世界最大の国土面積をもつロシア。言わずと知れた超大国ですが、一体どのような経緯で現在の姿になったのでしょうか。この記事では、キエフ・ルーシ時代からロシア帝国、革命、冷戦、ソ連崩壊などロシアの歴史をわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
ユーラシア大陸の北部にある「ロシア連邦」。46の州、9の地方、3の連邦市、22の共和国、1の自治州、4の自治管区という計85の連邦構成主体で成り立つ連邦共和制国家です。
バルト海沿岸から太平洋にまで達する広大な国土面積は、約1710万平方キロメートル。日本の約45倍、アメリカの約1.7倍あり、南米大陸全体に相当する大きさで、世界最大です。
国土はウラル山脈を境に西をヨーロッパ部、東をアジア部と分けていて、南から順にステップと呼ばれる平原地帯、タイガと呼ばれる針葉樹林、永久凍土が広がるツンドラ地帯が広がり、北辺は北極圏に含まれます。
首都であり最大の都市は、連邦市のモスクワ。人口は約1億4700万人で、世界第9位です。
182の民族が居住していて、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ポーランド人などの東スラブ系民族が約80%。タタール人、バシキール人、チュヴァシ人、トゥヴァ人、アルタイ人、カザフ人、ウズベク人、アゼルバイジャン人、サハ人などのテュルク系民族が約9%。チェチェン人、イングーシ人、オセット人、アヴァール人、アルメニア人、ジョージア人などのコーカサス系民族が約4%。マリ人、モルドヴィン人、カレリア人、ウドムルト人、ネネツ人などのウラル系民族が約2%です。
ロシア連邦全体の公用語はロシア語ですが、各共和国にはそれぞれの公用語があり、計26言語が認められています。そのほか日常的に使用されている言語は100以上あるそうです。
国の大半が亜寒帯地域に分類され、冬にはシベリア付近で放射冷却が起こって気温が著しく下がるのが特徴。北半球でもっとも寒い場所として「寒極」ともいわれ、マイナス70度になる地域もあります。一方で夏の最高気温は30度を超えるなど、寒暖の差が100度以上になることも珍しくありません。
宗教は、キリスト教のなかでも圧倒的に東方正教会の信者が多いのが特徴。そのほかカトリックやプロテスタント、イスラム教、ユダヤ教、仏教などの信者もいます。祝祭日はカトリックが作ったグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦を用いていて、クリスマスは1月7日だそうです。
文化面は、ヨーロッパ文化を基調としつつも、随所にタタールなどアジアの影響を受けているのが特徴。アジアから見れば「ヨーロッパの国」であり、ヨーロッパから見れば「アジアの国」といわれる所以です。
またロシア文学は世界的にも高く評価され、トルストイやドストエフスキーなど著名な作家を輩出してきました。料理は世界三大スープのひとつである「ボルシチ」や、総菜が入ったパン「ピロシキ」などが有名です。
国内の治安はおおむね良好。外務省が発表している危険情報は、モスクワやサンクトペテルブルクなどの大都市は「レベル1:十分注意してください」となっています。ただ過去にはテロ事件が発生したこともありました。
またチェチェンやイングーシ、ダゲスタンなどの北コーカサス連邦管区では武装勢力の攻撃や自爆テロが頻発していて、「レベル3:渡航中止勧告」が出されています。
さらにウクライナとの国境地帯では、2014年の「クリミア併合」以来、緊張状態が継続している状況。渡航の際には、人気が少ない場所には立ち入らないなどの注意が必要です。
「ロシア」という国名は、現在のロシア北西部、ウクライナ、ベラルーシにまたがる地域に存在いていた「ルーシ」という国に由来しています。日本では首都がキエフだったことから、「キエフ・ルーシ」または「キエフ大公国」と呼ぶのが一般的です。
