明治維新の中心となった「薩長土肥」のひとつ肥前で、士族による「佐賀の乱」という反乱が起こりました。この記事では、中心人物である江藤新平に焦点を当てつつ、乱の原因や経緯、その後の影響などをわかりやすく解説していきます。またおすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
1874年2月に、明治政府に対して士族が起こした反乱を「佐賀の乱」といいます。別名は「佐賀の役」や「佐賀戦争」など。中心人物となったのが、「維新十傑」のひとりでもある江藤新平です。
江藤新平は、1834年生まれ。現在の佐賀県佐賀市にあたる肥前国佐賀郡出身で、佐賀藩の下級武士である江藤胤光の長男です。
1848年には藩校である弘道館に入学し、成績も優秀だったそう。しかし父親が職務怠慢を理由に解雇されてしまったため、生活は困窮を極めていました。この頃の新平の口癖は、「人智は空腹より出ずる」だったそうです。
金銭的理由で進学することができず、枝吉神陽の私塾で神道や尊皇思想を学びます。枝吉神陽が楠木正成と正行親子を崇拝するために結成した「義祭同盟」にも参加しました。
「義祭同盟」には、副島種臣、大隈重信、大木喬任、島義勇などが参加していて、後に「佐賀の七賢人」と呼ばれる7人のうち江藤新平をいれて5人が参加していました。
1853年にアメリカのペリー艦隊やロシアのプチャーチン艦隊が来航。これを受けて江藤は、1856年に開国の必要性を説いた『図海策』を執筆して藩に提出します。それ以降頭角を現し、藩の洋式砲術や貿易関係の役職を歴任しました。
1862年に脱藩。京都へ行き、長州藩の桂小五郎や、公家の姉小路公知らと交流します。しかし大した成果はなく、2ヶ月ほどで帰郷。通常であれば脱藩は死罪になりますが、藩主の鍋島直正が江藤の見識を高く評価していたこともあり、謹慎処分にとどまりました。
1867年に「大政奉還」がおこなわれると、江藤の謹慎も解除。1868年の「戊辰戦争」では東征大総督府軍監に任命されました。
その後は明治政府内で、司法卿や参議などの役職を歴任。近代的な集権国家と四民平等を目指して、学制、警察制度、司法制度などの整備にまい進しました。
さらに、江戸を東京と改称し、明治天皇の行幸を仰いで首都にするよう岩倉具視に献言。しかしその改革は急進的で、なおかつ清廉すぎたため、俗物的で汚職にまみれていた長州藩閥と対立を深めていくことになるのです。
「薩・長・土・肥」という4つの藩を中心に構成されていた明治政府でしたが、やがて大久保利通や山県有朋を中心とする「薩長」が力を強め、弱体化しつつあった「土肥」との対立は抜き差しならないものになっていきました。
その対立が頂点に達したのが、1873年に朝鮮出兵の是非をめぐる「征韓論」が引き金となって勃発した「明治6年の政変」です。江藤新平は、西郷隆盛や板垣退助、後藤象二郎、副島種臣などとともに官職を辞し、佐賀へ帰郷。政府に不満をもつ士族らに反乱軍の首領として担ぎあげられるかたちで挙兵することになります。
1874年に起きた「佐賀の乱」は、その後に続く一連の「士族反乱」の先駆けとみなされています。
士族たちが反乱を起こした理由はさまざまですが、特に大きかったのは明治政府が推し進めていた「四民平等政策」です。従来の武士階級は解体され、秩禄処分や廃刀令などで特権を奪われることになり、多くの士族が不満を抱いていました。
特に明治維新に尽力した薩長土肥の士族たちからすれば、明治政府に裏切られたようなもの。不満がより大きく、より激しくなるのも当然です。
また明治政府が推進する「文明開化」や「殖産興業」、そして「明治6年の政変」の原因になった「征韓論」や国会の開設を求める「自由民権運動」をめぐる対立、さらに私腹を肥やして専横を振るう政府高官への不満もありました。
また彼ら士族たちには、討幕を果たしたという成功体験があります。現状に不満を抱く彼らが、「ならばもう1度政府を倒そう」と考えたのも自然なことかもしれません。
「佐賀の乱」が起きた大きな要因のひとつに、江藤新平を中心とする「征韓党」と、島義勇を中心とする「憂国党」が合流したことが挙げられます。しかし彼らは心をひとつにしていたわけではありません。あくまでも「征韓論」に賛成しているだけの征韓党と、もとの封建主義に戻ることを目指していた憂国党とでは主張に大きな違いがあり、指揮系統の統一もできていなかったそうです。
江藤新平や島義勇は、自分たちが蜂起すれば佐賀は一丸となって立ちあがり、佐賀が蜂起すれば薩摩の西郷隆盛や土佐の板垣退助らも呼応するだろうと考えていました。しかし実際には佐賀内部からも政府軍に協力する者が出てしまい、西郷や板垣も動きませんでした。
「佐賀の乱」に加わった士族の正確な数は明らかになっていません。1869年に「版籍奉還」がおこなわれた際に提出された藩士の数が1万4000人ほどだったことから、そのうち江藤新平の征韓党が2000人、島義勇の憂国党が4000人ほどいたのではないかと推測されています。
佐賀では、江藤新平や島義勇が帰郷する前から政府に対する不満の声が高まっていました。いつ反乱が起きてもおかしくないと、政府からも警戒されていたそうです。
江藤新平や島義勇が帰郷したのも、もともとは彼らをいさめるためでした。しかし2人が佐賀に到着する前に、反乱の引き金となる事件が起こるのです。
