5分でわかるクウェートの歴史!宗教、石油問題、イラクのクウェート侵攻などを簡単に解説

更新:2021.11.23

ペルシア湾の湾岸にある小さな国、クウェート。巨大な油田があり、現在は石油産業で経済が成り立っています。一方で「湾岸戦争」の要因がイラクによるクウェートへの侵攻だったことも有名で、これまで数多くの危機にさらされてきました。この記事では、クウェートがどのような歴史をたどってきたのか、わかりやすく解説していきます。

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クウェートってどんな国?人口、宗教、治安、女性の権利など

 

中東にある「クウェート国」。日本では通称クウェートと呼ばれています。首都も国名と同じクウェート市、アラビア語で「小さな城」という意味です。

首長を国家元首とし、憲法で立憲君主制国家と定められていますが、内閣の要職は首長家であるサバハ家にほぼ独占されている事実上の絶対君主制国家。サバハ家にはジャービル家とサーリム家という2つの分家があり、交互に首長を輩出してきました。2006年にジャービル家のサバハ4世が即位してからはサーリム家の勢力が衰え、ジャービル家の独占状態が続いています。

クウェートの国土面積は約1万8000平方キロメートル。四国とほぼ同じ程度です。国土のほとんどが砂漠気候で、山地や丘陵はなく、平坦な土地です。年間を通じて降水はほとんどなく、特に夏季には猛烈な暑さと砂嵐が頻繁に起こり、湿度の高い沿岸部では蒸し風呂状態になることも少なくありません。

人口は約475万人。約45%がクウェート人、約35%がクウェート以外のアラブ人、約10%がインド人、約4%がイラン人とされています。ただ人口のうちクウェートの国籍を有している人は4割ほどしかおらず、残りの半数以上が外国人労働者です。また「ビドゥーン」と呼ばれる無国籍の人々も少なくありません。

公用語はアラビア語。英語も一般的に用いられています。

サバハ家を含む国民の約60%がイスラム教スンニ派で、約25%がイスラム教シーア派、約15%がキリスト教やヒンドゥー教の信者です。

GDPは約1400億ドル、ひとりあたりに換算すると3万ドルを超え、世界でも上位に入っています。世界一富裕層が多い国ともいわれている一方で、外国人労働者やビドゥーンの地位は低く、クウェート人との間には大きな経済格差があるのが現状です。

イスラム教の戒律にのっとり、飲酒などは禁止されています。また食堂やバスの待合所などは男女別です。ただ服装の規定などは他の中東の国々に比べると緩く、教育や労働も許容されていて、社会の第一線で活躍している女性もいます。2005年には女性にも参政権が与えられ、2009年の国民議会選挙では4人の女性議員が誕生しました。

その一方で、メイドなどの家事労働者に対しては法規が適用されておらず、フィリピンなどから出稼ぎにきた家事労働に従事する女性への虐待や性暴力が頻発し、国際的にも問題視されています。

治安はある程度安定していて、日本の外務省が発表している危険情報は「レベル1:十分注意してください」となっています。車社会のクウェートでは運転マナーの悪さから交通事故が頻発していて、テロよりも車の事故に気をつけたほうがよいかもしれません。

また路上で女性に声をかける、いわゆるナンパ行為が盛んです。特に未婚の外国人女性は狙われやすいため、ダミーの婚約指輪を身につけるなどの自衛手段を講じる必要があります。

クウェートの歴史をわかりやすく解説!オスマン帝国とザバハ家の支配

 

クウェートの沖合には9つの島があります。そのひとつであるファイラカ島には、メソポタミア文明やアレキサンダー大王にまつわる遺跡があり、古代から中東とインドを結ぶ交易地として栄えてきたことがわかるでしょう。3世紀から7世紀のササン朝ペルシア時代に、ペルシア、インド、ギリシアなど各地の民話を集めて編纂された『千夜一夜物語』に登場する「船乗りシンドバッド」の舞台だともいわれています。

クウェートの地は16世紀頃にオスマン帝国の統治下になり、同時期にペルシア湾に進出したポルトガルもこの地に小さな城を築きました。これが「クウェート=小さな城」という国名の由来になっています。

18世紀、アラビア半島で人口の増加が起こると、半島中央部のネジド地方にいたアナイザ族の一部が、同じアナイザ族のサウード家(現在のサウジアラビア王家)から追われてクウェートに移住しました。彼らはペルシア湾やインド洋を用いた交易で勢力を増し、1716年頃には現在のクウェート市の起源となる都市を建設しています。

1756年にはアナイザ族の一派であるバニー・ウトバ族のサバハ家当主サバハ1世が、クウェート商人による選挙で首長に選ばれ、オスマン帝国との交渉役を担うことになりました。1871年には第4代首長のアブドゥッラー2世がオスマン帝国から総督の称号を与えられ、以降オスマン帝国の支配下でサバハ家がクウェートの支配をすることになるのです。

クウェートの歴史をわかりやすく解説!イギリスの支配と石油産業

 

第2代首長アブドゥッラー1世の頃、ペルシア湾にイギリスの東インド会社が進出し、貿易や造船を通じてサバハ家と親密な関係を築きました。

サウード家が建国した、現在のサウジアラビアの起源ともされる第一次サウード王国がクウェートに侵攻した際には、インド会社が軍艦やインド兵、銃火器を送り込み支援したことで、侵攻軍を撃退しています。

