インダス文明にまでさかのぼる長い歴史をもつパキスタン。しかし独立をしたのは1947年のことです。この記事では、古代、イギリスからの独立、インドとの対立、核実験や貧困問題など、パキスタンがどのような歴史を歩んできたのかわかりやすく解説していきます。
南アジアにある共和制国家の「パキスタン・イスラム共和国」。通称パキスタンとして知られています。
パキスタンという国名は、ウルドゥー語で「清浄な国」という意味。民族主義者のチョウドリー・ラフマト・アリーが、北東部にあるパンジャーブ地方の「P」、アフガン人の「A」、カシミール地方の「K」、シンド地方の「S」、バロチスタン地方の「TAN」をとって「パクスタン」とし、自身の著作で初めて用いました。その後、発音をしやすくするために「I」を加えて「パキスタン」と呼ばれるようになります。
首都はイスラマバード、最大の都市はシンド州のカラチです。国土面積は日本の約2倍で80万平方キロメートル。東はインド、北東は中国、北西はアフガニスタン、西はイランと国境を接していて、南側はインド洋に面しています。
人口は2017年時点で2億人を超え、世界第6位の多さ。増加傾向は今後も続くと予想されていて、国連の推計では2050年には約3億4000万人に達し、中国、インド、アメリカに続く世界第4位になるといわれています。
人口の約60%がパンジャーブ人、約13%がパシュトゥーン人、約13%がシンド人で、バローチ人やカラシュ人も少数ですが暮らす多民族国家です。
イスラム教を国教としてしていて、約97%の人が信仰しているそう。そのほかヒンドゥー教とキリスト教が約1%ずつ、ゾロアスター教が0.2%ほどいます。
言語はウルドゥー語、公用語は英語です。そのほかパンジャーブ語やカシミール語、シンド語、コワール語、パシュトー語、バローチー語、ブラーフーイー語、ブルシャスキー語などの話者が存在します。
主な産業は、農業や綿工業など。パンジャーブ地方の小麦は、世界第6位の生産量を誇ります。綿工業では日本との関りも深く、イギリス統治時代の1918年には「日本綿花株式会社」がカラチに進出。その後訪れる日本の高度経済成長は、パキスタンの綿花によって支えられたといっても過言ではありません。
そのためパキスタンは世界有数の親日国としても知られていて、国内を走る自動車の90%が日本車だそうです。
パキスタンがイギリスから独立したのは、1947年のこと。国家としては新しいですが、国内には四大文明のひとつであるインダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡があるなど、文化的には熟しています。
一方で、「パキスタン・タリバン運動」「ISILホラサン州」などテロ組織の活動や、カシミール地方をめぐるインドとの対立など、治安情勢としては不安定です。
外務省が発表している危険情報では、アフガニスタン国境付近やバロチスタン州は「レベル4:退避勧告」、イラン国境付近やカイバル・パクトゥン州は「レベル3:渡航中止勧告」、首都イスラマバードや最大都市カラチを含むその他の地域は「レベル2:不要不急の渡航は止めてください」となっています。
インド、パキスタン、アフガニスタンをまたがって流れるインダス川とガッガル・ハークラー川の周辺で、紀元前2600年頃から紀元前1800年頃まで「インダス文明」が栄えていました。
遺跡は東西1500km、南北1800kmという広大な地域に分布していて、確認されているだけでも2500以上があります。
インダス文明の都市はメソポタミア文明のものよりも小さく、1km四方を越える大きさのものはモヘンジョ・ダロやハラッパーなどごく少数。城塞と都市が一体化したものと、分離しているものと2種類がありました。
他の古代文明と大きく異なる点は、王宮や神殿など、権力者が居たことをうかがわせる痕跡が発見されていないこと。ただ排水溝の設備がある街路が碁盤目状に規則正しく配置されていたため計画性のある都市作りをしていたことや、度量衡が統一されていたため知識のある指導者がいたことは確実視されています。
