近い将来、中国を抜いて世界一の人口大国になると目されているインド。一体どんな歴史を歩んできたのか、古代から植民地時代を経て、独立、近代化を果たすまでの流れをわかりやすく解説していきます。
インド亜大陸のほとんどを領有する連邦共和制の国家、インド。首都は内陸部にあるニューデリーで、最大の都市はアラビア海に面したムンバイです。
パキスタン、中国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接していて、西でアラビア海、東でベンガル湾、南でインド洋に接しています。
国土面積は日本の約8.6倍の約328万7000平方キロメートル。世界第7位の広さです。人口は2019年の時点で約13億9000万人と、中国に次ぐ世界第2位となっています。中国の出生数が減少しつつあるのに対し、インドは年間で2500万人以上の子どもが生まれていて、この状況はしばらくは継続すると考えられているため、2027年頃には世界第1位の大国になる見込みです。
多種多様な民族が暮らしているのが特徴で、大きく分けるとインド・ヨーロッパ語族、ドラヴィダ語族、オーストロアジア語族、モンゴロイド系の4つ。公用語はヒンディー語ですが、各地方や各民族によってそれぞれの言語が用いられていて、インド人同士でも意思疎通ができないことがあるんだとか。各地で使用されている言語の数は800以上とも1600以上ともいわれています。
宗教は約80%がヒンドゥー教徒で、約13%がイスラム教徒、約2.3%がキリスト教徒、約2%がシーク教徒、約0.8%が仏教徒、約0.4%がジャイナ教徒です。
インド人は、華僑、ユダヤ人、アルメニア人に並ぶ「世界四大移民集団」と呼ばれ、インド系移民のことを印僑(いんきょう)ともいいます。彼らは宗主国がイギリスだったことから世界各地の英語圏に移住。それとともにインドの文化も世界に拡散しました。
特にインド料理は、フランス料理やイタリア料理、中華料理、和食と並ぶ世界的な料理へと発展しています。
またインドで発展した哲学や文学も、世界に大きな影響を与えました。近年では映画産業も盛んで、特にムンバイでは、旧名のボンベイとアメリカのハリウッドにちなんで「ボリウッド」と呼ばれるほど多くの作品が作られています。
スポーツではイギリス発祥のクリケットが人気。現代のインド文化でもっとも重要だといわれていて、インド代表は世界屈指の強豪チームとなり、ワールドカップでは2度の優勝を果たしています。
インド国内の治安はいいとはいえません。都市部では窃盗や詐欺、睡眠薬を用いた強盗、強姦などの犯罪が頻発しています。また地方にはインドからの分離独立を目指す勢力も複数あり、テロ活動も活発です。さらに中国やパキスタンとの間には領有権や水資源を巡って争いが起きていて、2020年6月にはインド軍と中国軍が衝突。双方に死者が出る事態になりました。
日本の外務省が発表している危険情報では、ジャンム・カシミール州に「レベル4:退避勧告」、北東部諸州に「レベル2:不要不急の渡航は止めてください」が出されていて、緊張した状況が続いています。
インドの古代文明というと、「インダス文明」と「ガンジス文明」が有名です。
インダス文明は紀元前2600年頃からインダス川流域で栄えたもの。現在はその流域の9割以上がパキスタンに属しています。どのような民族が作った文明なのかはわかっていませんが、焼き煉瓦を用いて街路や用水路、浴場を整備するなど整然とした都市が築かれていました。紀元前2000年頃から衰退しますが、衰退の原因もわかっていません。
紀元前1500年頃、現在のアフガニスタン周辺から、バラタ族やトリツ族というインド・アーリア系の諸部族が移住してきました。紀元前1200年頃に部族間で勃発した「十王戦争」の結果、バラタ族が先住民であるプール族などを圧倒。同時期にバラタ族はプール族から農耕技術などを学び、それまでの遊牧民の生活から農耕生活へと移行しました。
古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』はこの頃に編纂されたと考えられていて、そのためこの時代は「前期ヴェーダ時代」と呼ばれています。
紀元前1000年頃になると、バラタ族はインド亜大陸の北東部を流れるガンジス川流域へと進出し、本格的な農耕社会を構築しました。これが「ガンジス文明」で、「後期ヴェーダ時代」といわれるものです。
農耕技術の発展は余剰生産物を生み出し、生産物をやり取りするなかで商工業が発展。さまざまな勢力が16の国家となり、互いに競いあうようになりました。
紀元前5世紀頃には、バラモン教やジャイナ教、アージーヴィカ教、仏教のいわゆる「インド四大宗教」がほぼ同時に誕生。16の大国による争いはアケメネス朝ペルシアのダレイオス1世やマケドニア王国のアレキサンダー大王による侵攻を受けながらも継続し、やがてマガダ国とコーサラ国の2強に絞られます。最終的にはマガダ国がコーサラ国を倒して決着しました。
