阿部正弘ってどんな人?有能だった老中時代の政策、安政の改革などを解説!

更新:2021.3.28

相次ぐ地震や外国船の来航に見舞われた幕末。老中首座として政策を握ったのが阿部正弘です。この記事では、彼が老中になるまでの経歴や対外政策、安政の改革などを軸にわかりやすく解説していきます。またおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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阿部正弘はどんな人?備後福山藩主から老中へ

阿部正弘の幼少期

1819年、備後福山藩の第5代藩主だった阿部正精の五男として、江戸で生まれた阿部正弘。母の高野貝美子は、阿部正精の3人いた側室のひとりです。

阿部氏は、酒井氏や本多氏、大久保氏などと並んで「安祥譜代七家」に数えられる徳川家譜代の臣下でした。大阪城代を務めた阿部正勝以降、3代将軍・徳川家光の頃に老中筆頭を務めた阿部忠秋など、幕閣の中枢で活躍する人材を多く輩出しています。

そんな阿部氏が藩主を務める備後福山藩は、現在の広島県福山市にあたる場所にあり、毛利家を始めとする中国地方の外様大名に対する「西国の鎮衛」として重要な役目を担っていました。初代藩主には「鬼日向」の異名を持つ水野勝成が任じられます。1698年に水野家が改易となった後、幕府直轄領、奥平松平氏の統治を経た後、1710年に阿部正邦が下野国宇都宮藩より転封となりました。

阿部正弘の父である阿部正精は奏者番、寺社奉行を歴任した後、11代将軍・徳川家斉によって老中に引き上げられます。老中としての阿部正精の功績として「江戸御府内」と呼ばれる江戸の範囲を確定した点が著名です。それまで、江戸御府内という言葉はあったものの、その範囲は特定されていませんでした。阿部正精はこれを北は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川及び石神井川と定めました。

備後福山藩主へ

1826年に阿部正精が亡くなると、三男の阿部正寧が家督を継承します。正寧も幕閣において出世への登竜門とされる奏者番に任じられますが、ほどなくして病気を理由に辞職。藩が洪水や凶作に相次いで襲われる中でも特段の対策を取ることなく、1836年には家督を阿部正弘に譲って隠居します。生来病弱だった正寧でしたが、隠居後は体調も回復し、弟・正弘以上に長生きして、明治の世を迎えることになりました。

家督を継承し、備後福山藩主となった阿部正弘は1837年にはお国入りします。生涯で正弘が国元に帰ったのはこの時だけです。

老中に就任した阿部正弘

1838年には奏者番、1840年には寺社奉行となり、1843年には25歳の若さで老中に任じられます。1844年には江戸城本丸焼失事件をきっかけとして失脚していた水野忠邦が老中首座に復帰するものの、阿部正弘は水野忠邦復帰は将軍の権威を失墜させるものとして糾弾。水野忠邦の腹心だった鳥居耀蔵、13代目後藤庄三郎、渋川敬直らを次々に処断していきました。1845年には水野忠邦自身を追い落とし、自ら老中首座となり、12代将軍・徳川家慶、13代将軍・徳川家定の二代に亘って幕閣の中枢を占めることとなります。

阿部正弘の対外政策は?ペリー来航と日米和親条約の締結

大地震が相次ぐ時代

阿部正弘が老中首座を務めたのは1845年から1855年までの10年間です。この間、日本は大きな災害に相次いで見舞われます。1847年には長野県でM7.4の善光寺地震が発生。8,000名以上もの死者が出ました。1853年にはM6.5の嘉永小田原地震(死者24人)、1854年にはM7.2の伊賀上野地震(死者995名)、M8.4の安政東海地震(死者約3,000名)、M8.4の安政南海地震(死者数千人)、M7.4の豊予海峡地震(死者数不明)、1855年にはM6.8の飛騨地震(死者12名)、M7.4の安政江戸地震(死者約1万名)が相次いで起き、甚大な被害が出ています。

