アメリカとの関係や核開発問題など、ニュースなどでたびたび耳にすることがあるイラン。どのような歴史を築いてきた国か知っているでしょうか。この記事では、ペルシア帝国などが栄えた古代史から、立憲革命やイラン革命などの近現代史、さらには女性の人権の変化などをわかりやすく解説していきます。
1979年の「イラン・イスラム革命」で成立した中東のイスラム共和制国家、イラン・イスラム共和国。日本では通称イランとして知られています。
国土面積は日本の4倍近い約165万平方キロメートル。人口は約8000万人で、いずれも世界第17位の規模です。ただ平野部はごくわずかで、西半分はザグロス山脈やアルボルズ山脈などの山岳地帯、東半分はキャビール砂漠に代表される砂漠地帯が広がっています。
アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタン、トルコ、イラクと国境を接していて、北にカスピ海、南にペルシア湾とオマーン湾があり、対岸にはクウェートやサウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦があります。
イランの人口のうち約55%がペルシア人です。そのほか約30%がアゼルバイジャン人、約10%がクルド人、約5%がロル族で、人口の約15%が首都のテヘランで暮らしています。
公用語はペルシア語。そのほかアゼルバイジャン語、クルド語、ロル語、ギラキ語、マーザンダラーン語、アラビア語、トルクメン語、ガシュガーイー語、ドマーリー語、タリシュ語、バローチー語などの話者がいて、多様な文化をもっていることが特徴だといえるでしょう。
人口の約90%が国教であるイスラム教シーア派十二イマーム派です。そのほかイスラム教スンニ派やバハーイー教、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教の信者もいますが、バハーイー教は公認されておらず、彼らは高等教育を受ける権利がないなど迫害の対象となっています。
GDPは約3700億ドルで、大阪府と同じくらい。世界有数の石油産出国で、その経済的ポテンシャルは高く評価されています。しかし親米だったパフラヴィー朝を倒したことで国が成立したという経緯から反米国家でもあり、国際的な経済システムから事実上排除されているため、本来の経済力を発揮できていないのが現状です。
また核開発や、各国のシーア派系反政府組織への援助などをしていると推測されていて、2002年には当時アメリカの大統領だったジョージ・W・ブッシュから「北朝鮮、イラクと並ぶ悪の枢軸」と名指しで批判されました。
さらに2020年には、軍隊組織「イスラム革命防衛隊」のスレイマニ司令官がアメリカの無人攻撃機で爆殺されるなど、両国の関係は一触即発の状態です。
イラン国内では治安機関の目が行き届いているため治安は安定しているそうですが、訪れる際にはやはり注意が必要。パキスタン、アフガニスタン、イラクなどの周辺国でもテロが頻発していますし、アゼルバイジャンとアルメニアが係争しているナゴルノ・カラバフをめぐり2020年にも軍事衝突が起きました。
外務省が発表している危険情報では、パキスタン、アフガニスタン、イラクとの国境地帯を中心に「レベル4:退避勧告」や「レベル3:渡航中止勧告」が出されています。
イランがある地域には、約10万年前の遺跡が見つかっています。その後1万8000年前から1万4000年前頃に人類の定住が始まったようです。8000年前にはかなり高度な農耕社会を営んでいたことも明らかになっていて、紀元前5000年頃のワインの瓶なども発掘されています。
紀元前3000年頃から紀元前539年までは、エラム人が活躍していました。後にイランで主流となるのはペルシア語ですが、彼らが使用していたエラム語はこれらの言語とは異なるもので、エラム人がどこからやってきたどのような民族なのかは明らかになっていません。
高度な国家機構を整え、メソポタミアの諸王朝と戦火を交えながらも約2500年にわたりオリエントの重要な勢力として地位を確立。エラム人が亡びた後も、彼らがつくりあげた制度や文化は引き継がれていきます。
紀元前2000年頃になると、中央アジアや南ロシアの草原地帯で暮らしていた遊牧民族のアーリア人が南下を始め、紀元前1000年頃にはイランやインド亜大陸に定住しました。現在のイラン人やインド人の祖先であり、「イラン」という国名も「アーリア」に由来しています。
紀元前900年頃になると、アーリア人系のペルシア人とメディア人が登場。いずれもイラク北部を本拠とする世界帝国アッシリアに従属していましたが、メディア人が勢力を伸ばし、メディア王国を建国します。メディア王国は紀元前612年頃にアッシリアを滅ぼし、バビロニアやエジプト、リュディアと並ぶオリエントの大国となりました。
