初代駐日アメリカ領事を務めたタウンゼント・ハリス。「日米修好通商条約」を締結した、幕末を語るうえで非常に重要な人物です。この記事では、ハリスが駐日領事になるまでの経歴や、日本人女性であるお吉との関係、名言などをわかりやすく解説。また『日本滞在記』などの書籍も紹介していきます。
1804年10月3日、ニューヨーク州ワシントンで陶磁器の輸入業を営むジョナサン・ハリスの六男として生まれたタウンゼント・ハリス。中学校を卒業した後は父親の仕事を手伝いながら図書館などで勉強に励み、フランス語やイタリア語、スペイン語などを習得しました。
その後は教育活動に取り組み、1846年にはニューヨーク市の教育局長に就任。翌年には「社会に開かれた高等教育の場」を理念とした、移民や労働者階級の師弟など貧しい人々に無償で教育の機会を与える「フリーアカデミー」を創設しました。
このフリーアカデミーを母体として設立されたのが、現在のニューヨーク市立大学シティカレッジです。多くのノーベル賞受賞者や、元ニューヨーク市長のエド・コッチ、元国務長官のヘンリー・キッシンジャー、コリン・パウエルなど歴史に名を残す著名な人物を輩出し、創設者であるハリスの功績も高く評価されています。
1848年になると、家業である陶磁器輸入業が振るわなくなり、貨物船の権利を購入して貿易業に乗り出します。清やニュージーランド、インド、フィリピンなど各地をめぐるなかで、1853年には日本へ向かう途中のマシュー・ペリー提督に対し、日本への同乗を要請。しかし軍人でないことから許可を得許可を得られませんでした。
その後ハリスは、アメリカ政府に対し「台湾事情申言書」を提出するなど任官運動をおこない、1854年4月に中国にある寧波の領事に任命されます。さらに「日米和親条約」が締結され駐日領事を置くことが定められると、自ら就任を望み、政界人脈を駆使して推薦状を獲得。1855年にフランクリン・ピアース大統領から初代駐日領事へと任命されました。
タウンゼンド・ハリスに与えられた使命は、日本を平和的に開国させ、イギリスやフランスなど列強諸国からの介入を防ぎ、東洋におけるアメリカの権益を確保すること。具体的には、「日米修好通商条約」を締結することです。
この使命を胸にハリスは、通訳兼書記官としてオランダ語に精通したヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856年8月21日に伊豆の下田へと上陸。下田奉行である井上清直との交渉を経て、玉泉寺に領事館を構えます。
着任直後から精力的に幕府との交渉を重ね、1857年6月には「日米和親条約」を修補するための「下田協定」を締結しました。しかしハリスはこの頃から体調を崩し、約3ヶ月間の休養を余儀なくされます。
回復した後の1857年10月に江戸に向かい、12月7日には江戸城に登城。第13代将軍である徳川家定に謁見し、親書を読み上げました。
ハリスによる将軍謁見後、老中首座の堀田正睦は、下田奉行の井上清直、目付の岩瀬忠震を全権として「日米修好通商条約」の交渉を開始しました。交渉は全15回におよびます。内容について双方の合意を得た後、堀田は岩瀬を伴って上洛し、孝明天皇から条約勅許を得ようと試みますが、岩倉具視など攘夷派の公家88人が抗議のために座り込みを敢行する「廷臣八十八卿列参事件」などによって失敗してしまいました。
幕府は彦根藩主の井伊直弼を大老に任じ、朝廷の説得を模索しますが、ハリスには幕府が朝廷を説得するのを待つ余裕はありません。この頃、清では「アロー号事件」をきっかけにイギリス・フランスとの間で「アロー戦争」が起こっていたからです。戦争が終われば、イギリスやフランスが余勢を駆って日本を侵略する可能性がありました。
