5分でわかる徳川斉昭の生涯!弘道館の設立、井伊直弼との対立、安政の大獄など

更新:2021.9.10

荒々しい気性で幕末を生き抜き、「烈公」と呼ばれた徳川斉昭。最後の将軍である徳川慶喜の父親として有名ですが、彼自身はどのような生涯を送ったのでしょうか。この記事では、弘道館の設立や井伊直弼との対立、「安政の大獄」などを通じて徳川斉昭をわかりやすく解説していきます。

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徳川斉昭の生涯を解説!水戸藩の家督を継ぐまで

徳川斉昭の幼少期

1800年、御三家のひとつである水戸藩の江戸小石川藩邸で生まれた徳川斉昭。幼名は虎三郎と名付けられました。父親は第7代藩主の徳川治紀。母親は権中納言の外山光実の養女で、治紀の側室だった外山補子です。

治紀には成人に達した男子が4人いて、長兄の斉脩が水戸藩の後継者とされていました。次兄の頼恕は高松藩松平家へ、弟の頼筠は宍戸藩松平家へ養子に入ることが決まっていましたが、3男の斉昭は30歳まで部屋住みの身。斉脩の身に何かあった時の控えとして残されていたと推測されています。

大津浜異人上陸事件

1816年に徳川治紀が亡くなると、徳川斉昭の兄、徳川斉脩が第8代藩主になります。斉脩は文才芸能に優れ、義公と呼ばれた徳川光圀の再来といわれるほどでしたが、もともと体が弱く、また柔和な性格だったため、国元の統治は譜代の重臣たちからなる門閥派に任せていました。1度も水戸領内に足を踏み入れなかったそうで、重臣たちのなかでも中山信敬らの勢力が増大していきます。

また、前代の治紀の頃から始まった水戸近海への異国船接近が増加したのも斉脩の時代です。1824年には大津に外国人12名が上陸する「大津浜異人上陸事件」が発生。上陸したのはイギリスの捕鯨船乗組員で、船内に壊血病の患者が出たため新鮮な野菜や水を求めます。水戸藩からの急報を受けて派遣された幕府の代官はこの主張を受け入れ、野菜や水、鶏肉などを与えました。

しかし藤田幽谷門下の水戸学者らはイギリス人の主張を虚偽とし、実際には侵略のための偵察だったと主張します。この頃から水戸藩内にて「攘夷論」が唱えられるようになりました。

徳川斉昭の家督継承

外国人の上陸に水戸藩が揺れるなか、体の弱かった斉脩の病状が悪化。斉脩には子がいなかったため、後継者をめぐる問題が浮上します。

時の将軍である徳川家斉には50人以上の子がいて、女子を嫁がせる家や男子を養子に迎え入れてくれる家を常に探している状況でした。斉脩の正室も家斉の7女だったことから、21男の恒之丞を養子に送り込もうと画策します。水戸藩内でも、将軍家との関係強化を図りたいという思惑から、附家老の中山信守をはじめとする門閥派が賛成しました。

しかし藤田幽谷の子である藤田東湖や、会沢正志斎らを中心とする学者、下級藩士たちは反発。彼らは徳川斉昭を次の藩主に推薦し、40人以上の藩士が無断で江戸に行って陳情するなどの騒ぎになりました。

1829年に斉脩が亡くなりますが、ほどなくして斉昭を次の藩主に指名する遺書が見つかったため、騒ぎは鎮静化。徳川斉昭が水戸藩の第9代藩主に就任しました。

藩主になった後の1832年に、有栖川宮織仁親王の王女である吉子女王と結婚。同年に長男の慶篤が生まれます。斉昭は生涯に9人の側室を持ち、22男15女という37人の子どもに恵まれました。なかでも最後の将軍となる7男の慶喜がもっとも有名です。

徳川斉昭の藩政は?藩校「弘道館」の設立など

徳川斉昭の藩政改革

斉昭は、中山家ら門閥派を抑え、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、青山拙斎、武田耕雲斎など下級藩士から広く人材を登用。主な改革として、領内全域の検地をする「経界の義」、藩士の土着を図る「土着の義」、藩校や郷校の建設を進める「学校の義」、江戸定府制の廃止を進める「総交代の義」の4つを掲げました。

