5分でわかるレバノンの歴史!宗教や治安、フランス統治時代などをわかりやすく解説

更新:2021.11.23

世界史上で地中海世界の発展に欠かせなかった船、そして船の材料として重宝されたのがレバノン杉でした。その原産であるレバノンは、紀元前から栄えた古い歴史をもつ国ですが、近代では内戦などで不安定な政情が続いています。この記事では、古代から中世、フランス統治時代、近現代とレバノンの歴史をわかりやすく解説。またおすすめの関連本も紹介していきます。

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レバノンってどんな国?人口、宗教、言語、治安、ワインなど

 

中東にある共和制国家のレバノン。1943年にフランスから独立しました。首都は「中東のパリ」と呼ばれるベイルート。北から東にかけてシリア、南でイスラエルと国境を接していて、西は地中海に面しています。

レバノンという国名は、フェニキア語で「白い」という意味。標高3000m級の山々が連なり、頂上付近が冠雪するレバノン山脈の景色が由来です。

国土は南北に217km、東西に56kmと細長い形をしていて、西部にレバノン山脈、東部にアンチレバノン山脈、その間にベッカー高原があります。国土面積は約1万平方キロメートルで、岐阜県と同程度です。

人口は約700万人で、そのうち95%以上がアラブ人だとされています。ただ長らく続く宗教紛争のため、1932年以降、総人口の統計を除く詳細な国勢調査は実施されていません。

公用語はアラビア語。かつてフランスに統治されていたことから、フランス語も公用語に近い地位を占めています。そのほかアルメニア語、ギリシャ語、クルド語、アラム語、英語などを話す人も多くいます。

レバノン国内には主なものだけで18の宗派が存在し、なかでも多いのは、国民の約55%を占めるスンニ派やシーア派などのイスラム教、次いで約40%を占めるマロン派などのキリスト教。そのほか約5%がイスラム教少数派のドゥルーズ派など他宗教です。

レバノンでは宗派ごとに権力を分散する体制をとっていて、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンニ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出。国会議員数も1932年の国勢調査をもとに18の宗派ごとに割り振られる決まりになっています。

1932年から国勢調査が実施されていない理由は、キリスト教マロン派に比べてイスラム教徒の数が増えているため、国勢調査を実施して宗派ごとの実数が明らかになると政治バランスが崩れてしまうと危惧しているからだそうです。

ベイルートなどの都市にはヨーロッパ調の美しい街並みが広がり、野菜やハーブを多用するレバノン料理や世界最古級の歴史もつとされるレバノンワインなど、料理を目当てにした観光客が多いです。特にレバノンワインは紀元前7000年頃からつくられていたそうで、オスマン帝国時代に一時途絶えたもののフランス統治時代に復活し、本場フランスワインにも負けない味わいだといわれています。

ただレバノン国内では、1990年に内戦が終結してからもテロや紛争が起こっています。海外に逃れた国民も多く、特にブラジルにはレバノンの総人口を超える数のレバノン系ブラジル人が暮らしているそう。在外レバノン人のなかには商才に長けた人も多く、彼らからの送金が国家財政の一部を支えています。ちなみに日本でも有名な日産自動車の元社長兼最高経営責任者だったカルロス・ゴーンも、レバノン系ブラジル人です。

日本の外務省が発表している危険情報では「レベル3:渡航中止勧告」が継続している状況です。

 

レバノンの歴史をわかりやすく解説!古代から中世マムルーク朝まで

 

現在レバノンがある地域は、古代ではフェニキア人が土地を有していました。首都ベイルートも、もともとはフェニキア人が築いた都市。彼らは航海技術に優れ、レバノン山脈に自生していたレバノン杉で建造した船を用いて地中海に乗り出し、カルタゴ、バルセロナ、マルセイユ、リスボンなどに植民市をつくりました。

現在のレバノン人とフェニキア人には民族的な繋がりはほぼないとされていますが、レバノンの国旗にはレバノン杉が描かれています。

紀元前10世紀頃、フェニキアがアッシリア帝国に滅ぼされると、この地は新バビロニアやアレキサンダー大王、セレウコス朝シリア、ローマ帝国などが支配。7世紀頃にはアラブ人に征服され、イスラム化しました。

ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝による支配を受け、11世紀から13世紀には十字軍の侵攻を受けます。その後はマムルーク朝に支配されました。マムルーク朝のもとで、ベイルートなどのレバノンの都市は、中東とヨーロッパを繋ぐ交易の中継地として繁栄。しかしペストの流行やポルトガルのインド洋進出などで勢力が衰え、1517年にマムルーク朝が滅亡すると、オスマン帝国の一部となります。

 

レバノンの歴史をわかりやすく解説!フランス統治、シリアとの関係は?

 

レバノンでは、約100年にわたるオスマン帝国の直接統治を経て、イスラム教ドゥルーズ派のマーン家や、キリスト教マロン派のシハーブ家など、有力者が登場。オスマン帝国に従属しながらもなかば自立し、「レバノン首長国」を形成する間接統治へと移行しました。

それまで別々にコミュニティを形成していたドゥルーズ派やマロン派の混住が進みます。そのうえで、貿易業や金融業などで経済的に成功するマロン派が続出し、相対的にドゥルーズ派が没落するなど、不安定要素が生まれてきました。

1860年には、両者の対立から「デイル・エル・カマールの虐殺」が発生。約1万1000人のキリスト教徒が殺されます。当時ヨーロッパの介入はされませんでしたが、これ以降、ロシアは東方正教会、フランスやオーストリアはマロン派、イギリスはドゥルーズ派を公然と援護するようになりました。

1861年、オスマン帝国とイギリス、ロシア、オーストリア、フランス、プロイセンの間で「組織規約」が締結されます。これは、レバノンを自治権をもつ特別地域とみなす内容で、フランスが推薦したキリスト教徒のダウド・エフェンディが初代総督に就任しました。ダウドはフランスの支援を受けて絹産業を発展させ、レバノンは経済的に繁栄していきます。

しかしこの特別地域にはベイルートやトリポリ、シドンなどの地中海沿岸部や、ベッカー高原などは含まれておらず、特別地域に含まれる北部をマロン派やドゥルーズ派の勢力範囲、特別地域に含まれない南部をイスラム教の勢力範囲とする対立の構造が浮き彫りになりました。

そしてそのまま「第一次世界大戦」が発生。オスマン帝国が敗れると、レバノンはシリアとともにフランスの「委任統治領」となります。やがてキリスト教徒の多いレバノンはシリアから分離されて「フランス委任統治領大レバノン」に。それまで特別地域には含まれていなかったベイルートやトリポリ、シドンなども大レバノンの一部になりました。

これらの地域に住んでいる人々の多くはイスラム教徒で、本来であればレバノンではなくシリアに属する方が自然です。しかしあえてレバノンに含めたフランスの狙いは、少数のマロン派やドゥルーズ派に多数のイスラム教徒を支配させることで、互いに対立の感情を生み、結束することを拒むこと。さらにいえば、独立運動を起こさせないようにすることでした。

「フランス委任統治領大レバノン」は、「大レバノン国」「レバノン共和国」と名前を変更。外交権は制限されていたものの、内政は自由が許されていました。

その後「第二次世界大戦」が勃発し、フランスがドイツに占領されると、レバノンは1941年11月26日に独立を宣言。1943年11月22日、正式に独立が認められました。

独立に際して、宗派対立を抑えるために紳士協定を結んで、権力を分散。しかし国勢調査をして比率を順次見直すという約束は果たされませんでした。その結果、不利な立場に立たされることになったイスラム教徒の不満が高まり、彼らの保護を自任するシリアの介入を招くなど、不安定な政情が続くことになります。

 

レバノンの近現代の歴史をわかりやすく解説!現在の経済状況は?