これらの地震は当時、「寅の大変」とも呼ばれ、幕府・諸大名には救援・復興のための財政的負担が重く圧し掛かるとともに、社会不安が広がりました。

高まる異国の脅威

江戸時代の日本は3代将軍徳川家光以来鎖国政策を採ってはいましたが、長崎・出島のオランダ商館を通じて外国の情勢を得ていました。幕閣に大きな衝撃を与えたのが、1840年に勃発したアヘン戦争において、清国がイギリスに敗れたという事実です。この事実によって日本は西洋列強の軍事力の強大さを知り、警戒感を強めることとなります。

それまで、幕府は1825年に出した「異国船打払令」の下、日本の沿岸に接近する外国船は見つけ次第砲撃するという強硬策を採っていましたが、1842年には「天保の薪水給与令」を出し、遭難した船に限るという条件付きではあったものの薪や水の支給を認めるなど態度を軟化させました。

阿部正弘が老中首座になった後、1846年には浦賀にアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが来航します。開国を求めるビドルに対し、阿部正弘の回答は「オランダ以外との通商は行わない」というもので、交渉を続けるのであれば幕府の対外窓口である長崎へ回航して欲しいというものでした。

この時、ビドルはジョン・タイラー大統領、ジョン・カルフーン国務長官などから「辛抱強く、敵愾心や不信感を煽ることなく交渉に当たるべし」という指示を受けていたため、武力に訴える砲艦外交をせず、交渉を中止して帰国します。

ペリー来航

ジェームズ・ビドルの来航から7年後、1853年にやってきたのがアメリカ東インド艦隊司令官マシュー・ペリーです。日本を開国させるという任務をペリーが任されたのは、1851年にウィリアム・アレクサンダー・グラハム海軍長官に提出した日本遠征に関する独自の基本計画案が評価された為とされています。この中で、ペリーはジェームズ・ビドルの失敗を研究し、日本人に対しては紳士的に交渉するのではなく、「恐怖に訴える方がより多くの利点がある」と記していました。

この基本計画案に基づき、ペリーの艦隊は1852年11月24日にミラード・フィルモア大統領の親書を携えて、アメリカ・ノーフォークを出航。1853年7月8日に浦賀へと来航します。

ペリー来航はオランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスが1852年7月21日に長崎奉行に提出した「別段風説書」によって幕府に報告されていました。この報告に危機感を覚えた阿部正弘は譜代大名や海岸防禦御用掛に回覧し、意見を求めましたが、幕閣内では通商条約は結ぶべきではないという考えが優勢でした。長崎奉行からもオランダ商館長の報告に関して、その信憑性を疑問視する報告が上がっていたこともあって、幕府は川越藩・彦根藩らの兵を動員して海岸防御を僅かに強化する程度の対策しか取りませんでした。

浦賀に来航したペリー艦隊に対して、幕府は浦賀奉行を通じて交渉に当たります。浦賀奉行・戸田氏栄は大統領の親書を将軍に渡すことがペリーの目的であると知ると、与力の中島三郎助、香山栄左衛門らを派遣して親書を受け取ろうとしました。しかし、ペリーは役人の階級が低すぎるとしてこれを拒否。ジェームズ・ビドルの失敗から学んだ教訓を活かし、「最高位の役人を派遣しないのであれば、江戸湾を北上して上陸し、直接将軍に手渡しする事になる」と脅し、武装した短艇を用いて浦賀湊内を測量する示威行動に出ます。

さらに7月11日には江戸湾内に20㎞ほど侵入する動きを見せ、幕府を威圧。この事態に阿部正弘は国書の受領やむなしとの決断に至り、浦賀奉行・戸田氏栄、井戸弘道の両名がペリーと会見し、国書を受け取りました。返答に関しては12代将軍・徳川家慶が病床にあることから、1年の猶予を求め、ペリーもこれを受け入れ、1年後の来航を約束して7月17日に出港。イギリスの植民地である香港へと去りました。

日米和親条約締結

ペリーが去った後、阿部正弘は圧倒的な軍事力を背景に開国を要求してくるアメリカへの対応と、異国排斥を訴える国内の強硬な攘夷論への対応に悩まされることになります。8月には各大名、旗本、庶民まであらゆる階級の人々にも門戸を広げて意見を募りました。様々な意見が寄せられましたが、名案はなく、幕府単独で国難に立ち向かう事ができないという点を印象付け、その権威を低下させる事となります。