1874年2月1日、憂国党員が官金預かり業者である小野組に押しかけました。この出来事はすぐに電報で内務卿である大久保利通に通報され、2月4日には熊本鎮台司令長官の谷干城に、佐賀士族を鎮圧するよう命令が出されます。
政府軍が佐賀を鎮圧するために各地で動員を進めるなか、江藤新平は2月12日に憂国党の首領になった島義勇と会談をし、征韓党の首領になることを承諾。そして、両党で共同して反乱を起こすことを決めるのです。
2月15日夜、反乱軍は熊本鎮台軍がこもる佐賀城を攻撃。大打撃を与えて敗走させ、勝利しました。しかし大久保利通らが東京鎮台軍や大阪鎮台軍などの援軍を率いて福岡に到着すると、戦況は徐々に政府軍側に傾いていきます。
政府軍の多くは徴兵で組織されていたため、士族たちは「戊辰戦争」を経験した自分たちの敵ではないと思っていましたが、その考えは打ち砕かれます。敗戦が濃厚になる2月23日、江藤新平は憂国党に断りを入れずに征韓党を解散させました。江藤自身は、西郷隆盛に助けを求めようと戦場を離脱します。
この敵前逃亡ともいえる事態に憂国党は激怒しながら、なおも戦いを続けましたが、2月27日には「佐賀の乱」最大の激戦といわれる「境原の戦い」に敗れ、2月28日には佐賀城を奪還され、敗戦となりました。
島義勇は、島津久光に決起を訴えようと鹿児島に向かいますが、3月7日に捕縛。一方、先に鹿児島に向かっていた江藤新平は、西郷隆盛に断られた後に土佐へ向かっていましたが、3月29日には捕縛されました。
両者の裁判はわずか2日間で結審し、判決当日の4月13日に斬首され、首が晒されます。この裁判は答弁や上訴の機会も満足に与えられないもので、日本の司法制度を樹立した江藤新平にしてみれば、無念極まりないものだったといえるでしょう。
「佐賀の乱」の犠牲者は、政府軍が戦死209人、負傷201人。反乱軍は戦死173人、負傷160人でした。また裁判によって江藤や島を含む13人が死刑となり、136人が懲役、240人が除籍、7人が禁固。そして戦いに参加していない者を含む1万713人が無罪になりました。
電報による速やかな通信や、海軍による輸送を駆使した政府軍の迅速な展開で、わずか2週間で終息した「佐賀の乱」。徴兵で組織された国民軍であっても、士族相手に十分に戦えることが証明されました。
しかし「明治維新」で大きな功績をあげた江藤新平や島義勇が、満足な裁判を受けることさえできずに処刑されたことは、「戊辰戦争」で政府軍と敵対したにも関わらず特赦を与えられ、顕職を歴任している榎本武揚などと比較して処分が重すぎると、不満の声もあがります。
1878年、内務卿だった大久保利通は石川県の不平士族らによって暗殺されますが、彼らが大久保利通を狙った理由のひとつに「佐賀の乱」における江藤新平や島義勇への仕打ちも含まれていました。
また、各地の士族たちによる反乱も勢いを増しました。
1876年には、旧肥後藩で勤皇党の流れをくむ敬神党が決起した「神風連の乱」、これに呼応した旧秋月藩士たちが中心となる秋月党が決起した「秋月の乱」、さらに維新十傑のひとりで旧長州藩士の前原一誠が決起した「萩の乱」が相次いで起こります。「萩の乱」には、後に首相となる当時13歳の田中義一も参加していました。
1877年には、西郷隆盛を中心に、日本史上最後の内乱である「西南戦争」が勃発。この「西南戦争」に敗戦したことで、不平士族たちは政府を武力で倒すことは不可能であると痛感しました。以後、彼らの活動は板垣退助らを中心に、国会開設や憲法の制定を求める自由民権運動へと移行していくことになるのです。
- 著者
- 毛利 敏彦
- 出版日
江藤新平の生涯をわかりやすく解説した作品。若くして佐賀藩内で頭角を現し、もちあわせた先見の明で日本の近代化に大きく貢献した 江藤。「東京」の生みの親であるとともに、四民平等や教育制度、司法制度を構築していきます。
しかしその正義感あふれる性格は、長州藩出身の山県有朋や井上馨の汚職を許すことができず、大久保利通などとも対立を深めていきます。「征韓論」をきっかけに起こった「明治6年の政変」で、江藤新平を含むなんと600人もの高官が職を辞し、明治新政府は2つに割れるのです。
反乱を起こした士族たちが不満を抱いていたもののひとつに、江藤が推進していた四民平等があります。そんな彼が士族たちの反乱の口火を切って「佐賀の乱」を起こすことになったのも、自らが整備した司法制度によって裁かれたことも、皮肉といわざるを得ないでしょう。
江藤新平が何を考え、どのような功績を残したのかを、近代化に進む当時の日本の状況とともに知れる一冊です。
- 著者
- 司馬 遼太郎
- 出版日
ともに「維新三傑」に数えられる西郷隆盛と大久保利通。薩摩藩の下級藩士の家に生まれ、幼い頃からともに過ごしてきた2人は、討幕を果たし、明治の世を切り拓きます。しかし「明治6年の政変」で袂を分かつことになりました。
本書は、生涯の友であり、そして最大の敵となった2人を主人公にした司馬遼太郎の長編歴史小説です。「佐賀の乱」についても生き生きと描かれています。不平士族をいさめるために帰郷したはずの江藤新平が、なぜ反乱の首領となったのか……その心情は、後に「西南戦争」を引き起こすことになる西郷隆盛とも共通するものがあるでしょう。
独自の歴史解釈は時に「司馬史観」といわれることもありますが、読者を物語に惹きこむ筆致は見事なもの。激動の時代に連れていってくれる名作です。