5分でわかるイラクの歴史!文化、イスラム、イラク戦争などをわかりやすく解説

更新:2021.11.23

世界最古の文明である古代メソポタミア文明が栄えた地にあるイラク。歴史をさかのぼってみると、さまざまな国家に支配されてきました。1932年に独立をしてからも、戦場の最前線になっています。この記事ではイラクの宗教や文化など概要と、古代メソポタミアからイラク戦争までの歴史を解説していきます。

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イラクはどんな国?首都、宗教、文化、通貨などを簡単に解説

 

中東にある連邦共和制国家のイラク共和国。首都はバグダッドです。イラン、ヨルダン、クウェート、サウジアラビア、シリア、トルコと国境を接しています。

東西に870km、南北920kmで、国土面積は約43万平方キロメートル。人口はおよそ3300万人です。国土の東端にはペルシャ湾、西端にはシリア砂漠、南端にはネフド砂漠、北端にはクルディスタン山脈があり、特にシリア砂漠とはネフド砂漠は不毛地帯になっています。

イラクの地形として知っておきたいことは、国内を北西から南東に横断するようにティグリス川とユーフラテス川という2本の大河が流れている点でしょう。古代メソポタミア文明が栄えた地とほぼ同一です。この2本の大河を起点にして、周辺の肥沃なメソポタミア平原、大河南側の砂漠地帯、大河北側の高原・山岳地帯の3つに分けられます。砂漠地帯の気候は非常に暑く、特に乾燥する夏季は最高気温が50度を上回ることも珍しくありません。

イラクの人口の約79%がアラブ人、約16%がクルド人、約3%がアッシリア人、約2%がトルコマン人だといわれています。クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トルコマン人はアラブ人地域とクルド人地域の境界付近に、アラブ人はそれ以外の地域にと、住み分けがされています。

公用語はアラビア語とクルド語で、そのほかアルメニア語、アゼリー語、現代アラム語などの話者も少数ながら存在します。

イラク国民の99%はイスラム教徒。世界的には少数派であるイスラム教シーア派が約60%を占めていて、世界的には多数派のイスラム教スンニ派が約35%と逆転しているのが特徴です。ただ政府高官などエリート層の多くはスンニ派が占めていて、少数派が多数派を支配する不安定な状況が続いています。

かつてメソポタミア文明が栄えたことから、「文明のゆりかご」ともいわれるイラク。建築や文学、音楽、料理などさまざまなジャンルの文化が発展してきました。

なかでもイラク国民の生活に欠かせないのが、「お茶」です。統計によると年間で2.2㎏以上のお茶を消費しているそうで、これはカタール、アイルランド、イギリスに次いで世界第4位の数字。また結婚式が盛大なことでも知られていて、参列者が数百人規模も珍しくありません。

イラクのGDPは約2000億ドル。日本にあてはめると千葉県とほとんど同じです。

通貨はアラブ諸国で広く用いられているディナール。紀元前211年頃からローマ帝国で鋳造されていた銀貨「デナリウス」に由来するもので、1イラク・ディナールはおよそ0.09円です。

長らく農業を主な産業としてきましたが、1927年に北部のキルクークで油田が発見されてからは石油産業が中心に。現在では世界第3位の原油埋蔵量を誇る産油国となっています。

 

イラクの歴史をわかりやすく解説!メソポタミア文明が栄えた地

 

現在イラクがある場所では、紀元前3000年頃から紀元前331年頃までメソポタミア文明が栄えていました。「メソポタミア」はギリシア語で「複数の河の間」という意味があり、その言葉のとおりティグリス川とユーフラテス川の間に平野が広がっていました。

メソポタミア文明は単一ではなく複数の文明の総称ですが、なかでももっとも古くから文明を築いたのがシュメール人です。

シュメール人は自らを「ウンサンギガ(黒頭の民)」と呼び、自分たちの土地は「キエンギ(君主たちの地)」と呼んでいました。また王室が日本の皇室と同じ「菊花紋」を使用していたことがわかっています。しかしどこから来た、どのような民族なのか、詳しいことは明らかになっていません。

その後メソポタミアでは、バビロニア、アッシリア、アッカド、ヒッタイト、ミタンニ、エラム、ペルシアなどさまざまな国が栄えては滅亡をくり返すことになります。

メソポタミア文明では、「ジッグラト」と呼ばれる階段型のピラミッドを中心に巨大な都市をつくり、ティグリス川とユーフラテス川の恵みを活かしてエジプトよりも早く農業がおこなわれました。灌漑施設や高度な農機具も用いられ、収穫量は現代にも引けをとらないほどだったと推測されています。