 

独立した直後から不安定な状態だったレバノンですが、1970年代以降、多数のパレスチナ難民が流入してきたことにより、イスラム教徒が増加。なんとか保っていたバランスが崩れます。

特に1970年に起きた「ヨルダン内戦」で、「PLO(パレスチナ解放機構)」がレバノンに活動の拠点を移したことは大きな危機を招きました。PLOはレバノン国軍よりも大きな軍事力をもっていたからです。

主にマロン派から武力で難民を追放してほしいという声が上がるものの、PLOへの勝算がなかったレバノン政府は、レバノン南部に自治政府の樹立を認めるという内容の密約を締結。レバノン南部にPLOが支配する「ファタハ・ランド」が成立しました。

これに対し、マロン派や、PLOと対立するイスラエルが激怒。イスラエルが軍事攻撃を仕掛けてきます。しかしレバノン政府に反撃する力はなく、今度はそれを見たイスラム教徒たちが怒りの声を上げるのです。

政府ができないのであれば自ら戦うしかないとして、マロン派はアメリカやソ連、イスラム教徒はPLOやシリアから軍事支援を受けて武装化。1975年4月13日、ベイルート郊外のアイン・ルンマーネ地区にあったキリスト教会で両派が衝突したことをきっかけに、「レバノン内戦」が勃発しました。

ベイルートはマロン派の東ベイルートとイスラム教徒の西ベイルートに分断。シリア、イスラエル、アメリカ主導の多国籍軍などの介入で泥沼化し、およそ15万人の死者を出したすえに1990年、終結しました。

内戦後のレバノンは、実質的にシリアの支配下に置かれ、ベッカー高原を中心に約3万人のシリア軍が滞在しました。シリアが撤退した2005年までの15年間、「パクス・シリアーナ」といわれるほど安定した政情が続きます。

ただレバノン南部では、シリアやイランが支援するヒズボラと、イスラエルの紛争が継続。2006年にはイスラエルによる「レバノン侵攻」を招く事態になっています。

現在ヒズボラは、アメリカなどからテロ組織に指定されていますが、連携する政党とともにレバノン議会の過半数を掌握。さらに大統領と同盟を結んで政府に複数の閣僚を送り込むなど、実質的にレバノンを主導する存在です。

これまでレバノンは、地中海での天然ガス田探査、観光施設の充実などで経済復興を進めてきましたが、対外債務はGDPの170%近くに膨れあがり、2019年10月からは建国以来最悪といわれる経済危機の状態です。

2020年3月には、外貨建て国債の支払い延期を発表。デフォルトとなりました。その結果、外貨準備高が急減し、レバノン・ポンドの対ドルレートは暴落。国民の生活水準は著しく悪化し、抗議運動が暴徒化しています。

6月にはレバノン国軍兵士の食事から肉を抜くという発表があったほど。治安維持に関わる人々の士気低下が懸念され、国家の先行きには暗雲が漂っています。

 

政治、宗教、文化、暮らしなどを解説したおすすめ本

著者
["黒木 英充", "黒木 英充"]
出版日

 

国や地域のさまざまな分野について、専門家がわかりやすく解説する「エリア・スタディーズ」シリーズ。本作では、「兄弟」とも「親子」ともたとえられる2つの国、シリアとレバノンを取り上げています。

世界の歴史のなかでも特に長い歴史をもつ両国の、国民性や文化、暮らし、そして政治と宗教の複雑な関係を知ることができるでしょう。シリアとセットで語られるからこそ、レバノンに対する理解も深まります。

400ページ以上とボリュームはありますが、文章も読みやすいのでおすすめです。

 

レバノンのイスラム組織「ヒズボラ」を解説したおすすめ本

著者
末近 浩太
出版日

 

現代のレバノンを語るうえで欠かすことのできない組織「ヒズボラ」。正式には「ヒズブッラー」と発音し、アラビア語で「神の党」という意味があります。日本ではイスラム教シーア派の過激テロ組織という認識です。

ただテロ組織というのは、ヒズボラがもつ多様な姿の一面にすぎません。彼らは議会に参加する政党であり、学校や病院を運営し、テレビ局やラジオ局、週刊誌を経営するなど、人々の生活に密着。貧困層から支持を受けているのです。

本書は、ヒズボラの実情を取材し、組織の形成や思想、活動、各国との関係性などをまとめたもの。さまざまな角度からヒズボラを見ていくと、レバノンの政治はもちろん、中東情勢も理解できるでしょう。

 

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