5分でわかる孝明天皇!黒船来航と攘夷思想、和宮問題などをわかりやすく解説

更新:2021.12.10

平安京で生涯を過ごした最後の天皇であり、写真が現存する最初の天皇でもある孝明天皇。一体どんな人なのでしょうか。この記事では、黒船来航や攘夷思想、和宮などを鍵にわかりやすく解説していきます。また理解が深まるおすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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孝明天皇の人生は?即位後まもなく黒船来航、学習院開講、改元など

孝明天皇の人生~即位前~

1831年7月22日、第120代・仁孝天皇の第四皇子として誕生し、煕宮(ひろのみや)と名付けられた孝明天皇。母は羽林家の家格をもつ名門、正親町実光の娘の雅子です。1835年には親王宣下を受けて統仁親王となり、1840年には立太子の儀を受けて皇太子になります。

養育係は近衛忠煕、侍講は儒学者の中沼了三が務めました。近衛忠煕の妻は島津斉興の養女である郁姫、中沼了三の私塾では西郷従道、桐野利秋、川村純義ら多くの薩摩藩士が学ぶなど薩摩藩とのゆかりがある人物たちでした。

1846年2月21日に父の仁孝天皇が崩御。3月10日に践祚(せんそ)し、第121代天皇となります。即位礼は1847年10月31日に執り行われました。

孝明天皇の人生~学習院開講~

孝明天皇が即位直後に行ったのが、祖父や父の遺志を引き継ぎ、学習院を開講することでした。学習院は皇族や公家の子弟のための教育機関です。このような役割を担う機関は1177年に平安京の三分の一が燃えてしまった「安元の大火」によって大学寮が焼亡して以来、存在していませんでした。

学問好きで知られる第119代・光格天皇は、朝儀の復興に熱心で、数百年来途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活に尽力しました。大学寮に代わる公的教育機関の復活も光格天皇が構想したもので、子の仁孝天皇に引き継がれます。仁孝天皇は武家伝奏の徳大寺実堅に命じて幕府と折衝を重ね、1842年には幕府の阿部正弘から承認を得ました。これを受けて御所の東正面にある建春門外にあった開明門院跡に講堂を建設しようとしたものの、構想実現の間近に崩御してしまいます。

崩御翌年の1847年、開講式が執り行われ、1849年には孝明天皇が「学習院」の勅額を下賜したことで、祖父の代から続く悲願が達成されました。学習院では朱子学を中心とする儒学や国学を教え、初代学長には三条実万(さねつむ)が就任。中沼了三らが講師になっています。

孝明天皇の人生~黒船来航と改元~

即位直後の1846年10月19日、孝明天皇は幕府に対し海防の強化と国外情勢の報告を命じ、外国船の来航状況などについて報告を受けます。天皇が幕府に対して勅令を発するのは実に220年ぶりのこと。祖父同様学問好きだった孝明天皇は、「アヘン戦争」などが起こる激動の海外の情勢に大きな危機感を抱いていたと考えられています。

そんなタイミングで日本に来航したのが、ペリー提督率いる黒船艦隊でした。交渉のすえに幕府と「日米和親条約」を締結し、戦争を回避したことに関しては「老中の苦心、主職の尽力」と高く評価しています。

またこの頃は黒船来航だけでなく、大地震の頻発や内裏の炎上などがあり、改元を実施。1848年に元号を「嘉永」から「安政」に改めました。もともと朝廷は新元号に「文長」という案を提示していましたが、幕府によって差し替え。「安政」は、中国の唐の時代に編纂された『群書治要』の「庶民安政」から採用されたものです。

孝明天皇の攘夷思想と、日米修好通商条約の調印勅許問題

孝明天皇の攘夷思想

生涯を通じて攘夷を主張した孝明天皇。一方で時計を愛用するなど、必ずしも西洋文明のすべてを否定していたわけではないといわれています。また幕府を倒そうとしていたわけでもなく、あくまでも朝廷と幕府が協力して攘夷を果たすことを求めていて、「最後の佐幕派天皇」とも呼ばれました。