ハリスは、イギリスやフランスの侵略を防ぐためには、それよりも早く「日米修好通商条約」を締結するしかないと幕府首脳陣を説得します。井伊直弼は最後まで勅許を優先させるべきだと主張しましたが、開国派の老中である松平忠固を中心に幕閣の大勢は即時条約調印に傾いていきました。
その結果、1858年7月29日、全権を与えられた井上、岩瀬の2人がアメリカの軍艦ポーハタン号上で条約調印に踏み切ります。彼らには井伊から勅許が得られるまでできるだけ調印を引き延ばすようにとの指示が出されていましたが、ハリスは停泊中の各艦に号砲を打たせ、天津にいるイギリス・フランス連合艦隊が日本に向けて出港準備を整えているから、条約を結ばなければ日本はすぐに占領されてしまうだろうと2人を脅迫。条約調印にこぎつけました。
「日米修好通商条約」の締結によって、初代駐日領事から初代駐日公使に昇格を果たしたハリスは、1859年に江戸の元麻布にある善福寺に公使館を設置。見事に使命を果たしました。
しかし1860年、国務長官のルイス・カスに対して、「日米修好通商条約」で1862年1月1日と定められた江戸の開市を延期するよう進言するなど、これまでの流れに逆行する動きに出るのです。
これは、いまだに孝明天皇からの条約勅許を得られていない状況や、攘夷派による外国人襲撃事件が相次いでいることなどを鑑み、開市は時期尚早だと判断したから。その後も外国人の殺害は続き、1861年1月には攘夷派の薩摩藩士らにハリスが通訳兼書記官として雇ったヒュースケンが襲われ、殺される事件も起きてしまいました。
ハリスは、同じく開市の延期を望む安藤信正や久世広周などの幕府首脳と、ヒュースケン殺害の補償がされるまで譲歩しないとするエイブラハム・リンカーン大統領やウィリアム・スワード国務長官ら本国政府との仲介に努めました。その結果、幕府がヒュースケン殺害に対する補償を実施する代わりに、開市延期に関する承諾を本国政府から得ることに成功。開市の延期が決まったのは1861年12月28日で、予定日まであと3日というタイミングでした。
開市の延期を得たハリスは、1862年に公使を辞任し、帰国します。正式に発表された辞任理由は「病気」でしたが、ハリス自身が民主党員であったことから、リンカーン大統領率いる共和党政権と考え方が異なっていたこと、あるいは「南北戦争」の渦中にある故郷が心配だったことなども関係しているといわれています。後任には、スワード国務長官の親友でもあったロバート・プルインが就任しました。
帰国後は公職には就かず、動物愛護団体の会員として静かに暮らし、晩年に移住したフロリダ州で1878年2月25日に73歳で亡くなっています。生涯独身だったため、姪が法定相続人となりました。
タウンゼンド・ハリスの逸話として有名なのが「唐人お吉」です。
「下田協定」の締結後、体調を崩したハリスはヒュースケンを通じて看護人の派遣を幕府に要請。これを受けて幕府が、条約締結の交渉を引き延ばすために、ハリスをまるめこもうと看護人兼妾として芸妓を派遣したといわれていて、実在する斎藤きちという女性がモデルになっています。
この逸話が有名になったきっかけは、1927年に作家の村松春水が生前の本人に取材した内容をまとめた『実話唐人お吉』を発表したこと。その後、版権を買い取った小説家の十一谷義三郎が1928年に小説『唐人お吉』として発表し、数回にわたって映画化されて広く知られていきました。
これらは物語として脚色されたフィクションであり、事実とは多くの点で異なります。実際のハリスは生涯独身を貫くほど敬虔な聖公会の教徒でした。さらに当時は着任時に比べて体重が18㎏以上も落ち、たびたび吐血するなど本当に体調が悪く、とても妾を求めるような状況ではなかったといわれています。また、外交官が交渉相手国から利益供与を受ける危険性も十分に認識していたと推測できるでしょう。
斎藤きちは、ハリスの看護人として働き始めるものの、体に腫れ物ができてしまい、すぐに解雇されます。実際に働いていたのは3日間だけだったそうです。