しかし紀元前550年、メディア人とペルシア人の混血だったキュロス2世がメディア王国を滅ぼし、アケメネス朝ペルシアを建国。アケメネス朝ペルシアはリュディア王国、新バビロニア王国をも滅ぼし、エジプトを併合して古代オリエントを統一しました。
アケメネス朝ペルシアはゾロアスター教を国教とし、支配下の各民族に対して寛容な政策をとりながら強大な勢力を築きますが、やがてギリシアとの「ペルシア戦争」に敗れ、紀元前330年にマケドニアのアレキサンダー大王によって滅ぼされました。
その後イランの地は、セレウコス朝シリア、パルティア、ローマ帝国などが支配。226年にササン朝ペルシアが成立します。ササン朝ペルシアは東ローマ帝国とたびたび軍事衝突を起こし、時には東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを包囲するなどオリエントの大国として君臨しました。
しかし相次ぐ戦争で国力は疲弊。ハーリド・イブン・アル=ワリード率いるイスラム軍との「カーディシーヤの戦い」「ニハーヴァンドの戦い」に敗れて滅亡しました。
イランの地はイスラムが支配するようになり、932年に成立したブワイフ朝では、シーア派十二イマーム派が初めて国教に。1256年からモンゴル系王朝の支配下に置かれますが、1501年には再びシーア派十二イマーム派を国教とするサファヴィー朝が成立し、現在のイランおよびイラクの領域を統治します。
1736年にサファヴィー朝が滅亡すると、ナゴルノ・カラバフを本拠としていたトルコ系遊牧民のガージャール部族連合が実権を握り、ガージャール朝が成立しました。この時期、イランの地はイギリスとロシアによる「グレート・ゲーム」の係争地となり、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア、アフガニスタンなどの地域を失うことになりました。
19世紀、ガージャール朝は相次ぐ戦争で敗北を重ね、イギリスとロシアによる実質的な植民地と化していました。1857年に締結された「パリ条約」によって関税自主権を喪失し、廉価な織物製品が海外から流入して経済も疲弊。1885年にペルシア帝国銀行が設立されたことで、財政や金融もイギリスの支配を受けることになります。
イラン国内では、ヨーロッパの自由主義や民族主義などの近代的思想に触れた改革派や、シーア派十二イマーム派のイスラム法学者たち、イギリスの経済支配に反発するバーザール商人など、ガージャール朝に反発する声は日に日に高まりつつありました。
彼らの不満が爆発したのは、1891年のこと。当時国王ナーセロッディーン・シャーは、豪華な宮廷生活を営む一方で、その費用を捻出するために経済的特権をヨーロッパ諸国に与えていました。そして、イラン人の嗜好品であるタバコの独占販売権をもイギリスに与えようとします。
これはタバコを販売するバーザール商人のみならず、タバコ栽培に関わる農家にとっても死活問題。人々はイギリス人にタバコを売ること、さらにはタバコの吸引そのものをやめるよう訴える「タバコ・ボイコット運動」を起こします。イランで初めて起こった政治的運動でした。
1905年には、政府に対して憲法の発布や議会の開設を求める一大運動に発展。1906年には議会が開設され、憲法が発布。「立憲革命」となりました。
結果的には、ロシアやイギリスの介入があり議会は1911年に解散。憲法も効力を停止するなど革命は失敗に終わりました。しかし一連の政治運動はガージャール朝の弱体化を招き、パフラヴィー朝へと移行するきかっけに。この時に発布された憲法は、何度も修正は重ねているものの現代のイラン政治の骨格となっています。
また「立憲革命」によって、女性の人権に大きな変化がありました。革命以前は、「男女の空間分離」を規範とするイスラム法にのっとり、女性は外出時にヴェールなどで髪や肌を隠すことが義務付けられるなど厳しい制限がありました。女性が教育を受けることも、自己表現をすることも許されていませんでした。
しかし「立憲革命」以降は、西洋の文明や思想を背景とする近代的ナショナリズムが台頭し、女性の人権を求める活動家が現われます。
詩人のゴッラトル・エインは、一夫多妻制とヴェールの着用を批判し、公の場でヴェールを脱いだそう。また「アンジョマン」と呼ばれる団体を設立して女性教育の必要性を訴え、婦人雑誌を刊行し、女子校を設立しました。
「白色革命」の名のもとで、婦人参政権や一夫一婦制など、近代化と西欧化を目指します。ミニスカートを履いた女性が公共の場を歩く姿も当たり前になっていきました。