日米修好通商条約の調印勅許問題

朝廷と幕府の関係に大きな齟齬が生じるきっかけになったのが、「日米修好通商条約」の調印勅許問題です。1858年、阿部正弘に代わって老中首座になった堀田正睦が勅許を求めて参内するのに先立ち、孝明天皇は近衛忠煕や鷹司輔煕、三条実万などと朝議を開き、開国すべきか攘夷すべきか下問しています。孝明天皇が内心で求めていたのは攘夷でしたが、公家たちは結論を出すことはできませんでした。

また政務の補佐にあたっていた太閤の鷹司政通は開国論から攘夷論へ、関白の九条尚忠は攘夷論から開国論へと途中で鞍替えするなど、朝廷上層部は揺らいでいる状態。孝明天皇は九条尚忠に「私の代よりかようの儀に相成り候ては、後々までの恥の恥に候わんや」と、現在の状況を嘆く書を送っていましたが、そんな九条尚忠が開国論に転じて幕府に対する白紙委任を主旨とする勅答案を作成した際は、大きな衝撃を受けたでしょう。

勅答が堀田正睦に示される直前の4月25日、これに反発した岩倉具視や中山忠能らを中心とする中下級の公家たちが、抗議の座り込みを行います。「廷臣八十八卿列参事件」と呼ばれるこの事件を受けて、孝明天皇は勅答を翻し、堀田正睦に対して御三家や諸大名の意見をとりまとめて再奏するよう命じました。ちなみに事件を主導したのは岩倉具視だといわれていますが、孝明天皇の信任が篤く「権関白」とも呼ばれていた久我建通だとする説もあります。

再奏するよう命じられたものの、アメリカから早急な条約締結を求められた大老の井伊直弼は、7月29日に「日米修好通商条約」を調印。これに対し、孝明天皇は譲位の意思を示すなど激怒しました。

戊午の密勅

孝明天皇の譲位を思い留まらせたい朝廷は、幕府に対し御三家と井伊直弼を参内させて経緯を説明するよう求めますが、幕府は「日米修好通商条約」に続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも相次いで修好通商条約を締結。これらは「安政の五カ国条約」と呼ばれました。

これを受けて孝明天皇は、水戸藩に向けて幕政改革を指示する勅諚を下します。「戊午の密勅」と呼ばれるものです。このなかで孝明天皇は、御三家および諸藩が幕府に協力して公武合体を実現し、攘夷を推進するよう幕政改革を実施することを求めます。しかし、朝廷から水戸藩へ直接勅書が渡されたこと、そして幕府を差し置き水戸藩から諸藩へ勅諚の内容を伝える指示が出されたことは大きな波紋を呼び、井伊直弼は幕府の政策に反対する者を弾圧する「安政の大獄」を本格化。密勅に関わった多くの者が処罰されることになりました。

孝明天皇と和宮の降嫁問題を解説

和宮降嫁問題

1860年3月の「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されると、幕閣を掌握した安藤信正と久世広周は公武合体政策を推進。その目玉として取り組んだのが、孝明天皇の異母妹である和宮を第14代将軍、徳川家茂に降嫁させるというものです。

和宮を降嫁させるというアイディア自体は井伊直弼の頃から出ていましたが、当時の和宮はすでに有栖川宮熾仁親王と婚約していたこともあり、孝明天皇は反対していました。15人いた兄弟の多くが幼い頃に亡くなっていたこともあり、孝明天皇は15歳年下の和宮を特にかわいがっていたそうです。幕府は、孝明天皇の希望でもある公武合体を推進する策だとして、和宮の生母である観行院や伯父の橋本実麗を巻き込み説得。孝明天皇は、攘夷を実行して鎖国体制に戻すことを条件に出し、幕府も10年以内に鎖国体制に戻すことを約束しました。

和宮自身は降嫁を辞退しようとしますが許されません。条件として関東に下向する時期を父の仁孝天皇の十七回忌後、大奥でも御所流を貫くなどを提示し、受諾しました。しかし早急な下向を求める幕府の意向により、実際には十七回忌を待たずに京を出立。この時の行列の人数は3万人に達し、御輿の警護に12藩、沿道の警備には29藩が動員されたそうです。

