渋沢喜作はどんな人?渋沢栄一の従兄弟、彰義隊の頭取、実業家としても活躍

更新:2021.12.6

2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一の従兄弟である渋沢喜作。いったいどんな人物なのでしょうか。この記事では彰義隊の頭取として、さらには実業家として活躍した彼の人生をわかりやすく解説します。またおすすめの関連本も紹介するので、最後までご覧ください。

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渋沢喜作(渋沢成一郎)はどんな人?従兄弟の渋沢栄一、尾高惇忠との関係を解説

豪農・渋沢家

1838年、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の農民・渋沢文左衛門の長男として生まれた渋沢喜作。渋沢家はこの地を開拓し、代々農業を営んできた家柄で、農民でありながら苗字帯刀を許される程裕福な豪農でした。当時の血洗島には渋沢を名乗る家が17軒ほどあり、家の場所によって「東の家」「西の家」「中の家」などと呼ばれていました。本家筋は「中の家」でしたが、早くに没落。この頃は藍玉の製造販売や養蚕で成功した「東の家」がもっとも裕福で、事実上の本家です。

喜作の父である文左衛門は「東の家」の2代目当主・渋沢宗休の次男。家は「新屋敷」と呼ばれていました。

渋沢栄一、尾高惇忠との関係

渋沢喜作と深い関りをもつ人物が、渋沢栄一と尾高惇忠です。

1840年生まれの渋沢栄一は、渋沢宗休の三男で「中の家」に婿入りした渋沢市郎右衛門の子。1830年生まれの尾高惇忠は、宗休の娘・やへの嫁ぎ先である「尾高家」の出身で、2人とも喜作にとっては従兄弟にあたります。

喜作と栄一にとって、年の離れた惇忠は兄貴分のような存在でした。幼少期より学問に秀でていた惇忠は自宅内に私塾「尾高塾」を開講。栄一をはじめ近隣の子弟に『論語』や『四書五経』『日本外史』などを教えていました。

この頃の喜作の動向については定かではないものの、栄一と行動をともにしていたと推測され、同じように尾高塾で学問をし、また近隣に道場を構えていた元川越藩剣術師範・大川平兵衛より神道無念流を学んでいたと考えられています。

渋沢喜作は渋沢栄一とともに高崎城乗っ取りを計画、一橋慶喜に仕える

高崎城乗っ取り計画から幕臣へ

江戸で剣術修業をするかたわら勤皇の志士たちと親しくなった渋沢栄一は、尊皇攘夷の思想に目覚めます。渋沢喜作もその影響を受け、1863年には栄一、尾高惇忠とともに高崎城を乗っ取る計画を立てます。奪った武器を用いて横浜の外国人居留地を焼き討ちし、長州藩と連携して幕府を倒そうとしたのです。

しかし惇忠の弟・尾高長七郎の説得で思い留まり、ひとまず江戸に逃れます。そして、栄一が剣術修業の際に交友を結んでいた一橋家家臣・平岡円四郎の推挙によって、一橋慶喜に仕官することになりました。

この頃の慶喜は、朝廷から禁裏守衛総督に任じられますが、御三卿である一橋家には自前の兵力がなく、これを調達することが喫緊の課題でした。喜作と栄一は徴募係として一橋家領内をめぐり、その功績が認められて、1866年には陸軍附調役に昇進。さらに1867年に慶喜が第15代将軍に就任すると奥右筆に任じられ、幕臣となります。

同じく幕臣に取り上げられた栄一は、パリで開催される万国博覧会に将軍の名代として派遣された徳川昭武に随行。フランスに渡航し、ヨーロッパ各地をめぐって近代的な産業や諸制度を見聞しました。

渋沢喜作が結成した「彰義隊」とは。戊辰戦争にも参戦

彰義隊の結成

1867年11月に「大政奉還」が起こった時、渋沢栄一はまだヨーロッパにいました。1868年1月に勃発した「戊辰戦争」にも参戦していません。

一方の渋沢喜作は、「戊辰戦争」の初戦である「鳥羽・伏見の戦い」に参加。さらに徳川慶喜が江戸に帰還すると、将軍警護を主張して一橋家に仕える幕臣を中心に「彰義隊」を結成し、頭取に就任します。

彰義隊の「彰義」とは、「大義を彰かにする」という意味。一橋家の家臣である阿部杖策による発案です。「尽忠報国」「薩賊討滅」を掲げる彰義隊には、旧幕府の関係者のみならず、町人や博徒、侠客なども参集し、瞬く間に1000人を超える大所帯になりました。

彰義隊の存在は、上野の寛永寺に蟄居中だった慶喜にとっては脅威となるもの。そのため旧幕府は彰義隊に江戸市中の治安維持を命じ、軍組織ではなくあくまでも治安維持組織であると主張しました。

