5分でわかる日朝修好条規!きっかけ、内容、朝鮮経済などをわかりやすく解説

更新:2021.11.22

日本と朝鮮が結んだ不平等条約で、朝鮮が開国するきっかけとなった「日朝修好条規」。一体どのような条約だったのでしょうか。この記事では、締結の背景やきっかけとなった「江華島事件」、条約の内容、その後の影響などをわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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日朝修好条規締結前の背景は?書契問題や征韓論を解説!

 

1850年代までの朝鮮は、中国・清の冊封下にあり、鎖国政策を採っていました。しかし、日本にペリーがやって来て開国を求めたのと同様に、1860年代以降は西洋の列強から国交と通商を求める声が寄せられます。

当時の朝鮮で政権を握っていたのは、国王である高宗の実父の大院君。朱子学の考え方以外は認めない「衛正斥邪」という思想にもとづき、西洋列強を「夷狄=野蛮」とみなしていました。

国内では攘夷運動も盛んで、1866年にはフランス人宣教師を処刑する事態に。さらにキリスト教を弾圧する「丙寅教獄」、アメリカの帆船を焼き討ちする「ジェネラル・シャーマン号事件」も発生しています。

このような情勢下の1868年、日本の明治政府が、西洋列強とだけでなく周辺の東アジア諸国とも国交を結ぼうと、朝鮮政府に国書を送りました。

しかし国書のなかに、清の皇帝しか使うことが許されない「皇」や「勅」などの文字が用いられていたため、朝鮮政府は受け取りを拒否。これを「書契問題」といいます。

このような朝鮮の態度に対し、日本国内では怒りの声があがり、木戸孝允を中心に「征韓論」を唱える有力者が現れるようになりました。一方で近代化を急ぐなかで対外戦争をおこなう余力はないとする考えも根強く、日本は交渉を続ける姿勢を見せます。しかし大院君が態度を硬化させたこともあり、事態は進みません。

すると日本は、冊封体制にこだわる朝鮮の姿勢を逆手にとり、宗主国である清と国交を結べば交渉が有利に進むと考え、1871年に「日清修好条規」を締結するのです。

1873年に大院君が失脚すると、朝鮮では高宗の妃である閔妃が政権を掌握。閔妃は大院君に比べると西洋への理解があり、交渉再開へ機運が高まりました。

1875年、日本から外務省理事官の森山茂と広津弘信が朝鮮に向かいますが、交渉は決裂。これを受けて森山は政府に対し「砲艦外交」を上申し、朝鮮沿岸海域の測量を名目に「雲揚」と「第二丁卯」の砲艦2隻が派遣されました。そして、「日朝修好条規」が締結されるきっかけになる「江華島事件」が起こるのです。

 

日朝修好条規が締結されるきっかけ「江華島事件」を解説!

 

江華島は、朝鮮半島の神話によると紀元前2333年に檀君朝鮮を建国した檀君が初めて降り立った地だといわれています。13世紀には高麗の首都が置かれ、李氏朝鮮時代には流刑地として活用されてきました。朝鮮の首都である漢城を流れる漢江の河口にあり、1860年代以降は西洋列強からの攻撃をたびたび受けた場所でもあります。

1875年9月、朝鮮沿岸海域の測量を終えて長崎に帰港していた「雲揚」は、清までの航路研究を命じられて再び出航。その途中で漢城付近の月尾島に停泊し、ボートで江華島に接近したところ、島に設置されていた砲台から突然攻撃を受けます。端艇はすぐに「雲揚」に戻り、砲台を攻撃。交戦状態に陥り、江華島の要塞を占領しました。

この「江華島事件」について、現在では日本が朝鮮側の砲撃を誘発する目的で接近した、挑発行為だったというのが定説になっています。しかし当時は双方とも偶発的な事件と認識していたそうです。

1876年1月、日本は黒田清隆を特命全権大使、井上馨を副使として派遣。2月から事後対応の交渉がおこなわれました。

朝鮮側は、当時はイギリス艦隊が接近しているという報告を受けていたため警備体制を強化しており、日本船が「黄色い旗」を掲げていたため西洋の船と誤認したことを主張。

一方で日本側は、当時「雲揚」が掲げていたのは黄色い旗ではなく日本国旗だったとし、事前に誤認を避けるために見本の日本国旗を渡してあったにもかかわらず事件が発生したのは朝鮮側の怠慢だと主張。明確な謝罪を求めたうえで、釜山港と江華港の開港、朝鮮領海の航行の自由などを盛り込んだ「日朝修好条規」の締結を求めます。要求を受けない場合は軍事行動も辞さないと、国内では出兵の準備も進められていたそうです。