言語は、原ドラヴィダ語に属するものが使用されていたと推測されているものの、インダス文字はいまだ解読されておらず、詳細はわかっていません。
インダス川の氾濫を利用した農業や、コブウシなどを家畜化して牧畜業をしていたことがわかっています。またメソポタミアと盛んに交易をしていて、紅玉髄製のビーズなど装飾品を輸出していたそうです。
インダス文明が滅亡した理由については、砂漠化してしまったから、河流が変化したから、気候が変動したからなどさまざまな説が提唱されています。
かつては、埋葬されずに折り重なった無数の人骨が確認されたことや、古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』に戦争に関する記述があることから、アーリア人による侵略も有力視されていました。しかしその後の調査で、発掘された人骨に外傷がなく、そもそもアーリア人の侵入時期とインダス文明が滅亡した時期に相違があることから現在は否定されています。
「イギリス領インド」として、パキスタンはもともとインドとともにイギリスの統治下に置かれていました。しかし独立運動が巻き起こるなかで、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との間に対立が生じます。
弁護士出身のムハンマド・アリー・ジンナーを指導者とする「全インド・ムスリム連盟」は、二民族論を唱えて分離独立を主張しました。
一方で、マハトマ・ガンジーらは統一インドの実現を唱えます。後にインドの初代大統領となるジャワハルラール・ネルーなども、分離に反対しました。
イギリス領インドで最後の総督を務めたルイス・マウントバッテンは、ヒンドゥー教徒主体のヒンデゥスタン、パキスタン、各藩王国の三者で「インド連邦」を構成する構想を抱いていましたが、合意には至らず、分離は不可避となりました。
結果的に、1947年8月14日、イスラム教徒が多く居住するインド西部の地域が、「パキスタン」として分離独立することになり、ムハンマド・アリー・ジンナーが初代総督に就任します。ヒンドゥー教徒の多い地域にいるイスラム教徒、あるいはイスラム教徒の多い地域にいるヒンドゥー教徒はなかば強制的に移動させられることになり、難民も多く出ました。
短期間で1000万人以上の人が大移動を余儀なくされたことで混乱が起き、暴動や虐殺に発展。さらに報復の連鎖となり、一説によると100万人を超える死者が出たそうです。
この時に生まれたパキスタンとインド双方の不信感は、以降長らく両国の関係に影を落とすことになります。
当時、インド東部のイスラム教多数派地域である東ベンガル州もパキスタンに組み込まれましたが、インドを挟んで遠く離れた地域を統治することは困難で、1955年に東パキスタンとなり、1971年にはバングラデシュとして独立しています。
イギリス領インドはもともと、8つの直轄州と565の藩王国で構成されていました。インドとパキスタンが分離独立した際に、これら藩王国もいずれかに帰属することを選択することになるのです。しかしなかには藩王と住民の宗教が異なるなど、帰属を決めかねる地域もありました。それが、ジュナーガド藩王国、ニザーム藩王国、ジャンムー・カシミール藩王国の3つです。
インドの内陸にあったジュナーガド藩王国とニザーム藩王国は、強制的にインドに合併されることに。しかし藩王はヒンドゥー教徒で住民の80%はイスラム教徒とのジャンムー・カシミール藩王国は、インドとパキスタン双方と接している地域でした。
藩王自身は独立を望んでいましたが、住民の多くはパキスタンへの帰属を求め、暴動が発生。パキスタンからイスラム教徒の民兵が侵入する事態になります。すると藩王はインドに対して武力介入を要請、これを受けてパキスタンも正規軍を投入し、1947年、「第一次印パ戦争」が勃発するのです。
この争いは、国連の仲介で1948年に停戦しました。ジャンムー・カシミール藩王国は、6割がインド、残りがパキスタンの支配下となることが決まります。