振武軍の結成

1868年4月、西郷隆盛と勝海舟が交渉をして江戸城が無血開城。徳川慶喜は水戸へ退去することになります。彰義隊は、徳川将軍家の霊廟を守護することを名目に上野の寛永寺に留まり、輪王寺宮能久親王(明治天皇の義理の叔父)を擁立しました。各地から新政府軍と戦おうとする人々が集まり、勢力はこの頃に最盛期を迎え、約4000人にまで膨れあがります。

しかし新政府軍との武力衝突が現実味を増すにつれ、彰義隊内部でも意見が分かれるようになりました。副頭取だった幕臣・天野八郎が江戸に留まって戦うことを主張したのに対し、渋沢喜作は日光への退去を主張。天野派の隊士が喜作の暗殺を謀るなど、両派の対立は激化。結果的に喜作は彰義隊を離脱することになります。

その後喜作は、現在の埼玉県飯能市にあった能仁寺で「振武軍」を結成。7月に「上野戦争」が勃発すると彰義隊の援護に向かいますが、彰義隊が1日で壊滅したため間に合わず、敗残兵の一部を収容して撤退します。また榎本武揚率いる旧幕府艦隊と合流して「函館戦争」にも参戦。終結直前に新政府に投降しました。

渋沢喜作の実業家としての活躍を解説

大蔵省を経て実業家へ

投降した渋沢喜作は、東京の軍務官糾問所に投獄されます。1872年に赦免されると渋沢栄一の勧めで大蔵省に仕官しました。ヨーロッパから帰国した栄一は、静岡で謹慎していた徳川慶喜のもとで働いていましたが、大隈重信の説得を受けて新政府に出仕。この頃は民部省改正掛を率いて、度量衡の制定や国立銀行条例の制定に関わっていました。また喜作とともに彰義隊や振武軍の一員として新政府と戦っていた尾高惇忠を、富岡製糸場の初代場長に任じています。

しかし栄一は、予算編成をめぐって大久保利通や大隈重信と対立し、1873年には井上馨と共に退官してしまいました。喜作もこれに従って大蔵省を退官。栄一の推薦で豪商の小野組に入りますが、1874年には小野組が破綻してしまいます。

すると喜作は、1875年に深川に居を構えて、渋沢商店を創業。実業家への道を歩み始めます。主に小野組が商圏としていた上信地方や奥羽地方から東京への廻米、委託販売をしながら、荷為替決済や運送保険制度の創設に尽力。1871年に栄一が東京商法会議所を立ち上げた際には、発起人のひとりに名を連ねました。

1880年頃から拠点を横浜に変え、当時日本の主力輸出品であった生糸を扱うようになります。1883年には家督を長男の作太郎に譲り隠居しますが、その後も生糸商売へ関り続けました。しかし1887年に多大な損害を被ることになり、援助の条件として栄一から引退を勧告されると、これに従って実業家としての第一線から退くことになります。

財界人として

商売から足を洗った渋沢喜作は、東京人造肥料会社(後の日産化学)や北海道製麻株式会社の設立に関わり、1896年には東京商品取引所理事長に就任するなど財界人として活動しました。

1903年に公職を退くと、白金台にあった自宅(現在の八芳園)で余生を過ごし、1912年に亡くなります。74歳でした。葬儀には多くの米穀商や生糸商が参列したそうです。

渋沢喜作と彰義隊に関するおすすめ本を紹介!

著者
森 まゆみ
出版日

本書は地域雑誌「谷根千」の編集者として活躍する作者が、取材をしながら各地の古老たちから聞いた彰義隊にまつわる伝説をまとめたものです。

奇兵隊や新選組に比べ、幕府の残党という印象が強い彰義隊。たった1日の戦いで壊滅してしまったこともあり、知名度が高いとは言い難いかもしれません。また頭取だった渋沢喜作が戦争直前に隊を離脱したため、多くの記録が残っているわけではありませんが、地域には彼らに関するさまざまな伝説が残っていて、谷根千や上野の人々にとっては身近な存在なのです。

庶民のたくましさも垣間見える逸話は、思わずくすっと笑えるものもあり楽しめるでしょう。当時の雰囲気に触れられるおすすめの一冊です。

著者
昭, 吉村
出版日

本書の主人公は、輪王寺宮能久親王。彰義隊の頭取だった渋沢喜作らが擁立した宮様で、皇族でありながら新政府からは朝敵とされてしまいます。その後、奥羽越列藩同盟の盟主となり、一時は「東武天皇」として天皇に推戴されたともいわれている人物です。

彰義隊とともに数奇な人生を歩んだ輪王寺宮能久親王。その戦いと敗北は、当時の人々に江戸時代の終焉を実感させる大きな転機となりました。数々の名作を生み出してきた吉村文学の傑作長編。ぜひ読んでみてください。

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