朝鮮としても開戦の意思はなく、清の実力者である李鴻章も条約の締結をすすめたことから、2月27日に「日朝修好条規」が締結されました。

 

日朝修好条規は不平等条約だった!主な内容を解説

 

「日朝修好条規」は、12款の本文、11款の付属文書、11の貿易規則、そしてこれらに付随する公文で構成されています。

条約の第1款では、「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」と記されていますが、第10款では、「日本人が開港において罪を犯した場合は日本の官吏が裁判をおこなう」と領事裁判権を規定。さらに公文では「輸出税・輸入税をかけない」と関税自主権の喪失が定められるなど、朝鮮にとって不平等な内容でした。

これについて、駐日イギリス公使のハリー・パークスは「日英通商条約と似ている」と指摘しています。「日朝修好条規」は「日米和親条約」や「日米修好通商条約」など主に日米間で締結された条約を研究して定められたもの。「日英通商条約」も同様にこれらをモデルにしていたため、類似していたのです。

一方で、朝鮮を「自主の国」と表明している点は、上記の条約とは大きく異なるポイントです。もともと独立国だった日本と、清の冊封下にあった朝鮮の立場の違いが反映されています。

また制限付きとはいえ日本の商船が開港地以外で貿易できること、外国人の商業行為が認められたこと、銅貨の輸出が認められたこと、港税の価格が安いこと、米など穀類の輸出の自由を認めたこと、朝鮮人の地主と土地貸借の直接交渉が認められたことなども相違点です。

そのため「日朝修好条規」は、日本が西洋列強と締結した諸条約と比べても、より日本に有利な、朝鮮側から見れば不平等な条約だったといえるでしょう。

 

日朝修好条規の影響は?朝鮮経済はどうなった?

 

「日朝修好条規」によって外国人の商業行為が認められたことは、大きな影響となりました。多くの日本人商人が朝鮮に進出し、釜山の日本人居留民は数百人だったものが1882年には2000人に増えています。

日本人商人の数が増えるにつれて、日朝間の貿易額は膨らみ、宗主国である清との貿易額を上回るほどになりました。

それにともない、数々の問題が発生します。

まず朝鮮から米など穀物が大量流出。米価が高騰しました。また大倉喜八郎などの政商、第一銀行などの大資本が進出したことで、それまで貿易の中心にいた対馬の商人が追い払われてしまいます。彼らは利益を求めて、本来は貿易が認められていない未開港地に進出。現地住民と対立していきました。

しかし「日朝修好条規」で領事裁判権が定められたため、対馬商人たちは日本の裁判で裁かれます。甘い判決がくり返され、「てんびん棒帝国主義」と批判されるなど朝鮮の反日感情が悪化していきました。

その不満は日本の支援下で開化政策を進める閔妃政権に向けられ、1882年には閔妃と日本に対する反乱「壬午軍乱」が発生することになるのです。

 

朝鮮半島の近代史

著者
趙 景達
出版日

 

在日朝鮮人の作者が、「儒教的民本主義」という独自の概念を軸に、朝鮮と日本の社会を比較。「日朝修好条規」「甲申政変」「甲午農民戦争」「大韓帝国誕生」「日本の保護国化」「国権回復運動」など、激動の朝鮮近代史を描いています。

あくまでも客観的な記述に努めていますが、そのなかでも故国への情愛が垣間見えるでしょう。作者の「在日朝鮮人」というアイデンティティは、日本と朝鮮の複雑な近代史があってこそ成立するもので、切り離すことができないことがわかります。

朝鮮半島の歴史を知るとともに、事実は見る角度によって解釈が異なること、さまざまな視点をもつことが大切だと教えてくれる一冊です。

 

日朝修好条規などの朝鮮半島情勢を国際視点で見る

著者
渡辺 惣樹
出版日
2014-12-06

 

「日朝修好条規」が締結されたため、当時の朝鮮半島情勢は日朝関係に焦点を当てがちですが、清やアメリカ、ロシア、イギリス、フランスなど事態はさまざまな関わりのなかで進んでいました。

本書は、「日本はなぜ朝鮮を開国させようとしたのか」「日本はなぜ清と戦ったのか」「朝鮮はなぜ自ら近代化できないのか」「朝鮮はなぜ他国の援助を侵略とみなすのか」などの疑問を、アメリカを視点の中心に据えて解説していきます。

本書を読むと、日本が西洋列強から朝鮮半島を制圧するよう圧力を受け、その一方で朝鮮の自主独立と自主改革にこだわっていたことがわかるでしょう。臨場感のある外交の駆け引きが興味深い一冊です。

 

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