大の親日国として知られ、アジアとヨーロッパの結節点に位置する中東屈指の大国トルコ。一体どんな歴史をつむいできたのでしょうか。この記事では、古代ローマ時代から現代までの主な出来事をわかりやすく解説していきます。
通称「トルコ」と呼ばれるトルコ共和国。西アジアのアナトリア半島と、東ヨーロッパのバルカン半島東端にあるトラキア地方を領有する共和制国家です。
ヨーロッパとアジアの両方に国土をまたいでいることから、北は黒海、南はエーゲ海と地中海を繋ぐボスポラス海峡と接し、ブルガリア、ギリシア、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリアと国境を接しています。
国土面積は日本の約2倍で、78万平方キロメートル。人口は日本の約3分の2で8200万人。首都はアンカラで、最大の都市はイスタンブールです。
「トルコ」という国名は、「トルコ人の国」という意味で、前身であるオスマン帝国時代から用いられてきました。しかしこの土地は古代から多くの民族が往来をくり返していて、「トルコ人」の定義自体があいまい。1923年に建国された際に、国民意識を強くする必要があることから、「トルコ国内に住み、トルコ語を母語とする人はすべてトルコ人である」と定義されました。
そのため政府の公式な見解としては、トルコ国内に「少数民族」は存在しないことになっています。しかし実際には約1500万人が居住するクルド人をはじめ、アラブ人、ラズ人、ギリシア人、アルメニア人、ザザ人、ガガウズ人、へムシン人などの少数民族が暮らしている多民族国家です。
言語も、公用語のトルコ語だけでなく、クルド語、ザザキ語、アゼルバイジャン語、チェルケス語、アラビア語、ブルガリア語、ギリシア語、アルメニア語、ガガウズ語、ラズ語などを話す人が存在しています。
ただ政府は、トルコ国内にクルド人は存在しないという見解をもっているため、クルド語は公的な場で使用することや教育することも禁止。違反者には「国家反逆罪」が適用される場合もあり、弾圧の対象になっているのです。
人口の99%以上がイスラム教徒で、そのうちの過半数がスンニ派だと考えられています。そのほか東方正教会、アルメニア使徒教会、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントなどもいるそうですが、ごく少数だそうです。
トルコにはイスタンブールやカッパドキアなど人気の観光地があり、日本人の旅行者も徐々に増えています。ただ2016年にはイスタンブールのアタチュルク国際空港で大規模なテロ事件が発生。またシリア内戦の激化にともなう難民の流入などもあり、不安定な情勢です。
外務省が発表している危険情報では、イスタンブールがある西部や南西部は「レベル1:十分注意してください」、中部は「レベル2:不要不急の渡航は止めてください」、イラクとの国境地帯は「レベル3:渡航は止めてください」、シリアとの国境地帯は「レベル4:退避勧告」となっています。
トルコがあるアナトリア地方には、旧石器時代の遺跡が存在します。
紀元前15世紀頃にはヒッタイト王国が建国され、製鉄技術を発明してメソポタミアを征服。最初の鉄器文化を築きました。ヒッタイト王国は紀元前14世紀頃に最盛期を迎え、その後紀元前12世紀頃に東地中海の国々を荒らしていた「海の民」に滅ぼされます。
紀元前9世紀頃にはフリュギア王国、紀元前7世紀頃にはリディア王国が建国。紀元前6世紀頃にアケメネス朝ペルシアの支配下に入りました。古代ギリシアと「ペルシア戦争」や「ペロポネソス戦争」で戦っています。
紀元前4世紀には、マケドニア王国のアレクサンドロス大王がこの地を征服。彼の死後、「ディアドコイ戦争」を経てセレウコス朝シリアの支配下に入ります。この間にプトレマイオス朝エジプトと5度にわたって戦争がおこなわれました。
紀元前192年から紀元前188年までは、共和政ローマとの間に「ローマ・シリア戦争」が勃発。これに敗れ、ローマ帝国の属州となります。
一方エーゲ海の沿岸地方では「トロイア戦争」で有名なイリオスが大きな力を有していましたが、ヒッタイト王国同様に紀元前12世紀頃、「海の民」に滅ぼされました。
紀元前7世紀頃、古代ギリシアでは人口増加や気候変動による食糧難から逃れるため、植民都市の建設に精を出します。当時植民がおこなわれた地域一帯は「マグナ・グラエキア」と呼ばれ、トルコ最大の都市であるイスタンブールもそのひとつでした。