また公武合体政策のために実行された政略結婚でしたが、世間には「降嫁は幕府が和宮を人質にするのが目的」という噂が広がり、過激な尊皇攘夷派の志士が騒ぎを起こすなど、事態は必ずしも孝明天皇の思惑通りには進みませんでした。さらに幕府が朝廷に約束した攘夷をなかなか実行に移さなかったため、幕府を見限った尊皇攘夷派の倒幕運動が加速していきます。

一方で、同い年だった和宮と家茂の夫婦仲は良かったそう。和宮は家茂の死後も江戸に残り、「戊辰戦争」時には新政府軍と旧幕府の交渉を仲介。江戸城無血開城や徳川家の存続に貢献しました。

孝明天皇の死因は?暗殺説も解説

孝明天皇の崩御

あくまでも公武合体を維持し、幕府とともに攘夷を果たすことを主張していた孝明天皇ですが、幕末の混迷が深まるなかで徐々にその影響力を弱めていきました。特に孝明天皇が幕府に第二次長州征伐の勅命を下したことは、すでに幕府を見限っていた人々の反発を招きます。薩摩藩の大久保利通などは「非義勅命は勅命に有らず」と公言しました。

また朝廷の内部にも、岩倉具視をはじめとする孝明天皇と距離を置く者も現れ、1866年10月には、「八月十八日の政変」にて追放した尊皇攘夷派公家の復帰を求める「廷臣二十二卿列参事件」も起きました。

そして翌1867年1月30日、孝明天皇は37歳の若さで崩御します。

孝明天皇の死因と暗殺説

孝明天皇の死因について、主治医の高階経由は天然痘だと診断。医師団が定期的に発表していた「御容態書」によると、順調に回復に向かっていたものの、1月30日に急変したとされています。明治天皇の生母である慶子の父、中山忠能の日記には「御九穴より御脱血」と記されていて、壮絶な死に様だったことが予想できるでしょう。

「第二次世界大戦」が終わるまでは皇室に関わる研究がタブー視されていたこともあり、死因についての解明は進みません。しかし1909年に運動家の安重根が、伊藤博文の犯した罪のひとつに孝明天皇の殺害を数えるなど、死を疑問視する声はあがっていました。

戦後になると歴史学者の禰津正志や孝明天皇の治療にもあたった医師の親族らによって、ヒ素による毒殺説が提唱されます。一方で名城大学教授の原口清らは、そもそも孝明天皇が順調に回復しつつあったとする「御容態書」の記述自体が信憑性に欠けると主張。天然痘、毒殺などいずれの説も根拠には欠けていて、死因の謎は明らかになっていません。

孝明天皇と幕末の様子がわかるおすすめ本

著者
藤田 覚
出版日

傍系である閑院宮家出身であるがゆえに朝儀の再興に尽力し、今上天皇にまで続く近代天皇制の礎を築いたとされる光格天皇。その遺志を継ぎ、幕末動乱のなかで朝廷の権威を高め、公武合体と攘夷を推進して幕府とも巧みに渡りあった孝明天皇。

本書は、近代天皇制の嚆矢になったとも評価されている2人の天皇を主軸に、幕末という時代に天皇という存在がどのような意味をもっていたのかをわかりやすく解説しています。

これほど強い個性をもった面白い人物がいたのかと改めて驚かされるだけでなく、朝廷と幕府の考えの違いなども理解できるおすすめの一冊です。

著者
家近 良樹
出版日
2014-02-11

一会桑と呼ばれ、幕末の京都で大きな存在感を発揮した禁裏御守衛総督の一橋慶喜、京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬。特に松平容保は孝明天皇の信任が篤かったとされている人物です。

本書ではそんな3人を中心に、第二次長州征討でなぜ幕府は敗れたのかという命題に迫ります。テレビ番組での解説や高校教師の経験をもつ作者ならではの文章は読みやすく、幕末の複雑な政治過程を見事に単純化。「薩長同盟は武力倒幕を目指した攻守同盟ではなかった」など、歴史の定説を覆す考えには目から鱗が落ちるでしょう。

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