紀元前317年頃には、チャンドラグプタがマウリヤ朝マガダ国を建国。第3代アショーカ王の時代にはインド亜大陸のほぼ全域を支配し、インド初の統一王朝が誕生するのです。
アショーカ王のもとで官僚制や属州が整備され、ローマ帝国や秦と肩を並べる帝国が形成されていきます。しかし紀元前232年頃にアショーカ王が亡くなると、マウリヤ朝マガダ国は政治的混乱によって急速に弱体化し、滅亡してしまいました。
1世紀後半、中央アジアにある大月氏の諸侯だったクシャーナ朝が、インダス川流域に進出。現在のペシャーワルを都にします。クシャーナ朝は中国とローマを結ぶ交通路の要地にあり、仏教文化とギリシア美術が融合した「ガンダーラ美術」を成立させるなど大いに栄えましたが、3世紀頃にはササン朝ペルシアの遠征を受けて衰退し、滅亡しました。
いまだに政治的混乱が続いていたガンジス川流域では、320年頃にチャンドラグプタ1世がグプタ朝を建国。第3代チャンドラグプタ2世の時代に約600年ぶりに北インドの統一に成功します。しかし長続きせず、550年には中央アジアの遊牧民国家エフタルによって滅ぼされました。
不安定な状況が続く一方で、この時代は「インド古典文化の黄金期」ともいわれていて、インド二大叙事詩とされる『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』や、バラモン教から発展したヒンドゥー教の二大聖典『マヌ法典』『ヤージュニャヴァルキヤ法典』が作られています。
また仏教も大きな力をもっていて、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院、『西遊記』で有名な玄奘三蔵が学んだことでも知られるナーランダー僧院などが建てられました。医学、天文学、数学なども発展し、「ゼロ」が発見されたのもこの頃だといわれています。
1206年からおよそ300年間は、デリーを都にする5つのイスラム王朝が相次いで建国されました。この5つをまとめて「デリー・スルターン朝」といい、北インドは徐々にイスラム化していくことになります。一方で南インドでは、ヒンドゥー教を国教とする諸王朝が栄枯盛衰をくり返しました。
1526年、中央アジアにあるティムール帝国の一族であるバーブルが北インドに侵攻。デリー・スルターン王朝の最後の君主イブラーヒーム・ローディーを破って入城し、ムガル帝国を建国します。
第3代皇帝のアクバルは、ヒンドゥー教徒だった王国の君主ビハーリー・マルの娘と結婚し、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和を図りました。統治機構を確立し、帝国財政を安定させ、ヨーロッパ諸国との交易も盛んになります。
第5代皇帝のシャー・ジャハーンの時期にムガル帝国は最盛期に。彼が亡き妻の霊廟として建設したのが、インドを代表する建築物のタージ・マハルです。
インド亜大陸に最初に到達したヨーロッパの国はポルトガルです。1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えて、カリカットに到達しました。1510年頃にはゴアに拠点を構え、東洋におけるキリスト教の布教と貿易を推進します。1580年にはポルトガルがスペインに併合され、その利権もスペインに継承されました。
しかし17世紀になると、スペイン、ポルトガル両国の勢力が衰え、代わってオランダとイギリスが勢力を増し、インド亜大陸ではオランダ東インド会社とイギリス東インド会社がしのぎを削ることになります。
特に「キャラコ」と呼ばれるインド産の手織りの綿布がヨーロッパで大流行し、利権を巡ってオランダとイギリスは三次にわたる「英蘭戦争」をおこないました。結果的に敗れたオランダは、インドの根拠地を次々に失い、イギリスは従来のマドラスに続いて、ボンベイ、カルカッタを獲得します。
またこの間にフランスもインドへの進出を図っていて、フランス東インド会社がシャンデルナゴル、ポンティシェリーを獲得。イギリスとフランスは18世紀になると世界各地で衝突を起こしますが、インド亜大陸においても1757年にベンガル地方のプラッシーで激突。ここでも勝利したイギリスが、覇権を確立します。
イギリス東インド会社は、「マイソール戦争」「マラーター戦争」「シク戦争」などを経てインドを支配し、お茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大させて貿易を独占しました。インドを経済的にも支配していきます。
するとインド国内ではイギリスに対する反感が高まり、1857年には「セポイの反乱」が勃発。これを鎮圧したイギリスは、ムガル皇帝を廃し、イギリス東インド会社による間接統治からイギリス本国が派遣するインド総督による直接統治へと切り替えました。
