだけでなく、現在の中国が形成されるまでの過程がわかる一冊になっています。