『旧約聖書』のなかにも、メソポタミア文明に関する記述があります。たとえば「エデンの園」はメソポタミア文明の都市を、「バベルの塔」はジッグラトを、「ノアの洪水」はティグリス川とユーフラテス川の洪水をモデルにしているのだとか。

またメソポタミア文明では天文学も発達し、1週間を7日に区切る「七曜」や、「六十進法」が生み出されました。

メソポタミア文明で用いられた文字は、象形文字を発展させた楔形(くさびがた)文字といわれるもの。粘土板に植物の茎を削ったペンを使って刻まれていて、世界最古のものだといわれています。

また工芸技術も発達。その代表格がガラスです。紀元前4000年頃からガラスの製造が始まったといわれていて、イラクの遺跡からは紀元前16世紀のモザイクガラスの容器が発掘されています。

 

イラクの歴史をわかりやすく解説!ペルシア時代やイスラム王朝時代を解説

 

紀元前550年、現在のイラン北部にあたる場所で、ペルシア王国の国王の息子であるキュロス2世が反乱を起こしました。当時のペルシア王国は新バビロニア、エジプト、リュディアとともに「四帝国時代」を築いていたメディア王国に従属する小国です。

この反乱にメディア王国の将軍であるハルパゴスが、母国を裏切るかたちで手を貸したこともあり、キュロス2世はメディア王国を滅ぼすことに成功。そのまま新バビロニアとリュディアも倒し、メソポタミア全域を含む広大な帝国を築きました。これが、アケメネス朝ペルシアです。

アケメネス朝ペルシアは全土を36の行政区に分け、各州に総督を置き、総督を監察するために「王の耳」「王の目」と呼ばれた監察官を年に1度派遣するという統治方法をとりました。

各行政区では地元の民族に寛容な政策がとられたこともあり、政情は比較的安定。ダレイオス1世の時代には、西のエジプトから東のインダス川まで、広大な領土を獲得します。

しかし紀元前492年から紀元前449年に起こった「ペルシア戦争」でギリシアに敗北。紀元前330年にはマケドニアのアレキサンダー大王に征服され、滅亡します。

紀元前323年にアレキサンダー大王が亡くなると、メソポタミアの地はセレウコス朝シリアの支配下に入ります。紀元前141年にパルティアに征服された後はローマ帝国との戦争の最前線になり、パルティア滅亡後の230年にササン朝ペルシアの支配下に入りました。

610年、アラビア半島にて、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが、天使ジブリールから啓示を受けたとしてイスラム教の布教を開始。迫害を受けつつも「ウンマ」と呼ばれる共同体をつくり、武装化して勢力を拡大していきました。

632年にムハンマドが亡くなると、後継者争いを制したアブー・バクルが「カリフ=最高指導者」となり、周辺諸国に対する戦争を続けます。

633年には武将ハーリド・イブン・アル=ワリード率いるイスラム軍がササン朝ペルシア領に侵攻し、636年には首都クテシフォンを陥落。651年には最後のササン朝ペルシアの最後の王であるヤズデギルド3世を暗殺。メソポタミアはイスラム帝国に征服されました。

その後1000年以上、メソポタミアの地はイスラム系のウマイヤ朝やアッバース朝、モンゴル系のモンゴル帝国やイルハン朝、トルコ系のオスマン帝国などに支配されることになります。

第一次世界大戦後にはイギリスの委任統治領となり、1932年に第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブの末裔であるファイサル1世を国王として、イラク王国として独立しました。

 

イラクとアメリカの関係、イラク戦争をわかりやすく解説

 

1932年に独立をしたものの、さらなる独立を求める北部のクルド人や、国内を間接的に統治するイギリスへの反発など、問題を抱えていたイラク。

1941年には反イギリス派がクーデターを起こし、1945年には自治を求めるクルド人の反乱が起き、1948年には新たに建国されたイスラエルとの「第一次中東戦争」が勃発しています。また1958年にはエジプトの軍人を中心に結成された政治組織「自由将校団」がクーデターを起こして、イラク国王のファイサル2世が処刑され、王政は廃止されました。以降イラクは、共和制に移行することになります。

1968年、バアス党がクーデターを起こして政権の掌握に成功。将軍アフマド・ハサン・アル=バクルが大統領になりました。縁故主義を採用したバアス党は、ティグリス川沿いにある都市ティクリートの出身者を重用していきます。そのうちのひとりが、サダム・フセインです。

バクル政権下で副大統領になったサダム・フセインは、「イラク人民は、文明発祥の地である古代メソポタミアの民の子孫である」とする「イラク・ナショナリズム」を唱え、1979年には大統領に就任。