1877年にはイギリスのヴィクトリア女王がインド女帝を兼任する「イギリス領インド帝国」が成立します。イギリス領インド帝国は直轄州と552におよぶ藩王国で構成され、インドで生み出された富が7つの海を支配するといわれる大英帝国を支えることになるのです。イギリス領インド帝国は「イギリス国王の王冠にはめ込まれた最大の宝石」と呼ばれるようになります。
インドがイギリスから独立するうえで重要な役割を果たしたのが、「インド国民会議派」です。もともとはインド人の知識人層を懐柔するために、1885年にイギリスが設けた諮問機関で、ヒンドゥー教徒の地主や官吏を中心とする穏健な人々の集まりでした。
インド国民会議が設置された背景には、民族運動が高まるなかで反英闘争が激化していたことがあります。これに対し、イギリスのインド総督カーゾン卿は、特に民族運動が盛んだったベンガル地方を分割する「ベンガル分割令」を出して対処しようとしました。
しかしかえって反英闘争を激化させることになり、インド国民会議派も急進派が主導権を握る事態に。1906年には「英貨排斥」「民族独立」「国産品愛用」「民族教育」を定めた「四大綱領」が採択され、インド国民会議派は民族主義政党へと姿を変えます。
するとイギリスは、インドが独立した場合に、人口が少ないため苦しい立場に置かれるであろうイスラム教徒を味方にしようと、親英的組織として「全インド・ムスリム連盟」を発足させて対抗しました。
1914年に勃発した「第一次世界大戦」では、インドは食料をはじめとする軍事物資や戦費、兵力の供給元となり、財政状態が極度に悪化。見返りは将来の自治の約束で、これを信じたマハトマ・ガンディーらはイギリスへの協力を人々に促したといいます。
しかし戦争が終わっても約束は果たされず、さらにアメリカのウィルソン大統領らが「民族自決」の理念を掲げたこともあり、再び反英闘争が激しくなっていきました。親英的組織の「全インド・ムスリム連盟」も、イギリスが同じイスラム教国であるオスマン帝国と戦ったことに反発し、反英闘争へと舵を切ります。
これに対しイギリスは、出版物の検閲や令状なしの逮捕、裁判なしの投獄を容認する「ローラット法」を成立させて弾圧。非武装の群衆に対して治安部隊が無差別射撃をした「アムリットサル事件」も起きました。
マハトマ・ガンディーは、イギリスに協力して自治を獲得する路線を捨て、「不服従運動」を展開します。イギリス製品の着用をやめ、インド製品の着用を訴える「インドの糸車を廻すガンディー」や、イギリスの塩税に抗議した1930年の「塩の行進」などが有名です。
不服従運動に数百万人が参加するようになると、イギリスも対応を変えざるを得なくなり、1935年に「新インド統治法」を発布。各州の自治拡大を認めます。しかし今度は、統治の方針を巡ってインド国民会議派と全インド・ムスリム連盟の関係が悪化していきました。
「第二次世界大戦」が起こると、インド国民会議派から決裂した急進派のチャンドラ・ボースが、日本の援助でインド国民軍を結成。独立を目指しましたが、日本軍のインパール作戦失敗などで果たされることはありませんでした。
戦後のイギリスは、戦争には勝利したもののインドを植民地として統治する力は残っておらず、独立を認めることに。ただインド国民会議派と全インド・ムスリム連盟の対立は収拾されず、1947年8月15日に分離独立の道を選びました。インド国民会議派がインドに、全インド・ムスリム連盟派がパキスタンになります。マハトマ・ガンディーは最後まで分離独立に反対し、1948年1月に暗殺されています。
インドの初代首相にはインド国民会議派の議長だったジャワハルラール・ネルーが就任。東西冷戦の時代にはどちらの陣営にも属さない「非同盟運動」を提唱し、政治は民主主義を、経済は社会主義を推進して、インドの近代化に尽力しました。
1974年、インドは核実験を成功させて世界で6番目の核保有国となります。国際社会において大きな存在感を示すようになり、特に2000年以降の経済的発展は目覚ましく、ブラジルやロシア、中国とともに「BRICs」と呼ばれるようになりました。
- 著者
- ["関口 真理", "中島 岳志", "辻田 祐子", "三輪 博樹", "繁田 奈歩"]
- 出版日
急速に人口が増加しているインドですが、ただ多いだけではなく平均年齢が25歳ほどと若いのも特徴で、21世紀はインドの世紀になるともいわれています。
本書は、そんなインドのビジネス面に焦点を当てて解説したものです。経済、税制、政治、外交だけでなく、彼らが築いてきた歴史や文化、人生観、マナーなど、知っておきたい情報が盛りだくさんです。
経済的に発展したことで、インドに進出する企業はもちろん、インド人とともに働く日本人も増えました。実用的な本書が役に立つでしょう。