19世紀に入ると、徐々にオスマン帝国による支配に綻びが出て、第7代首長ムバラク1世はイギリス側に寝返ることを決断。1899年にイギリスの保護領となり、「第一世界大戦」後にはイラクとともにイギリスの植民地になりました。

1930年代になると、深刻な経済危機に見舞われます。その原因は日本でした。従来、クウェートの主要産業は天然真珠の交易でしたが、日本の御木本幸吉が真珠の人口養殖技術の開発に成功し、日本製の高品質な真珠が市場を席捲。クウェートの天然真珠が駆逐されてしまったのです。

すると第10代首長アフマドは、イラクやバーレーンなどの周辺国で相次いで発見されていた油田に着目。資源探査の権利をアメリカ系のガルフ石油とイギリス系のクウェート石油に付与し、クウェート石油が1938年にブルガン油田を発見しました。

ブルガン油田は、原油埋蔵量が約700億バレルと世界第2位を誇るまでになり、クウェートの主要産業は石油となりました。

クウェートの歴史をわかりやすく解説!独立とイラクのクウェート侵攻

 

1961年、クウェートはイギリスから独立をします。石油産業からもたらされる莫大な国家収入は、産業基盤の整備や福祉教育制度の充実、国民の大半を占める国家公務員あるいは国営企業の社員たちへの給料という形で国民に還元され、言論や表現の自由はないものの高い経済成長を実現することに成功しています。

一方で隣国のイラクは、一貫してクウェートはイラクの一州であるという主張を崩していません。アラブ諸国の賛同を得られなかったため頓挫していますが、イラクの初代首相アブドルカリーム・カーシムはクウェートへの侵攻も計画していました。

1979年以降、イラクの実権を掌握したサダム・フセインは、イスラム革命で誕生したシーア派のイランと「イラン・イラク戦争」をおこないます。この時、イラクと同じスンニ派であるクウェートは、サウジアラビアとともに総額300億ドルもの援助をしました。イラクはこの資金で最新鋭の武器を買い揃え、強大な軍事国家となります。

「イラン・イラク戦争」が終結した後、経済復興のために石油価格を引き上げようとするイラクと、薄利多売による利益の確保を優先するクウェートとの間で意見が衝突。1990年、イラク軍がクウェートに侵攻し、併合しました。サバハ家の人々はサウジアラビアに逃れ、亡命政府を作ります。

するとイラクによるクウェート侵攻に対し、国際連合の認可のもと、34ヶ国で構成される多国籍軍が発足。アメリカを中心とした西側諸国だけでなく、サウジアラビアを盟主とする湾岸諸国、エジプトを盟主とするアラブ諸国、ソ連を盟主とする東側諸国も加わりました。

1991年1月17日、多国籍軍がイラクへの攻撃を開始。2月27日にクウェートをイラクによる支配から解放し、2月28日に戦闘は終結しました。

湾岸諸国から大量の原油を輸入していた日本は、国際社会から戦費の拠出と共同行動を求められますが、憲法の制約や「イラクによるクウェート侵攻は正当な領土回復行為」とみなす人も少なからずいて、反戦デモが展開されたため対応が遅れます。

結果として計135億ドルの資金を拠出しましたが、額が少なかったこと、対応が遅かったこと、さらに人的支援をしなかったことから避難されました。

戦後、クウェートがワシントンポスト紙に掲載した感謝広告にも日本の名はなく、この出来事は「湾岸ショック」と呼ばれています。これを受けて日本は、1992年に「PKO協力法」を成立。国連やそのほかの国際機関がおこなう人道的な救援活動に参加するようになるのです。

現地の様子がよくわかる滞在記

著者
辻原 恵里子
出版日

 

国土交通省の官僚で、2012年から2015年までクウェート特命全権大使を務めた辻原俊博の妻が、現地での生活をまとめた滞在記です。衣食住や宗教、現地の人との交流、大使館や大使公邸での活動が活き活きと綴られています。作者自身が撮影した写真も170枚載っていて、現地の様子がありありとわかるでしょう。

辻原が赴任していた3年間は、「アラブの春」をきっかけに「シリア内戦」やISILとの戦いが激化していた時期。クウェート自体は比較的平和であったとはいえ、日本とはまるで異なる状況だったこともわかります。

クウェートをはじめとするイスラム側から見た世界史とは

著者
["タミム・アンサーリー", "小沢千重子"]
出版日

 

一般的な「世界史」とは、世界の歴史ではなくヨーロッパの歴史を意味することが往々にしてあります。ヨーロッパから見た場合、イスラムは異教徒の侵略者であり、レコンキスタ屋や十字軍に象徴されるように排除すべき敵。あるいは植民地として支配し、指導するべき未開の民という認識です。

しかしイスラム側から見れば、クウェートにやってきたポルトガルやイギリスに代表されるように、ヨーロッパこそが異教徒の侵略者にほかなりません。

本書は、アフガニスタン出身でサンフランシスコ在住の作者が、イスラムから見た世界史をまとめたもの。日本人にとっても、ヨーロッパとイスラム双方の視座を養うことは大きな意味があるはず。これまで知らなかった世界史を知れる一冊です。

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