テロリズムの温床、泥沼の紛争地という印象が強いアフガニスタン。一体どのような経緯で争いの場となってしまったのでしょうか。この記事では紀元前からさかのぼり、アフガニスタンの歴史をわかりやすく解説していきます。理解が深まるおすすめの本も紹介するので、あわせて参考にしてみてください。
南アジアにある共和制国家のアフガニスタン。正式名称は「アフガニスタン・イスラム共和国」といい、首都はカブールです。南東でパキスタン、西でイラン、北でタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンと国境を接していて、海には面していない内陸国となっています。
国土面積は日本の約1.7倍の約65万平方キロメートル、人口は約3100万人。人口のうち約45%がパシュトゥーン人で、約30%がタジク人、約12%がハザーラ人、約10%がウズベク人です。公用語はパシュトー語とダリー語が用いられており、そのほか地方言語としてウズベク語、トルクメン語、バローチー語などを話す人もいます。
国民の大多数がイスラム教を信仰していて、約85%がスンニ派、約14%がシーア派です。全体の1%ほどと少数ながらシーク教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒も存在します。
アフガニスタンでは2001年に厳格なイスラム政権だったタリバン政権が崩壊し、カルザイ政権のもとで世俗化が進められ、2004年に新憲法が制定されました。しかしいまだにコーランやシャリーアにもとづく規定が残っていて、大統領もイスラム教徒以外は就任することができません。
またキリスト教に改宗した男性に死刑判決が下されたり、女性の権利改善を訴えた男性が死刑宣告された事例もあり、人権についても問題視されることが多いのが現状です。
中央政府よりも各部族の影響力が強く、不貞行為をした女性がその家族の手で処刑される名誉殺人や、レイプ被害を受けた女性がレイプ犯と結婚させられる事例、小学生ほどの年齢の少女が強制的に結婚させられる事例もたびたびあり、2008年におこなわれた調査では87%もの女性が何らかの暴力被害を受けた経験があることがわかりました。
カルザイ政権と、それに続く2014年からのガニー政権のもとで、女性の教育や労働に対する規制はだいぶ緩められましたが、それでもさまざまな権利が制限されているといえるでしょう。
2020年2月、アメリカ政府とタリバンとの間で和平合意が成立し、5月にはアフガニスタン政府とタリバンとの間でも和平合意が成立しました。しかし各地では武力衝突が起こり、テロ組織の活動も活発です。日本の外務省が発表している危険情報では、アフガニスタン全土に対して「レベル4:退避勧告」が出されています。
現在のアフガニスタンがある地域に人類が住み始めたのは、旧石器時代である紀元前10万年頃のこと。紀元前8000年頃には農業や牧畜がおこなわれ、紀元前6000年頃にはラピスラズリという宝石を産出し、輸出していたことがわかっています。
この場所は、中東、中国、中央アジアを繋ぐ交通の要衝にあり、古くから大国の影響を受けてきた地域でした。紀元前330年にはマケドニア王国のアレキサンダー大王に征服され、ヘレニズム文化が流入。大王の死後はセレウコス朝シリアの支配下に入ります。
紀元前305年にはアフガニスタン東部がマウリヤ朝インドに征服され、仏教が盛んになりました。ほぼ同時期にアフガニスタン北部ではグレコ・バクトリア王国、南部ではアルサケス朝パルティアが興っています。
紀元前1世紀頃には、中央アジアの遊牧民族大月氏傘下の諸侯だったカドフィセス1世がクシャーナ朝を興し、4代目君主のカニシカ1世の時代にはガンジス川中流域、インダス川流域、バクトリアなどを含む大帝国となりました。
ササン朝ペルシア、エフタル、突厥などの支配を受けた後、8世紀の初頭にはアッバース朝の侵攻を受けてイスラム教が流入。9世紀にはイラン系のターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝が興りますが、10世紀末にマーム―ン朝の侵攻を受け、滅亡しました。
1017年にはカブールを首都とするイスラム王朝のガズナ朝がマーム―ン朝を滅ぼし、インドに侵攻。インドにイスラム教が流入するきっかけとなります。12世紀から13世紀にかけて、ガズナ朝はゴール朝に、ゴール朝はホラムズ・シャー朝に滅ぼされ、ホラムズ・シャー朝はモンゴル帝国に征服されました。
