世界遺産ペトラ遺跡を有する中東の国ヨルダン。一体どんな国なのか、想像すらつかない方も多いのではないでしょうか。この記事では古代から近現代までの歴史を、独立の経緯や隣国イスラエルとの関係なども含めてわかりやすく解説していきます。
中東にある立憲君主制国家のヨルダン。正式名称は「ヨルダン・ハシミテ王国」といいます。
首都は、古代にはフィラデルフィアと呼ばれていたアンマン。イスラム教創始者であるムハンマドの従弟アリーと、ムハンマドの娘ファーティマ夫妻を始祖とするハーシム家出身の者が王位を代々継承しているのが特徴です。
イスラエル、パレスチナ、シリア、イラク、サウジアラビアと国境を接していて、西端にあるヨルダン渓谷を除き、国土の大半は標高300m以上に位置しています。また東部には乾燥した森林高原が広がり、西部にはヨルダン川が流れ、南西端には細長いアカバ湾があります。国名はこのヨルダン川に由来していて、古くは聖書にも登場するそうです。
国土面積は日本の4分の1ほどの約9万2000平方キロメートル。人口は約1000万人。国土のおよそ8割が砂漠地帯に属していますが、標高が高いため夏の平均気温も30度ほどにとどまります。冬の気温は1度前後まで下がり、首都アンマンでも雪が降るそうです。
人口のほとんどはアラブ人で、そのほかアルメニア人、チェチェン人、チェルケス人、アヴァール人、アディゲ人、アブハズ人などが暮らしています。近年はパレスチナやシリアからの難民も増え、人口の3割がヨルダン国籍をもっていないそうです。
公用語はアラビア語。宗教はイスラム教スンニ派が9割以上を占めています。
GDPは約420億ドル。経済を支えているのは農業と牧畜業、天然資源です。石油はほとんど算出しておらず、リン鉱石と天然ガスが主要な資源になっています。
ヨルダン国内には、ペトラ遺跡をはじめ、死海、アムラ城、「月の谷」など人気の観光地も多く、近年では外国人旅行客も増えているそう。中東のなかでは治安も比較的安定していて、規律が緩いことも観光のハードルを下げています。
ただ近隣国の情勢は不安定で、テロ事件も少なくありません。日本の外務省が発表している危険情報では、シリアとイラクの国境地帯に「レベル2:不要不急の渡航は止めてください」が出されています。そのほかの地域は「レベル1:十分注意してください」です。
現在のヨルダンがある地域に人が暮らしはじめたのは、約50万年前の旧石器時代からだといわれています。紀元前8000年頃には農業がおこなわれるようになり、エジプトやアッシリア、バビロニア、ペルシアなど西アジア各地に文明が興ると交易の中継地として栄えました。
『旧約聖書』の記述によると、紀元前13世紀頃からはエドム王国やアンモン王国、ギレアド王国、モアブ王国など複数の国の狭間で栄枯盛衰をくり返したそう。それらの国のなかには新・世界七不思議のひとつに数えられるペトラ遺跡を残したナバテア王国もありました。
1~2世紀頃にはローマ帝国に併合され、7世紀にはアラビア半島で興ったイスラム帝国の支配下に入り、イスラム化します。
ウマイヤ朝の時期にはアラブ人が優遇されたため、経済的恩恵を受けて発展。壮大なムシャッタ宮殿が築かれました。しかし750年にウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされたことで、未完成のまま放棄されることになります。
アッバース朝はバグダードに首都を置き、ウマイヤ朝がアラブ人に与えていた特権を否定。すべてのムスリムに平等な権利を認めます。ヨルダンは衰退し、この間に十字軍が侵攻。一時的にキリスト教色が強くなったそうです。
その後アッバース朝は、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされ、ヨルダンはマムルーク朝の支配を経て、1517年にオスマン帝国の支配下に入ります。しかし砂漠地帯が広がるヨルダンは人口希薄地帯としてなかば放置されることに。再びこの地が活気づくのは、19世紀以降になります。
人口希薄地帯として放置されてきたヨルダンが活気づくきっかけになったのが、19世紀にチェルケス人が流入したことです。
チェルケス人はコーカサス地方出身の人々で、イスラム教スンニ派を信仰していました。男性は勇敢さで、女性は美しさで知られ、15世紀以降は上級兵士や有力者のハーレム要員としてイスラム界で重宝されてきた歴史をもちます。サファヴィー朝のアッバース2世やオスマン帝国のスレイマン1世など、チェルケス人の血を引く君主も少なくありません。
また彼らは、黒海の東北沿岸部にチェルケシアという独立国をもっていました。18世紀後半以降、このチェルケシアに対して南下政策を掲げるロシアが侵攻をくり返し、国は滅亡。数十万人が命を落とし、残った人々は追放されていたのです。