また大規模な軍事訓練の実施、農本主義にもとづく農村救済、神仏分離、廃仏毀釈などの政策を進めました。そのほか蝦夷地の開拓、国民皆兵、西洋近代兵器の国産化などを唱え、「天保の改革」を進める老中の水野忠邦など全国の大名に大きな影響を与えていきます。

藩校・弘道館の設立

1841年、徳川斉昭は水戸城三の丸内に藩校「弘道館」を設立します。初代教授頭取には、会沢正志斎と青山拙斎が就任し、学校運営を担う学校奉行には安島帯刀が任命されました。「学問は一生行うもの」という考えのもと、卒業という仕組みはなく、若者も老人も同じ場で学ぶ環境が整えられます。

文武のうち「文館」への入学には一定の学力が必要でしたが、「武館」に試験はなく、誰でも入学することができました。また家格によって藩学出席強制日数という基準が設けられていて、家格が低い者ほど最低出席日数が少なく設定されていたそうです。

弘道館は、1868年11月の「弘道館戦争」によって多くの建物が焼け、1872年に閉鎖されます。その後、弘道館の蔵書の多くは国有とされましたが、1945年8月の「水戸空襲」によって大部分が焼失。焼け残った蔵書約1万冊が茨城県立歴史館などに管理されています。

また旧弘道館は国の特別史跡に、正庁、至善堂、正門などの建物は国の重要文化財に指定され、梅の名所としても有名です。

徳川斉昭の強制隠居・謹慎処分

水野忠邦による「天保の改革」は、贅沢の禁止や風俗粛清を掲げ、その性急さや過激さから「水野は叩くにもってこいの木魚だ」と歌われるなど庶民から大いに反発を買いました。

水野忠邦が性急に改革を進めた背景には、「アヘン戦争」で清国がイギリスに敗れたことで、将来的に日本も同じように侵攻を受けるのではないかという危機感があったためです。水野は政治の中心である江戸、経済の中心である大阪の防御を固める必要があると考えました。1843年、幕府領や大名領、旗本領が入り乱れる状況を整理するため、江戸と大阪周辺の土地を幕府に返上させ、代わりに替地を支給する「上知令」を発令します。

しかし上知令はさまざまな階層の人から大きな反発を招き、水野は失脚。その後援者の立場にあった徳川斉昭も、軍事改革や仏教の弾圧などの藩政改革を咎められ、強制隠居・謹慎の処分を受けます。長男の慶篤が跡を継いで第10代藩主となり、斉昭は就任から13年あまりで藩主の座を降りることになりました。

徳川斉昭と幕府の関係は?井伊直弼との対立、ペリー来航への対応など

ペリー来航と井伊直弼との対立

隠居の身となった徳川斉昭でしたが、1853年にペリーが来航した際、老中首座である阿部正弘の要請によって幕政参与として幕政に関わることになります。斉昭は強硬な攘夷論を主張し、江戸の防備のために大砲74門と、洋式軍艦の旭日丸を献上しました。

開国論を唱える井伊直弼とは対立を深めることになりますが、最終的には「日米和親条約」を締結します。

ただ井伊直弼自身は「海軍力を整備すればいずれ鎖国に戻す事も可能」と述べるなど、本心では攘夷論者であったとする説も有力です。

両者の対立は、単に攘夷か鎖国かをめぐるものではなく、ペリー来航をきっかけにようやく幕政への参与を認められた有力大名たちと、長らく幕政を主導してきた譜代大名たちとの間における権力闘争という意味合いが濃いものでした。

測量問題

徳川斉昭と井伊直弼の対立において、ペリー来航をめぐる論争が第1ラウンドだとすれば、第2ラウンドとなったのが、アメリカによる日本沿海測量を認めるか否かという問題でした。この問題をめぐり、幕閣は完全に二分されてしまいます。

阿部正弘は斉昭に対し、譲歩を求めました。これに対し斉昭は、開国派の老中だった松平乗全と松平忠優の罷免を要求します。

当然、井伊直弼は激怒しましたが、阿部正弘は開国派の堀田正睦を老中に任じ、自ら老中首座の座を堀田に譲ることで混乱を鎮めました。阿部正弘自身が身を引いたことで、第2ラウンドは両者痛み分けという形で決着がつきます。