イスタンブールはもともと「ビザンティウム」と呼ばれていて、紀元前667年に古代ギリシアの都市国家メガラからやってきた移民が建設。彼らの王「ビュザンタス」にちなんで名付けられました。ローマ帝国の支配下となって、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が都市を建設した際は、「ノヴァ・ローマ」とも呼ばれました。
当時はまだトルコ人は進出してきていません。トルコ人の発祥地はウラル山脈以東の草原地帯が有力だといわれていますが、詳細は不明です。552年に、テュルク系遊牧国家の突厥(とっけつ)が、モンゴル系遊牧国家の柔然から独立。現在はこの時を「トルコ最初の建国」だとみなしています。
ローマ帝国と突厥は、4世紀から6世紀にかけてそれぞれ東西分裂しています。まずローマ帝国は、395年に分裂。東ローマ帝国がビザンティンをコンスタンティノープルと改称して、首都にしました。
一方で突厥は、582年に分裂。西突厥の部族長だったトゥグリル・ベクが1038年にセルジューク朝を興します。1055年にはバグダッドに入城し、メソポタミアの事実上の覇者となりました。しかし中国から中央アジアにやって来た西遼との争いに敗れ、チンギスハンの孫でイルハン朝の創始者であるフレグとの争いにも敗れ、主流派は滅亡します。
ただ、セルジューク朝の地方政権であるルーム・セルジューク朝は、アナトリア地方でなんとか命脈を保っていました。
1299年、ルーム・セルジューク朝支配下の小国出身であるオスマン1世が台頭。オスマン帝国を建国します。1346年、オスマン1世の子オルハンが東ローマ帝国の皇帝ヨハネス6世と同盟を結び、バルカン半島に進出しました。
オルハンの子ムラト1世は、東ローマ帝国の重要拠点であるアドリアノープルを占領。キリスト教徒の子弟で構成された常備軍「イェニチェリ」を創設し、子バヤジット1世と2代にわたって周辺各国と戦い、特に1396年の「ニコポリスの戦い」では十字軍も撃破しました。
しかし1402年に「アンカラの戦い」でティムール朝建国者のティムールに敗北。バヤジット1世は捕虜になり、オスマン帝国皇帝の座は空位に。帝国の大部分がティムールの支配下になります。
1412年、バヤジット1世の子メフメト1世がオスマン帝国の再統合に成功。その子ムラト2世が再び十字軍を撃破。そしてムラト2世の子であるメフメト2世が首都コンスタンティノープルを攻略し、東ローマ帝国は滅亡しました。
以後、コンスタンティノープルはオスマン帝国の首都となり、後にイスタンブールと改称されます。オスマン帝国の領土拡大は続き、最盛期となる1683年には、東はアゼルバイジャン、西はモロッコ、南はイエメン、北はウクライナにおよぶ約550万平方キロメートルを治める大帝国になりました。
いくつもの戦いに勝ち勢力拡大を続けたオスマン帝国。大きな転機となったのが、1683年に実施された「第二次ウィーン包囲」です。神聖ローマ帝国の首都であるウィーンの攻略を目指した大規模な進撃作戦でしたが、包囲戦は長期化し、反オスマン帝国を合言葉に結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって大敗北を喫しました。
その後オスマン帝国は、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアで構成される「神聖同盟」と16年間におよぶ「大トルコ戦争」に突入。1699年には「カルロヴィッツ条約」を締結し、ハンガリー、トランシルヴァニア公国、スラボニア、ダルマチア、ポドリアの割譲をすることになります。
さらに「大北方戦争」「墺土戦争」「オスマン・ペルシア戦争」「露土戦争」、ナポレオン・ボナパルトによる「エジプト遠征」「ギリシア独立戦争」「エジプト・トルコ戦争」と争いが続き、国力は疲弊。20世紀のはじめ頃には、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれるまでの状態になってしまいました。
1808年に即位したマフムト2世は、イェニチェリを廃止して軍の西欧化を図り、外務・内務・財務3省を新設して近代的な中央集権国家を目指します。マフムト2世の子アブデュルメジト1世は「ギュルハネ勅令」を出して行政・軍事・文化の西欧型国家を目指す「タンジマート」を実施して対策に乗り出しました。1853年に起きたロシアとの戦い「クリミア戦争」に勝利できたのも、タンジマートの成果のひとつです。