国を追われた人々の多くはオスマン帝国へと逃れ、一方のオスマン帝国側は勇敢で戦闘経験も豊富な彼らをヨルダンなど国境地帯に住まわせることで、防衛力を高めようとしました。
第一次世界大戦が終わると、敗れたオスマン帝国は解体され、ヨルダンはイギリス委任統治領パレスチナに組み入れられます。しかしアラブ人は、イギリスとの間に戦争協力の見返りとしてアラブ人地域の独立を認めるという主旨の「フサイン=マクマホン協定」を締結していました。
この協定にもとづき、イギリス委任統治領パレスチナの一部が分割されて、「トランスヨルダン王国」が建国。初代国王には、協定の当事者であるフサイン・イブン・アリーの次男アブドゥッラー1世が即位します。
ただ建国はされたものの、実際にはイギリス委任統治領パレスチナを統治する高等弁務官が管轄する保護国という扱いで、完全に独立をしたのは第二次世界大戦後の1946年のこと。その後、1949年に現在の「ヨルダン・ハシミテ王国」と国名が変更されました。
1948年5月14日、イギリスによるパレスチナ委任統治が終了し、ユダヤ人国家イスラエルの建国が宣言されます。
これに反発したヨルダン、レバノン、シリア、イラク、エジプトなどアラブ連盟5ヶ国が宣戦布告。翌日には侵攻が始まり、「第一次中東戦争」が勃発しました。
イスラエル側からすればヨーロッパの迫害から逃れて自らの故郷を作るための「独立戦争」ですが、アラブ側からすれば長年暮らしてきた土地を奪われてしまうもの。アブドゥッラー1世は「全アラブ軍最高司令官」となり、イギリスとともに精鋭部隊を率いて、エルサレム旧市街とヨルダン川西岸地区を占領。ヨルダン領に編入します。
しかしアブドゥッラー1世本人は、ユダヤ人のシオニスト運動を歓迎していたともいわれていて、1923年には1928年にはシオニスト運動の指導者だったハイム・ヴァイツマンと会見しています。
ハイム・ヴァイツマンはイスラエル建国時に初代大統領となった人物で、両者は戦時中も秘密裏に外交交渉をしていました。しかしその事実が露見し、アブドゥッラー1世は1951年のエルサレム訪問中に、過激派の人物によって暗殺されてしまうのです。
ヨルダンの第2代国王に即位したタラール1世は、大のイギリス嫌いだったそう。その結果、わずか1年ほどで退位して、長男のフセイン1世が16歳で第3代国王になりました。そこから約46年間、王位に君臨します。
1967年に開戦した「第三次中東戦争」ではアラブ側で参戦。1970年には「パレスチナ解放機構」の排除を命じて「ヨルダン内戦」を引き起こし、1991年の「湾岸戦争」では西側諸国から求められた参戦を拒絶し、アラブ諸国との関係も悪化していきます。
一方で1970年代からイスラエルと秘密交渉を続け、1994年には「イスラエル・ヨルダン平和条約」を締結。長らく続いた戦争状態に終止符を打ちました。物議を醸すことも多かったものの、ヨルダン経済は発展し、国際的な存在感も高まり、国民からの支持もあつい国王だったそうです。
1999年に病気のため崩御し、王位は長男のアブドゥッラー2世が継承しています。
- 著者
- 池上 彰
- 出版日
2050年頃に世界の人口は100億人を超え、イスラム教徒はその3割を占める約30億人になると予想されています。本書は、そんなイスラムの世界についてまとめたものです。
彼らの基盤となるコーランや、日々の生活、文化など基礎的なこともちろん、キリスト教やユダヤ教と切っても切れない関係であること、中東問題など発展的な内容もわかりやすく解説されています。
多くの日本人にとって、イスラム世界は遠い国のこと。ましてやヨルダンのように比較的政情が安定していて、石油も産出していない国はニュースですら耳にすることが少ないでしょう。本書は、フリージャーナリストとして知られる池上彰が高校生におこなった講義がもとになっているので、初心者でも十分に理解できるおすすめの一冊です。
- 著者
- 健太郎, 水内
- 出版日
ヨルダンについてほとんど知らなくても、イラクやシリア、イスラエル、パレスチナに囲まれた国と聞くと「危険」という印象を抱いてしまうのではないでしょうか。本書は、実際にヨルダンで暮らした作者が、生活して感じたことをまとめたものです。
記録されているのは2003年から2005年の出来事なので、現在では変わってしまった部分もありますが、ヨルダン人の男性がこよなくスイーツを愛していること、おしゃれな女性が多いこと、道に迷っている人がいたら案内せずにはいられないほど親切な性格をしていることなど、国民性は十分に伝わる内容です。紛争が身近であるからこそ、平和を願う気持ちも人一倍強いこともわかります。
ヨルダンに関する書籍が少ないなか、豊富な写真とともに現地の様子を知れる貴重な一冊だといえるでしょう。