アメリカと戦争になった場合に備え、江戸湾に台場を建造し、大船建造の禁を1609年に出されて以降、約240年振りに解き、海軍力の増強に乗り出しました。近年の研究では、ペリーの来航が約束通り1年後であった場合、例え戦闘になったとしても幕府がペリー艦隊を撃退することは可能であったとされています。

しかし、ペリーは約束を破り、半年後に再来航しました。これは徳川家慶が死去したことを知り、国政が混乱している内に威圧すれば、より容易に条約締結を成し遂げられると考えたためです。ペリー再来航の時点では、台場の建造は半ばであり、江戸湾の防御態勢は不十分な状況でした。

阿部正弘は大学頭である林復斎を全権代表として交渉に当たらせ、約1か月に及んだ交渉の末に永世不朽の和親、下田・函館の開港、薪水の給与、領事館駐在の容認からなる日米和親条約を締結。200年以上続いてきた日本の鎖国は終焉を迎えることとなります。

阿部正弘は有能な政治家!安政の改革など政策と評価を解説

阿部正弘の功績1:海岸防禦御用掛の常設化

老中首座・阿部正弘の功績として挙げられるのが「海岸防禦御用掛」の常設化です。海岸防禦御用掛は略して海防掛とも呼ばれますが、1792年にロシアの軍人アダム・ラクスマンが来航し、開国を求めたことを契機として8代将軍・徳川吉宗の孫である老中・松平定信が初めて任じられました。

1842年には松平定信の次男である老中・真田幸貫が任じられていますが、飽くまでも臨時職でした。そんな海防掛をアヘン戦争に危機感を覚えた阿部正弘は1842年、常設の役職とし、阿部定弘自身、老中・牧野忠雅、若年寄・大岡忠固、若年寄・本多忠徳を任じました。オランダ商館長からペリー来航を予告された際には、阿部正弘の諮問に対し、当時海防掛であった松平近直、石河政平、川路聖謨、竹内保徳らは条約交渉には応じるべきではないと回答しています。

阿部正弘の功績2:人材登用

阿部正弘は、従来の譜代大名中心の幕府運営から脱却し、外様大名、旗本、庶民にまで広く意見を求めました。その中で、大胆な「人材登用」を実施します。浦賀奉行としてペリーとの交渉に従事した戸田氏栄、御家人出身の川路聖謨、伊豆韮山の代官であった江川英龍、土佐の漁師出身のジョン万次郎、小栗忠順と共に後に「幕末三俊」と称される水野忠徳及び岩瀬忠震、「幕末の三舟」に数えられる勝海舟などが代表的です。彼らはいずれも幕末の動乱期において大いに活躍することになります。

阿部正弘の功績3:安政の改革

1853年の1度目のペリー来航以降、阿部正弘が主導して行ったのが「安政の改革」です。江戸時代の改革としては、徳川吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革が「幕府三大改革」として夙に有名ですが、阿部正弘が行った安政の改革は三大改革に次ぐものとして評価されています。

主な内容としては薩摩藩の島津斉彬、水戸藩の徳川斉昭、福井藩の松平慶永、佐賀藩の鍋島閑叟、宇和島藩の伊達宗城と言った有力大名の幕政参与、江戸湾防衛のための台場建設、大船建造の解禁、講武所・長崎海軍伝習所・洋学所の設置などです。特に日本陸軍の前身である講武所、日本海軍の前身である長崎海軍伝習所、東京大学の前身である洋学所の設置は明治以降、日本の近代化に大きく貢献することとなります。

阿部正弘の評価

明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト・徳富蘇峰は著書『近世日本国民史』の中で、阿部正弘について「優柔不断」「八方美人」という評価を下しています。正弘は努めて人の話をよく聞くことを心掛けていたとされ、旗本で軍艦奉行を務めた木村芥舟の著書では「阿部正弘は肥満体で、長時間座っているだけでも苦痛だった。しかし、相手の話を聞く時は常に長時間正座をしていた。その為、阿部正弘が座っていた跡は畳が汗で湿っていた」と記されている程です。