ルーシが建国されたのは、862年頃。リューリクという人物が一帯を支配し、首長となりました。国名はルーシ・カガン国、首都はホルムガルド。彼の子孫が9世紀から16世紀まで支配者として君臨し、「リューリク朝」と呼ばれています。ただリューリク自身の出自については不明な点が多く、なかば伝説的な人物だといえるでしょう。
リューリクが879年に亡くなると、ルーシ・カガン国は子のイーゴリに受け継がれました。まだイーゴリが幼かったため、実権を握ったのは親族のオレグ。882年、ルーシ・カガン国が南へと勢力を拡大し、首都をキエフに移転してキエフ・ルーシなることを主導したのもオレグです。
キエフ・ルーシは周辺の東スラブ系民族を支配下に組み入れて勢力を拡大。東ローマ帝国とたびたび戦火を交え、941年には首都コンスタンティノープルを攻撃しました。
戦いはいずれも東ローマ帝国の勝利に終わるものの、人の行き来にともなってキリスト教が伝播します。もともとスラブ神話に登場する神々を信仰していましたが、キリスト教化していきました。やがて東方正教会の影響下に入り、キエフには府主教が設置されます。この教会が後のロシア正教やウクライナ正教の源流です。
その後キエフ・ルーシは、リューリクの血を引く親族間での争いなどで徐々に衰退。1240年にモンゴル帝国の侵攻を受け、滅亡します。
この地域はキプチャク・ハン国の支配下になりました。キプチャク・ハン国への貢納をまとめる役として台頭したのが、モスクワ公です。15世紀には独立し、モスクワ大公国となりました。
1462年に大公に即位した大帝イヴァン3世は、ルーシ北東部をモンゴルの支配(タタールのくびき)から解放して勢力を拡大。自らを「ツァーリ(皇帝)」と名乗り、モスクワ大公国はロシア・ツァーリ国となりました。
ロシア・ツァーリ国はイヴァン4世の時代に近代化とシベリア進出などでさらに拡大し、北方の大国となります。
皇帝への権力集中を進め、ロシア・ツァーリ国を大国にしていったイヴァン4世。しかし貴族のなかには彼の専制政治を嫌う者も多く、1584年に彼が亡くなると、国内は大貴族が皇帝の命に従わずに互いに争うようになっていきます。
この動乱のなか、1598年にはツァーリでイヴァン4世の息子であるフョードル1世が亡くなり、リューリク朝が途絶えることになります。
1605年、「ボヤーレ」と呼ばれる貴族たちが、モスクワ大公国とポーランド・リトアニア共和国の連邦構想を打ち立て、ポーランド・リトアニア共和国の貴族たちが私兵や傭兵を率いて内戦に介入するようになりました。1610年にはモスクワにポーランド・リトアニア共和国軍が入城する事態に。さらにスウェーデンも介入してきます。
これに対し、皇帝派の貴族たちは都市ニジニ・ノヴゴロドで義勇軍を結成。ローマ・カトリックのポーランド・リトアニア共和国に対抗するため、「反ローマ・カトリック闘争」を掲げました。
1612年11月4日、義勇軍がモスクワの解放に成功。ローマ・カトリックにロシア正教会が勝利した日として、現在も国民の祝日となっています。
1613年、新たなツァーリとして、ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが選出。リューリク家との直接の血縁関係はありませんでしたが、イヴァン4世の妃がロマノフ家出身だったことから、縁戚に数えられていました。これによって、ロシア最後の王朝であるロマノフ朝が成立します。
ロマノフ朝は、ミハイルと子のアレクセイの時代に国の基盤作りを進め、孫のピョートル大帝の時代に首都をサンクトペテルブルクに移動。西洋化と近代化を進めて、列強に名を連ねるまでになりました。
1721年には国号をロシア帝国と改めます。ロシアを辺境の国家から列強へと脱皮させたピョートル大帝の功績は「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」と評価されるほどです。