モンゴル帝国のもとでチャガタイ・ハン国、クルト朝の支配を受け、1370年頃にはティムール朝の支配下に入ります。1507年にティムール朝が滅亡した後はサファヴィー朝イラン、ムガル朝インド、オスマン帝国による争奪の地となり、特にアフガニスタン第2の都市であるカンダハールは何度も主が変わることになりました。
このような混乱のなか、アフガニスタンの王家が台頭してくるのです。
1709年、イスラム教スンニ派を信仰するパシュトゥーン人の2大部族連合のひとつ「ギルザイ部族連合」に属するホータク族の族長ミール・ワイスが、イスラム教シーア派を信仰するサファヴィー朝イランに対し反乱を起こしました。ホータキー朝カンダハール王国を興します。
この王朝は約30年しか続かない短命だったものの、一時はアフガニスタン、イラン、パキスタン西部、タジキスタン、トルクメニスタンの一部におよぶ広大な領域を支配しました。
1747年には、2大部族連合のもうひとつ「アブダーリー部族連合」に属するサドーザイ族の族長アフマド・シャーが、サドーザイ朝を建国します。
アフマド・シャーは部族連合の名前を「真珠の時代」を意味するドゥッラーニーに変更し、王朝もドゥッラーニー朝と呼ばれるようになりました。続くバーラクザイ朝を興したのも、同じドゥッラーニー部族連合に属するバーラクザイ族出身者だったことから、バーラクザイ朝も含めてドゥッラーニー朝、ドゥッラーニー帝国と呼ぶこともあります。
19世紀に入ると、アフガニスタンの地はイギリスとロシアによる「グレート・ゲーム」の場と化します。バーラクザイ朝は1838年に起こった「第一次アフガン戦争」でイギリスに勝利したものの、1878年の「第二次アフガン戦争」では敗北。イギリスの保護国となりました。
「第一次世界大戦」が終結した1919年、バーラクザイ朝のアマーヌッラー・ハーンが「第三次アフガン戦争」で勝利してイギリスからの独立に成功。1926年に国号をアフガニスタン王国とします。
アマーヌッラー・ハーンは、トルコ共和国を模範に世俗主義・民族主義・共和主義へと改革を推進。また王妃であるソラヤ・タルズィーも女性の地位向上のために動き、夫婦でアフガニスタンの近代化に努めます。しかし、これが保守派たちの反発を招くことになり、イギリスが保守派を支援して改革は頓挫しました。
アマーヌッラー・ハーンに代わって国王に即位したムハンマド・ナーディル・シャーは、イスラム教スンニ派のハナフィー学派を国教に定めますが、今度はこれが少数派であるシーア派の反発を招き、1933年11月に暗殺されてしまいます。
跡を継いだ息子のザーヒル・シャーは、「第二次世界大戦」では連合国、枢軸国のいずれにもつかない中立を保ち、戦後の冷戦下でも東西双方の陣営とバランスをとった外交を展開。1960年代には立憲君主制を導入して、出版や政党設立の自由を認めるなど民主化路線を進めました。
しかしザーヒル・シャーの改革も保守派や親ソ連派の反発を招き、1973年7月、従兄弟のムハンマド・ダーウードによるクーデターで王政が廃止。バーラクザイ朝は滅亡しました。
クーデターで国王を追放したムハンマド・ダーウードは、共和制を宣言し、大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国とします。近代化を図ってソ連に接近し、イスラム教徒を弾圧しました。
しかし徐々にアメリカへも接近するようになっていきます。すると1978年4月、政治家のヌール・ムハンマド・タラキーがを指導者とするアフガニスタン人民民主党が、ソ連の援助を受けてクーデターを起こし、大統領一族を処刑してしまいました。
国名はアフガニスタン民主共和国に変更され、これに反発したイスラム義勇兵たちがアメリカやパキスタンの援助を受けて蜂起。1978年から「アフガニスタン紛争」が勃発します。
1979年にはソ連軍がアフガニスタンに侵攻。紛争は10年続く泥沼と化し、冷戦の終結やソ連崩壊の遠因にもなりました。
1989年にソ連軍が撤退した後、アフガニスタンでは、ソ連の援助を受けるムハンマド・ナジーブッラー大統領が率いる「人民民主党政府」、パシュトゥーン人主体の「ヘクマティヤール派」、タジク人主体の「イスラム協会」、ハザーラ人主体のシーア派勢力「イスラム統一党」による紛争が続いていました。