そして1980年9月、隣国イランへの侵攻を開始します。「イラン・イラク戦争」へと発展していきました。

当時のイランでは革命が起き、親米のパフラヴィー朝が倒れて、シーア派のイラン・イスラム共和国が成立していました。この革命の波が世界に広がることを恐れた欧米諸国やソ連、湾岸アラブの国々は、サダム・フセイン率いるイラクを援助します。戦いは実に8年間も続き、1988年8月にイラクの辛勝という形で終わりました。

しかしこの勝利でイラクは領土を拡大したわけでもなく、対外債務や財政悪化、物資不足、インフレなどの深刻な経済状況だけが残ります。

サダム・フセインは経済復興のために石油収入を増大させることが必要だと考え、サウジアラビアやイランとともに原油価格の引き上げを目論見ました。しかしクウェートが反発し、石油を増産して価格を下げようとします。これを受けてサダム・フセインは、1990年8月、クウェートに侵攻。「湾岸戦争」が勃発するのです。

サダム・フセインは再びアメリカが後ろ盾になってくれると考えていましたが、アメリカは同盟国であるサウジアラビアを防衛する名目で、1997年にイラクへ攻撃を開始します。結果的にイラクは敗北し、国連の制裁を受けることになりました。

2001年9月11日に「アメリカ同時多発テロ事件」が起きると、アメリカはテロを実行したアルカイダを支援しているとして、イラクに対して強硬姿勢をとるように。2002年1月には、ブッシュ大統領がイラクを「悪の枢軸」と名指しで批判します。

2003年3月、アメリカはイラクが大量破壊兵器を保有しているとして、イラクへの攻撃を開始。「イラク戦争」が始まりました。

かつて世界第4位の軍事大国だったイラクも、アメリカを中心とする連合軍に太刀打ちすることはできず、4月には首都バグダッドが陥落し、5月にブッシュ大統領が終結を宣言しました。

バグダッドから逃れたサダム・フセインは12月に捕らえられ、3年後の2006年12月30日に処刑されています。

その間イラクでは、2004年にイラク暫定政権が、2005年にイラク移行政府が、2006年に正式な政府が発足しますが、宗派間の対立やクルド人自治区の台頭、ISIL「イスラム国」の問題、イランの影響力拡大など、不安定な政情が続いています。テロも頻発し、混乱は終わりが見えない状態です。

ちなみに日本の外務省が発表している海外危険情報では、ほぼ全域が「レベル4:退避勧告」または「レベル3:渡航中止勧告」に設定されています。

 

リアリティ抜群の自衛隊の日報が書籍化

著者
ライフブックス
出版日

 

「イラク戦争」が勃発した2003年から2009年まで、イラク特措法にもとづき、比較的治安が安定しているとされた南部のサマワを宿営地に日本の自衛隊が派遣されていました。目的は、人道復興支援です。

本書は、もともと「存在しない」といわれてきた自衛隊のイラク派遣日報の一部を書籍化したもの。「戦闘」いう文言をめぐり、サマワ周辺が特措法の定める「非戦闘地域」だったのか論争になったことを記憶している方もいるでしょう。

ただ作中では政治面よりも、イラクで生活をする自衛隊員たちの日常のエピソードが多数紹介されています。たとえば髪型をスキンヘッドにしたら韓国陸軍人に「南無阿弥陀仏」と拝まれるようになった、普段は厳格な班長が娘と電話する時だけ赤ちゃん言葉になる、などユーモラスなものも多数。一方で、厳しい環境のもとで厳格に誠実に働く姿勢も感じられるでしょう。

もともと外部に公表されることを想定していなかった日報なので、リアリティも抜群。当時のイラクの状況と、自衛隊の仕事ぶりを感じられる一冊です。

 

イラク戦争以降の中東情勢と、アメリカの関係を考える本

著者
村瀬 健介
出版日

 

作者の村瀬健介は、TBSに所属し中東支局長を務めた人物。「イラク戦争」以後、終わりの見えない混沌とした状況が続くイラクやシリアで、その背景にある武器取引の闇や、CIA暗躍の実態を取材してきました。本作では、なぜ中東でテロがくり返されるのか、なぜ混乱が収まらないのか、その理由を探ろうとしています。

そもそも「イラク戦争」は、イラクが大量破壊兵器を所有していると疑ったアメリカの攻撃で始まりました。しかし実際には、大量破壊兵器は発見されていません。ではなぜアメリカは、「イラク戦争」に踏み切ったのでしょうか。

アメリカと、イラクをはじめとする中東の関係を考える際に手に取りたい一冊です。

 

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