しかしロマノフ家は後継者不足に悩まされ、ピョートル大帝の死後、1730年には男系の嫡流が断絶。傍系で継承されることになります。1762年には、ロマノフ家の血統ではない皇后エカチェリーナ2世が皇帝として即位するなど、徐々にドイツ系の血を濃くしていきました。
エカチェリーナ2世の孫であるアレクサンドル1世の時代には、フランスのナポレオン・ボナパルトによる侵攻を撃退。ウィーン会議にて「神聖同盟」の締結を提唱するなど、東欧最大の強国としての地位を揺るぎないものにしていきます。
1830年代以降、ロシア帝国は「不凍港」の獲得を目的に「南下政策」を推進していきます。中央アジア、アフガニスタン、イランをめぐりイギリスと争いました。
1853年の「クリミア戦争」にてイギリス・フランス連合軍に敗れ、西欧の先進国との差があることを痛感すると、皇帝アレクサンドル2世は1861年に「農奴解放令」を発布。近代的改革に取り組んでいきます。
行政権から司法権を独立、国家予算の一本化、国立銀行の創設、大学の自由化、初等・中等教育の無償化、女性の社会進出、軍規の整備、装備の近代化、徴兵制への移行などさまざまな分野に着手しますが、進みが遅いことから国民の不満が高まっていきます。
また自治権の不十分さに不満を募らせたポーランドやリトアニア、ベラルーシ、ウクライナなどで反乱が相次ぎ、鎮圧にも多くの労力がかかりました。
ただ領土拡大は続けていて、中央アジアではブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカハンド国を相次いで勢力下にし、東アジアでは沿海州を獲得。念願の不凍港であるウラジオストクを手に入れます。1875年には日本との間に「樺太・千島交換条約」を結び、樺太を手に入れました。
1894年に即位したニコライ2世は満州や朝鮮への進出を図りますが、「日露戦争」に敗れたため、アジア方面への南下政策を断念します。
その後ロシア帝国は「汎スラヴ主義」を掲げてバルカン半島への進出を目指し、「汎ゲルマン主義」を掲げるドイツやオーストリアと対立し、「第一次世界大戦」が起こることになりました。
大戦中の1917年2月23日、サンクトペテルブルクにて、食料配給の改善を求めるデモが起こります。デモは瞬く間に拡大し、軍の一部が反乱を起こすなど革命へと発展。「ロシア革命」です。
3月17日にはニコライ2世が退位を余儀なくされ、約300年続いたロマノフ朝が滅亡。アレクサンドル・ケレンスキーを首班とする臨時政府が設立され、ロシア帝国は「ロシア共和国」になります。
10月にはレーニンやトロツキーを指導者とする「ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党)」が「10月革命」を起こします。約5年間の内戦のすえ、1922年にボリシェヴィキから改称したソ連共産党の一党独裁にもとづく、世界初の社会主義国家「ソビエト連邦」が建国されました。約200年ぶりに首都がモスクワに戻り、サンクトペテルブルクはレニングラードと改称されます。
1930年代は多くの資本主義国が世界大恐慌に苦しみましたが、ソビエト連邦はレーニンの跡を継いだヨシフ・スターリンによる農業の集団化と重工業化の断行によって、高い経済成長を達成。社会主義は資本主義に勝る理想的な国家の姿だと評価されました。
しかしその実態は農村からの強制的な収奪にすぎず、各地で大飢饉が勃発。スターリンは不満を述べる人々を粛清し、強制収容所、シベリアへの追放処分などの恐怖政治で抑えつけました。当時の死者は数百万人にのぼるといわれています。
1939年、ナチス・ドイツとの間に「独ソ不可侵条約」を締結し、ともにポーランドに侵攻。「第二次世界大戦」の引き金を引きます。その後ドイツが「独ソ不可侵条約」を破棄してソ連に攻め込むと、連合国からの援助を受けながらこれを撃退し、戦後はアメリカと並ぶ超大国として世界に君臨することになりました。