しかし、同時に西欧列強から多額の借款をすることになり、経済は西欧諸国への原材料輸出に特化。結果的にオスマン帝国は西欧の経済に依存するようになり、1875年に起きた金融恐慌と農作物の不作で財政が破綻しました。
アブデュルメジト1世の子であるアブデュルハミト2世は、専制政治の復活に舵を切ることに。これまで西洋式の教育を受けた青年将校や下級官吏のなかには反発する者も多く、彼らは1889年に「統一と進歩委員会」を結成して対抗しました。
1908年には、「統一と進歩委員会」を中心に「青年トルコ革命」が起き、1913年には統一派政権が樹立。オスマン帝国領を侵食しつつあったロシアに対抗するためドイツを同盟を組み、1914年から始まった「第一次世界大戦」には同盟国側の一員として参戦します。
1918年、連合国との間で「ムドロス休戦協定」を結び、降伏。統一派政権は崩壊し、国土の大半をイギリスやフランスなど連合国に占領されることになりました。
このような混乱のなかで頭角を現してきたのが、統一派の一員でもあったムスタファ・ケマルという人物。大戦中、勢いに乗るイギリス軍の進撃をアナファルタルで食い止め、「アナファルタルの英雄」と呼ばれていました。
1920年4月、首都アンカラで「トルコ大国民議会」を結成し、上陸してきたギリシア軍を撃退します。1922年には「トルコ革命」を起こしてオスマン帝国を倒し、共和制を宣言。政教分離を国是とするトルコ共和国を建国しました。
トルコ料理は中華料理、フランス料理とともに「世界三大料理」と呼ばれています。
特徴は、トルコ民族が中央アジアの遊牧民だったことから羊を中心とした肉料理、黒海や地中海の海産物やオリーブオイル、アラビア周辺の小麦粉、アジアの米など、東西の文化を代表する素材や調理法を用いる点です。
オスマン帝国の統治下にあったバルカン半島、イスラエル、エジプト、チュニジア、ギリシア、レバノン、ブルガリア、ルーマニアなどだけでなく、北アフリカやロシア、ハンガリー、イギリス、ドイツの料理にも大きな影響を与えました。
日本にトルコ料理を紹介したのは、1926年に設立された「日本・トルコ協会」だといわれています。本格的なトルコ料理を提供するレストランは、1988年に銀座で開店したものが最初でした。
日本で有名なトルコ料理といえば、ケバブでしょう。ケバブは本来「羊や鶏の焼肉料理全般」を指す言葉で、串焼きにした「シシケバブ」、ヨーグルトを添える「イスケンデルケバブ」、挽肉を用いる「アダナケバブ」、くず肉を塊にして回転させながら焼いたものを削ぎ切りにする「ドネルケバブ」などさまざまな種類があります。
また粘り気があってよく伸び、溶けにくいトルコアイスも有名。ヨーグルトに水と塩を混ぜたアイランという飲料も人気です。
ちなみにトルコは、紅茶やコーヒーを飲む文化が発達していて、特にコーヒーは「ジェズヴェ」という小さな鍋にコーヒー粉末と砂糖を入れて煮だす淹れ方が伝統。「トルココーヒー」と呼ばれ、ユネスコの無形文化遺産にも登録されています。
- 著者
- 小笠原 弘幸
- 出版日
イスラム教世界で「辺境」とみなされていたアナトリア地方の小国から、世界帝国へと大きな成長を遂げたオスマン帝国。本書では、始祖のオスマン1世から最後のカリフであるアブデュルメジト2世まで、歴代の皇帝を中心にオスマン帝国の歴史を解説しています。
大の親日国といわれるトルコですが、日本ではトルコの歴史に関する本は多くはなく、オスマン帝国のイメージは「ヨーロッパから見たオスマン帝国」であることがほとんど。本作を読むことで、帝国の誕生、拡大、衰退の経緯の内幕を知ることができるでしょう。
- 著者
- 今井 宏平
- 出版日
ムスタファ・ケマルが「トルコ革命」を起こしてオスマン帝国を倒し、トルコ共和国を建国したのが1923年。本作は、およそ100年間のトルコ現代史をまとめたものです。
トルコが建国されてから政権を握った者のなかでも、2003年に首相になり、2014年に大統領になったレジェップ・タイイップ・エルドアンほど強い個性をもった人はいないでしょう。彼が率いる公正発展党は、複数の国からテロ組織に指定されている「ムスリム同胞団」と関連のあるイスラム主義政党です。
エルドアン自身、イスタンブール市長だった1997年に、政治集会にてイスラム教を賛美する詩を朗読し、4年半以上の実刑判決を受けています。
世俗主義が原則のトルコで、なぜエルドアンが支持されるのか。今後のトルコがどこへ向かうのかを考えるうえでも、多くのヒントをくれる一冊です。