実家に戻った斎藤きちは、1868年に幼馴染の船大工である鶴松と結婚。しかし外国人の妾だったという噂が広まり、「唐人お吉」と蔑まれ、下田の人々から迫害を受けるなかで酒に溺れるようになります。1874年には離縁されてしまいました。
その後は芸妓や髪結いとして働き、1882年には貸座敷「安直楼」を開業。しかし経営に失敗し、さらに1887年頃からは病を患って半身不随の身となり、1890年に川に転落して水死してしまいました。遺体は引き取り手もないまま3日間土手に放置され、これを哀れんだ宝福寺の住職によって境内に埋葬されたそうです。
タウンゼント・ハリスは、いくつかの名言を残しています。
アメリカでは、「フリーアカデミー」を開校する際に理念として語った「すべての人に扉を開こう。裕福な家の子も貧しい家の子も並んで座ることができるように。貧富の差が勤勉さや善行、知性に差を作ることがないということを教えよう」という言葉が有名です。
またハリスは日本の印象について、「私は日本人は喜望峰以東のいかなる民族よりも優秀であることをくり返して言う」と語り、下田についても「世界のいかなる土地においても、労働者の社会のなかで下田における者よりもよい生活を送っているところは他にあるまい」と絶賛。
さらに「日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう」と予言もしています。
その一方で、敬虔な聖公会の教徒だったハリスは日本の混浴習慣に辟易していたようで、「なぜこのような品の悪いことをするのか判断に苦しむ」とも語っていました。
- 著者
- ["ハリス", "坂田 精一"]
- 出版日
『日本滞在記』はタウンゼント・ハリスが遺した日記です。1855年5月21日のマレーシア・ペナン島から始まり、「日米修好通商条約」の締結直前である1858年6月までの約3年間が記されています。
内容は、ニューヨークでフランクリン・ピアース大統領から初代駐日領事に任じられたことや、日本に向かう道中のタイで通商条約を締結したこと、日本の気候、人々の印象、幕府との交渉過程、拝謁した第13代将軍である家定の印象など多岐にわたります。
幕府を「彼らは地上における最大の嘘つきである」と記すなど、のらりくらりと交渉を引き延ばそうとする姿勢に苛立つ様子、また日本内外の金銀価値差を活かして富を稼いだことなど、ハリスの内面がわかる日記ならではの記述が多いのが特徴です。
ハリスが日本に滞在していたのは1862年5月までですが、残念ながら1858年7月以降の日記は失われてしまい、その行動や内面を知ることはできません。それでも幕末史を学ぶ際に外国人から見た日本を知ることができる重要な史料として、高く評価されています。
- 著者
- 佐藤 雅美
- 出版日
260年ほど続いた江戸幕府の崩壊は、薩長など有力諸藩の武力はもちろんですが、富の流出による打撃も大きな原因だといわれています。
本書は、ハリスやイギリスの初代駐日外交代表オールコック、外国奉行として通貨問題を管掌した水野忠徳などを軸に、動乱の幕末期における熾烈な通貨交渉の内幕を描いた名作です。
当時の日本では金と銀の交換比率が1:4.65であったのに対し、国外では1:15.3が相場でした。そのため外国人は日本国内に銀を持ち込み金に交換。その金を国外に持ち出して再び銀に両替するだけで、金銀交換比率の差でおよそ3倍もの利益を得ることができたのです。ハリスも含め、多くの外国人がこの方法で富を築き、日本の金が流出する事態となりました。
この仕組みは、1857年に「日米和親条約」を修補するためにハリスが幕府と締結した「下田協定」によって生まれ、「日米修好通商条約」にも引き継がれました。間接的にとはいえ、幕府崩壊の引き金を引いたのはハリスであるともいえるのです。読み応えがあるおすすめの一冊になっています。