「第二次世界大戦」が終結した後の世界秩序を保つため、1945年2月に「ヤルタ会談」が開催されます。ここから1989年に開催される「マルタ会談」までの44年間、アメリカとソ連は「冷戦」をくり広げました。
冷戦の大きな原因となったのは、核兵器による均衡です。いち早く核兵器を開発し、実戦に投入したのはアメリカでしたが、1949年にはソ連も原爆実験に成功。さらにアメリカは1952年に水爆を開発しますが、ソ連も1955年には開発。核兵器の量は全人類を滅ぼすのに必要な量を上回ります。
両国は互いに核による先制攻撃を受けることを防ぐためのシステムを構築。この戦略は「相互確証破壊」と呼ばれ、2つの超大国が直接戦火を交えることを防ぐ抑止機能を発揮しました。
核兵器を除く通常戦力ではソ連が圧倒的に優位だと考えられ、アメリカを主導者とする西側陣営は、ソ連の軍事力に対抗するために1949年に「北大西洋条約機構」を結成します。
これに対抗してソ連を主導者とする東側陣営も、1955年に「ワルシャワ条約機構」を結成。ソ連は東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国としました。
1949年には中国共産党が国民党との内戦に勝利して「中華人民共和国」を樹立。1961年にはガガーリンが人類初の有人宇宙飛行を成功させるなど、冷戦初期は東側陣営が優勢な状況が続いていました。
一方で、1948年には早くもチェコスロバキアが離脱。1956年には「ハンガリー動乱」が起き、1960年代には中華人民共和国やアルバニア人民共和国の離反を招くなど、スターリン主義にもとづくソ連の指導性に関しては揺らぎが見られました。
さらに1970年代に入ると、社会主義の基盤である計画経済が破綻。経済力において西側陣営との差が大きくなっていきます。
ソ連にとって致命傷となったのが、1979年から1989年まで続いた「アフガニスタン侵攻」です。抵抗するムジャヒディンとの戦いは長期化し、国力が大いに疲弊しました。
1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、ソ連を立て直そうと「ペレストロイカ(再構築)」と「グラスノスチ(情報公開)」を掲げて改革に取り組むものの、各地の民族主義を刺激し、共産党内部の権力闘争を招き、1991年12月25日にソ連は崩壊してしまうのです。
ロシア共和国はソ連から離脱して「ロシア連邦」となり、初代大統領にボリス・エリツィンが就任しました。またソ連が崩壊したことで、アメリカによる覇権が確立したとみなす論調が誕生します。
しかし2000年に、ソ連崩壊を「20世紀最大の地政学的悲劇」と呼ぶウラジーミル・プーチンが大統領に就任すると、「強いロシアの復活」を掲げて、ウクライナ領だったクリミア半島をロシア領へ強行編入。「シリア内戦」に介入するなど影響力の拡大に尽力します。
2020年7月には憲法の改正が国民投票で承認され、プーチンは2036年まで大統領に在任することが認められました。ゆくゆくは「終身大統領」あるいは「ツァーリ」になることも視野に入れているともいわれていて、アメリカの覇権に対する有力な挑戦者のひとりとされています。
- 著者
- 栗生沢 猛夫
- 出版日
1000年以上におよぶロシアの歴史を、図説を豊富に用いながらわかりやすく解説した作品です。
日本にとってロシアは北方の大国であり、長年にわたって脅威となる存在でした。そのためロシアが大国となる以前のイメージが薄いですが、本作を読むとリューリクによるルーシの建国から、モンゴルの支配下に置かれ、ロシアがどのように大国へと成長していったのかがよくわかります。
なぜロシアでは強権的な支配者が生まれやすく、なぜクリミア半島を編入したのか、なぜシリア内戦に介入するのか……など現在の国際社会で起きている出来事の背景も理解できるはず。壮大な歴史を一冊で知ることができるおすすめの一冊です。