しかしこの試みは、1979年の「イスラム革命」によって頓挫。女性の人権は再び厳しい制限下に置かれることになりました。
ただ近年では女性の社会進出が認められ、女性のスポーツ観戦が解禁されるなど、少しずつ変化の兆しも見えつつあります。
1911年に「立憲革命」が失敗し、政情が不安定なまま「第一次世界大戦」へと突入したイラン。オスマン帝国の侵攻を受け、国内では凶作やチフスの流行などもあり、混乱が広がりました。
1917年に「ロシア革命」が起きると、新たに成立したソ連がイランから撤退。イギリスは単独で支配に乗り出し、イランを保護国化しようとします。これに反発した人々が革命政権をつくるなど、ガージャール朝はますます荒れていきました。
そんななか、ガージャール朝に代わって実権を握ったのが、1921年2月にクーデターを起こしたレザー・ハーンです。レザー・ハーンは1926年にレザー・パフラヴィーとして皇帝に即位。イラン最後の王朝であるパフラヴィー朝が成立します。イランの近代化を目指し、不平等条約の破棄、軍事力の増強、法律の西欧化、財政再建、近代的な教育制度の導入、鉄道の敷設、公衆衛生の拡充などの諸政策を次々に実施していきました。
1941年に即位した2代目の皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーは国民の圧倒的な支持を受け、ソ連の援助を受けながら、モハンマド・モサッデク首相を失脚に追い込みました。さらにアメリカのCIAやFBI、イスラエルのモサドの協力のもと「国家情報治安機構(SAVAK)」を創設して反対勢力を弾圧。自らに権力を集中させ、世俗主義・脱イスラム・近代化・西欧化を目標とする「白色革命」を推進します。
しかし徐々に独裁色を強めていき、敬虔なイスラム教徒を中心に国民の反感を買うようになっていきました。
その結果、1979年にはシーア派十二イマーム派の有力な法学者だったルーホッラー・ホメイニーを指導者とする「イラン・イスラム革命」が勃発。モハンマド・レザー・パフラヴィーは亡命を余儀なくされ、イスラム共和制を採用するイラン・イスラム共和国が樹立されるのです。
この時、モハンマド・レザー・パフラヴィーの亡命をアメリカが受け入れたことへの反発から、同年に「アメリカ大使館人質事件」が発生。さらにイランが革命を輸出する政策を掲げ、レバノンのヒズボラやパレスチナのハマスなど武装組織への援助をを断行。イランとアメリカの関係は悪化し、1980年に勃発した「イラン・イラク戦争」ではアメリカがイラクのサダム・フセイン大統領を援助し、戦闘が長期化しました。
1990年代以降はイランがアメリカからの自衛を目的に核兵器を開発しているのではないかという疑惑が浮上し、国連による経済制裁もおこなわれています。
2013年に穏健派のハサン・ロウハーニーが大統領に就任すると、イランと国連の常任理事国、ドイツの核協議が合意に達し、経済制裁が一部緩和されました。
しかし2018年にアメリカのドナルド・トランプ大統領が核協議の合意内容ではイランの核開発を阻止するには不十分であるとして合意から離脱。2020年のスレイマニ司令官暗殺に対してイランが報復攻撃をするなど、再び緊張が高まりつつあります。
- 著者
- 宮田 律
- 出版日
同じイスラム教を信仰するアラブ人とイラン人、トルコ人。本書では、イスラム教という共通の基盤をもちつつも競合と協調をくり返してきた3民族に光を当て、その歴史をわかりやすく解説しています。
イスラム教の源流であることを誇りとするアラブ人。ヨーロッパやインドと同じくアーリア人を祖とし、華麗なペルシア文明を築きあげたイラン人。中央アジアに源流をもち、アジアとヨーロッパに跨るオスマン帝国を築き上げたトルコ人……相違点や共通点が明らかになり、これまであいまいだったイスラム民族に対する理解を深めることができるでしょう。
- 著者
- 高橋和夫
- 出版日
イランとアメリカの関係を、古代までさかのぼりながら解説した作品です。
かつては世界でも有数の華やかな帝国を築いたイラン。彼らのなかには、「自分たちはアラブ人とは違う」という自負が根強くあります。しかしイランは、イギリスやロシアの実質的な植民地となり、大国に対する不信感を募らせていきました。
そんななかでもアメリカは、アラブよりも親近感を抱くことができ、大国に植え付けられた不信感を拭い去ってくれる存在だったのです。ただ実際にはアメリカも他の大国と変わらず、イラン人の根底には裏切られたという思いがあります。
一方でアメリカからしてみても、イランの近代化を支援してきたにも関わらず、革命というかたちで裏切られてしまいました。
タイトルにある「愛と憎しみ」とは言い得て妙で、相思相愛だった頃から一転して、裏切り、憎しみを抱くまでの経緯を理解することができるでしょう。