カシミール地方をめぐっては、1965年と1971年にもインドとパキスタンの間で戦争が起こり、1962年以降は中国も侵入。1990年には「ラシュカレトイバ」というカシミール地方の分離独立を掲げた組織が立ち上がるなど、いまだに紛争が続いています。
パキスタンは志願兵制ながら、64万6000人の正規軍に加え、約30万人の準軍事組織と51万5000人の予備役部隊を有する、世界第7位の軍事力をもっています。
しかし約132万人の正規軍と約200万人の準軍事組織、約110万人の予備役部隊があり世界第4位の軍事力を誇るインドに対しては劣勢でした。
1962年に「中印国境紛争」で中国に敗れたインドは、1964年に中国が核実験を成功させたことに対抗しようと核開発を進め、1974年には核実験を成功させます。
するとパキスタンも、アブドゥル・カディール・カーン博士を中心に、中国や北朝鮮の協力のもと核開発を進めました。1998年にインドが再び核実験をおこなったことに対抗し、パキスタンも核実験を実施。両国はともに核兵器保有国となったのです。現在、インドは140発ほど、パキスタンは150発ほどの核兵器を保有していると考えられています。
また建国以来パキスタンでは、たびたびクーデターが発生。民政と軍政がくり返されるなど不安定な政情が続いていました。しかしそんななかで、アメリカとの協力、同盟関係は維持されています。
1979年、ソ連が隣国アフガニスタンへの軍事侵攻を開始すると、アメリカは中央情報局(CIA)を通じてアフガニスタンでソ連と戦うムジャヒディンを支援。この時に拠点となったのがパキスタンなのです。
両者の仲介役を担ったのは、パキスタン最大の情報機関である「ISI(軍統合情報局)」。ISIはタリバンやアルカイダなどイスラム過激派組織や、カシミール地方の分離独立を掲げるラシュカレトイバとの関係を強めていきました。
ちなみにISIは、パキスタン国内で軍やISIに反抗的な政治家を狙う暗殺事件や、インド国内起こるテロ事件などに関与している疑いもあり、影の実力者ともいわれています。
またパキスタンでは、貧困問題も深刻です。国民の20%以上が1日2ドル以下の生活をしなければいけない貧困層だそう。貧困の大きな要因が、水資源の不足です。25%ほどの家庭にしか水道が引かれておらず、わずかに供給される水も大部分が汚染されているのが現状。女性や子どもが水汲みのために何時間も歩くことが日常で、勉強をする時間が確保できず、そのまま貧困生活が続いてしまっているのです。
さらに近年では、インダス川上流域におけるダム建設などをめぐってもインドと対立しています。
- 著者
- 中野勝一
- 出版日
本書の作者は、大阪外国語大学でインド・パキスタン語科を卒業し、外務省に入省後はカラチ大学で研修を受け、在パキスタン大使館、在カラチ総領事館などで働いた人物。キャリアの大半をパキスタンに関わりながら過ごした作者が、なぜパキスタンでは民主主義が根付かないのかを語ります。
現地の政府関係者たちと仕事をした経験を踏まえつつ、インド、アメリカ、中国など超大国との複雑な距離感をわかりやすく解説してくれます。
テロと紛争の最前線になってしまっているパキスタンが一体どのような国なのか、しっかりと学べる一冊です。
- 著者
- 廣瀬 和司
- 出版日
ヒマラヤ山脈を望む風光明媚な地で、「地上の楽園」とまで呼ばれていたカシミール地方。しかし1947年の「第一次印パ戦争」以降、インド、パキスタン、中国、さらに地元の分離独立派が入り混じる紛争のるつぼとなり、多くの血が流れています。
本書は、1998年から2008年まで20回以上カシミール地方を訪れ、精力的に取材を重ねた作者がまとめたルポルタージュです。デモに対する実弾射撃、治安部隊兵士によるカシミール人女性への暴行など、人権侵害に苦し人々の様子がありありと伝わってくるでしょう。そんななか、2005年にはマグニチュード7.6の巨大地震も起こるのです。
パキスタンの現状をリアリティをもって感じられる一冊になっています。