また、阿部正弘には人の意見を聞くばかりで、自分の意見をなかなか口にしないという評価もありました。越前藩主・松平慶永の『雨窓閑話稿』には自分の意見を述べようとしない阿部正弘がその理由を問われて、「自分の意見を述べてもし失言だったら、それを言質に取られて職務上の失策となる」と述べたエピソードが収められています。現代でもベテラン政治家が不用意に自分なりの意見を口にし、それが失言となって政治生命を断たれる例は少なくありません。老中になった時点で未だ20代半ばであったことを考えると、阿部正弘の政治感覚は卓越したでした。

遺した功績も併せて考えると、先見の明と慎重さを併せ持つ人物像が浮かび上がってきます。歴史上、阿部正弘の評価が低いのは敗者となる幕府側の要人であったこともさることながら、余りに若くして亡くなったことが大きな要因とされています。

阿部正弘の死因

若すぎる死

阿部正弘は1855年、下総国佐倉藩の藩主・堀田正睦に老中首座の地位を譲り、1857年に老中在任のまま急死します。39歳という若さでした。

死因は不明とされていますが、最も有力とされているのが肝臓がんです。国事多難な状況下で尋常ならざるストレスに晒されていた阿部正弘はストレスを紛れさせるために多量の酒を飲んでいたとされています。ストレスの蓄積、酒量の増加はいずれも肝臓がんの大きな要因です。元々肥満体型であったのが死の直前には下痢によって激やせしていたともされ、肝臓がん説を裏付ける根拠の一つとされています。

また、糖尿病が原因ではないか、という説も有力です。肥満体だった阿部正弘は成人習慣病、特に糖尿病を患い、免疫力の低下や消化器系のがんに冒されていたのではないかとされています。

俗説ですが、腎虚説も死因候補の一つです。阿部正弘は向島にあった山本屋の看板娘おとよを側室としましたが、このおとよが評判の美人であったことから、江戸の町人などの口さがない人々の間で、夜の営みが激しすぎたから早死したのではないかという噂が流れました。

暗殺説

兎角、重要人物の死には暗殺説が出るものですが、阿部正弘も例外ではありません。

安政の改革を進め、身分を問わずに人材登用を行った阿部正弘ですが、その分既得権益を持つ側からは嫌われることとなります。その為、譜代の幕臣などによって暗殺されたのではないか、或いは阿部正弘が14代将軍に一橋慶喜を推薦していたことから井伊直弼ら徳川慶福を推薦する南紀派によって殺されたのではないかという説です。

しかし、いずれにおいても根拠は乏しく、死因が暗殺であった可能性は低いと考えられています。

無能じゃなかった江戸幕府

著者
穂高健一
出版日

明治維新以後、幕末の江戸幕府はペリー提督ら迫りくる外国勢力に為す術なく開国させられ、不平等条約まで締結してしまった。そんな幕府を倒し、日本を近代化させ、西洋列強による植民地化から救ったのが薩長を始めとする討幕派であるという勝者によって描かれた歴史が前面に立ってきました。

しかし、阿部正弘を中心に据えた本書を読むと、阿部正弘という人物、そして幕末期の江戸幕府そのものに対する評価が一変します。

攘夷論が優勢な中で、粘り強く開国を実現した手腕、その背景にある先見の明など、もし阿部正弘がもっと長く生きていたらと考えずにはいられません。目からうろこが落ちるおすすめの一冊です。

阿部正弘を主人公にしたおすすめ小説

著者
祖父江 一郎
出版日

史上最年少で老中首座となった阿部正弘は男前の良さから大奥にも人気があったとされています。しかし、阿部正弘はただ顔だけでなり上がったわけではなく、水野忠邦、徳川斉昭、井伊直弼ら老練な政治家たちを相手に回し、開国や安政の改革を実現していく、年齢に似合わない老獪な政治家でした。

本書ではそんな阿部正弘を主人公に、内憂外患の状況下でいかに改革を実現していくのか、手に汗握るような展開が描き出されています。

370ページ以上と読み応えがありながら、大河ドラマの主人公になってもおかしくないほどの波乱万丈な生涯は読み飽きることがありません。ぜひ手に取っていただきたいおすすめの一冊です。

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