しかし1857年に阿部正弘が亡くなり、直後に堀田正睦が松平乗全、松平忠優を老中に再任したため、形勢は再び開国派の有利になっていくのです。

徳川斉昭と幕府の関係は?慶喜の擁立から安政の大獄まで

将軍継嗣問題

徳川斉昭と井伊直弼の対立が頂点に達したのが、第13代将軍である徳川家定の継嗣をめぐる問題です。斉昭は、島津斉彬や松平慶永などの有力大名とともに、自身の子で御三卿のひとつである一橋家の当主になっていた一橋慶喜を推薦します。

一方の井伊直弼や会津藩主の松平容保らは、御三家のひとつである紀州藩の藩主、徳川慶福を推薦。両者は「一橋派」「南紀派」と呼ばれ、熾烈な争いをくり広げました。

1858年4月、孝明天皇からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が、家定に対し、松平慶永を大老に任じて事態の対処を任せるべきと提言すると、家定は「家柄・人物からも大老は井伊直弼しかいない」と発言。急遽、井伊直弼が大老に就任します。

6月には勅許を得られないまま「日米修好通商条約」が調印。徳川斉昭は水戸藩主の徳川慶篤、尾張藩主の徳川慶恕とともに江戸城に無断登城し、井伊直弼の違勅調印を非難したうえで、一橋慶喜を将軍継嗣、松平慶永を大老とすることを要求しました。

しかしこの要求は拒絶され、翌日には徳川慶福の将軍継嗣決定が公表され、7月には斉昭らに対し、隠居、謹慎、登城停止などの処罰が下ります。

徳川斉昭と安政の大獄

一橋派である薩摩藩の島津斉彬は、藩兵を率いて上洛し、朝廷を味方につけて幕府の違勅調印をただそうと試みますが、藩兵軍事調練中に急死してしまいます。しかしその後も一橋派は朝廷工作を続け、8月8日には朝廷から水戸藩へ幕政改革を支持する「戊午の密勅」が下されました。

井伊直弼は朝廷が幕府を飛び越えてひとつの藩に勅令を下すことを幕藩体制を無視した行為と断じ、水戸藩に勅書の幕府への返納を迫り、密勅降下に関与したと思しき人物を次々に弾圧、処分していきます。

この弾圧は「安政の大獄」または「戊午の大獄」と呼ばれました。水戸藩家老の安島帯刀、元小浜藩士の梅田雲浜、京の儒学者の頼三樹三郎、越前藩士の橋本左内、長州藩士の吉田松陰らが死に追いやられ、一橋慶喜や松平慶永、徳川慶勝、伊達宗城、山内容堂、堀田正睦など多くの有力大名が隠居・謹慎となります。

徳川斉昭は永蟄居処分とされ、処分が解けぬまま1860年8月15日に亡くなりました。満月を観覧し、厠に立った後に倒れたとされ、死因は心筋梗塞とする説が有力です。井伊直弼が「桜田門外の変」で水戸藩からの脱藩者らによって暗殺されてから、およそ5ヶ月後のことでした。

徳川斉昭に関するおすすめ本を紹介!

著者
吉村 昭
出版日
1995-03-29

徳川斉昭と井伊直弼の対立は、「安政の大獄」と「桜田門外の変」という悲劇に結び付きました。本書は、『戦艦武蔵』や『天狗争乱』などの作品で知られる作者が、実行部隊の指揮を執った水戸脱藩浪士、関鉄之介を通じて桜田門外の変を描いた力作です。

過分な修飾を省き、淡々と事実を述べていくスタイル。綿密な取材と緻密な構成が魅力で、さながら暗殺の現場に実際に居合わせているかのような臨場感を味わえるでしょう。

徳川斉昭と井伊直弼、水戸藩と幕府の対立の行く末をぜひ体感してみてください。

著者
博, 永井
出版日

物語で描かれる徳川斉昭のイメージは、旧来の鎖国体制にこだわり、無謀な攘夷論を唱える頑固な老人。あるいはただ単に最後の将軍である徳川慶喜の父親、といったものが多いのではないでしょうか。

本書は、豊富な資料をもとに徳川斉昭の生涯をわかりやすく解説した作品。第6代藩主の治保や第7代藩主の治紀、二条家や鷹司家などの公家、島津斉彬や阿部正弘など大名との関係、蝦夷地政策、条約問題、貿易問題など、細かい部分にもしっかりと焦点をあてることで、新たな徳川斉昭像が浮かびあがってきます。

彼が幕末の日本においていかに重要な人物だったのかも理解できるでしょう。徳川斉昭について学びたい方は必読の一冊です。

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