このなかで台頭してきたのが、タリバンです。
タリバンはアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」の複数形。「マドラサ」と呼ばれるイスラム神学校で軍事的・神学的な教育を受けた生徒で構成されています。1994年に創設された比較的新しい組織で、創始者のムハンマド・オマルはもともとマドラサの教師でした。
ある日、オマルの夢に預言者ムハンマドが現れ、「武装蜂起し、味方を助けよ」と告げたことをきっかけに、30人ほどの教え子とともにタリバンを結成したそう。当初はライフル16丁だけの貧弱な武装しかありませんでしたが、軍閥に誘拐された少女を救出するなどして人々からの支持を集め、1995年には国内第3の都市ヘラートを、1996年には首都カブールを占領。「アフガニスタン・イスラム首長国」を建国するまでの勢力を築きます。
タリバンはイスラム教の教えを厳格に適用し、服装の規制、音楽や写真など娯楽の禁止、女子教育の禁止など極端な政策を実施。国際社会から批判を受けますが、パキスタンの情報機関であるISIやサウジアラビアの情報機関であるGIPの支援を受けながら勢力の拡大を続けました。
2000年頃には、ブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領、アフマド・シャー・マスードを軍事指導者とする「アフガニスタン・イスラム国(通称:北部同盟)」の支配地域を除いた、国土の9割ほどを支配します。
また、1996年頃には数々のテロ行為の首謀者と考えられていたウサマ・ビン・ラディンなどアルカイダの幹部を客人として受け入れ、国内にテロリストを育成する訓練キャンプを設置。国連安全保障理事会からはテロ行為防止のためにアルカイダ幹部の引き渡しが要求されますが、拒否しています。
その結果、国際社会から経済制裁がおこなわれることになりますが、麻薬の密輸などを通じて資金を獲得して対抗しました。2000年頃、アフガニスタン産のケシは世界の生産量の75%を占めていたそうです。
2001年9月11日、「アメリカ同時多発テロ事件」が起きた際も、タリバンはアルカイダ幹部の引き渡しを拒否。アメリカは有志連合諸国や北部同盟と連携してアフガニスタンを攻撃し、タリバン政権が崩壊することになりました。
暫定政権による統治の後、2004年にハミード・カルザイを首班とするアフガニスタン・イスラム共和国が成立します。
しかしタリバン政権幹部の多くは戦場を離脱し、アフガニスタン南部やパキスタンとの国境地帯に潜伏していて、2013年にムハンマド・オマルが死亡した後も即席の爆発装置などを駆使して政府軍や国際治安支援部隊を攻撃しています。
2019年の時点で、アフガニスタン国土の約46%を影響下に置くまでに勢力を回復させているそうです。
- 著者
- 中村 哲
- 出版日
長年にわたり紛争が続いているアフガニスタンで、約30年間も支援活動を続けた日本人の医師がいます。人々を治療し、1600もの井戸を掘り、10万人が利用できる長さ25kmの用水路を作りました。本作は、当事者である中村哲が、「天」と「縁」をキーワードに自身の半生を振り返った作品です。
なぜ彼が医療活動だけでなく、井戸や用水路の建設に力を入れたのか、その理由がよくわかるでしょう。現地の状況がつぶさに記され、荒れた土地が少しずつ開発されていく様子は目を見張ります。
2019年、正体不明の武装組織に襲撃され亡くなったという報道は日本にも衝撃を与えましたが、彼の功績を知るうえでも、アフガニスタンのリアルな実情を知るうえでも、読んでおきたい一冊です。
- 著者
- ["ローリー スチュワート", "Stewart,Rory", "園子, 高月"]
- 出版日
イギリスの元外交官である作者が、タリバン政権崩壊直後の冬にアフガニスタン西部の都市ヘラートから首都カブールまで、36日間かけて歩いた旅の記録です。
旅のお供は、オオカミ避けの番犬のみ。ムガル帝国の初代皇帝にちなんで「バーブル」と名付けられています。彼らが辿った道はかつて皇帝バーブルがこの地を征服した際に通った道であり、またタリバンがアフガニスタンを制圧する際に通った道でもありました。
凍傷や飢餓、さらにはスパイ疑惑など、旅は常に死と隣り合わせ。そんななか、戦乱の爪痕がそこかしこに生々しく残るアフガニスタンの現実が迫ります。歴史と今を感じられる、おすすめの一冊です。