尾高惇忠はどんな人?渋沢栄一との関係や、富岡製糸場などわかりやすく解説

更新:2021.6.10

「日本資本主義の父」といわれる渋沢栄一に大きな影響を与えた人物のひとり、尾高惇忠。激動の幕末を生き抜き、明治時代には富岡製糸場の初代工場長も務めました。この記事では、そんな彼の人生を時系列でわかりやすく解説。また渋沢栄一との関係を理解できるおすすめの本も紹介していきます。

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尾高惇忠と渋沢栄一の関係は?尾高塾も開講

尾高惇忠と渋沢栄一の関係

1830年9月13日、現在の埼玉県深谷市にあたる下手計村で生まれた尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)。父親は名主・尾高勝五郎保孝、母親はやへで、やへの弟が渋沢栄一の父親にあたる渋沢市郎右衛門のため、尾高と栄一は従兄弟という関係でした。またやへの兄は渋沢文左衛門で、その子が渋沢喜作です。さらに尾高の妹である千代は栄一の最初の妻となり、弟の平九郎は養子になりました。

尾高塾

尾高兄妹が育った生家は江戸時代後期に曽祖父の磯五郎が建てたものとされていて、記念館として現存しています。尾高家は「油屋」を屋号とし、農業だけでなく米穀や菜種油、藍玉、養蚕、塩などの商売もおこなっていました。

幼少期から学問に秀でていた尾高惇忠は、家業を手伝いつつ、17歳の頃に「尾高塾」と呼ばれる塾を開講。近隣の子弟に『四書五経』、『日本外史』、『論語』などを教えていたそうです。10歳年下の栄一や8歳年下の喜作もこの塾に通ったといわれていて、後に有名になる「藍香ありてこそ青淵あり」という言葉も生まれます。「藍香」とは尾高が名乗った号、いわゆる別名で、「青淵」とは栄一のこと。栄一にとって、尾高が大きな存在だったことがわかるでしょう。

尾高惇忠の倒幕計画

高崎城乗っ取り計画

1837年7月、父とともに水戸を訪れた尾高惇忠は、徳川斉昭が「追鳥狩」と称して行った大規模な軍事訓練を目撃します。その勇壮さに心を打たれ、水戸藩の藤田東湖や会沢正志斎(せいしさい)の著書を愛読。尊王攘夷思想に目覚めました。

そして1863年の世の中が尊王攘夷の機運で溢れるころ、渋沢栄一と喜作、弟の平九郎らとともに70人ほどの同志を集め、高崎城を乗っ取って焼き討ちにする計画をたてました。武器を調達し、鎌倉街道を下って横浜の外国人居留地を襲撃しようとしたのです。しかしこの計画は、もう一人の弟である尾高長七郎の反対によって断念することになります。

長七郎は、神道無念流の達人で「天狗の化身」とも呼ばれた老中の安藤信正を襲撃する「坂下門外の変」の謀議に参加するなど、すでに志士として活動していた人物。反対の理由は、そんなプロの目から見て、尾高たちの計画はあまりにずさんなものだったことでした。

水戸天狗党との関りを疑われ、捕縛

1864年6月、尾高惇忠は「水戸天狗党」との関りを疑われ、捕縛されます。「水戸天狗党」は、1829年に水戸藩の第8代藩主である徳川斉脩の後継をめぐり家中が割れた際に、徳川斉昭を支持し、その後登用を受けて藩政改革を主導する立場に立った藤田東湖や会沢正志斎を中心とする一派のことです。

1858年、大老の井伊直弼が天皇の勅許を得ないまま「日米修好通商条約」を調印すると、孝明天皇は水戸藩に対し、幕政改革を促す「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を下します。井伊はこれを問題視して「安政の大獄」を強行。斉昭が永蟄居を命じられるなど水戸藩が厳しい処分を受けるなか、「水戸天狗党」は幕府から下された返納命令に従うべきとする「鎮派」と拒否すべきとする「激派」に分裂しました。

1864年5月、激派の藤田小四郎らが筑波山で挙兵し、「天狗党の乱」が勃発。乱の首謀者だった藤田小四郎は渋沢栄一と交流があり、栄一の従兄弟であり、元々水戸学に傾倒していた尾高も捕らえられることになったのです。家宅捜索も受け、平九郎も一晩拘留、手錠、宿預けの処分を受けました。尾高が赦免されたのは1ヶ月以上経ってからでした。

尾高惇忠の、富岡製糸場の初代場長としての功績

尾高惇忠の幕末

1868年に「戊辰戦争」が勃発すると、尾高惇忠は渋沢喜作が頭取を務める「彰義隊」に、弟の平九郎とともに参加します。その後、喜作と副頭取である天野八郎との関係が悪化し、彰義隊は分裂。喜作が新たに結成した「振武軍」に参加すると、財務責任者を務めました。

「振武軍」が新政府軍と激突した1868年5月の「飯能戦争」で、弟の平九郎が負傷し、自刃。尾高はその後、喜作ととも「函館戦争」まで転戦し、新政府に降伏しました。

富岡製糸場初代場長

1872年、新政府から赦免された尾高惇忠は、大蔵省の官僚となっていた渋沢栄一の推挙で、官営富岡製糸場の初代場長に就任します。生糸が重要な輸出品だったため、富岡製糸場は日本の近代化に大きく貢献すると期待されていました。しかし、なかなか工女が集まりません。当時の富岡製糸場では多くの西洋人技師が働いていて、「工女になると生き血を飲まれる」という噂が広がっていたのです。

そこで尾高は、娘の勇を最初の工女として勤務させ、噂の払拭に努めました。その後は「至誠如神」を経営理念として掲げ、1876年には黒字化を実現。場長を退くと、栄一が創立した「第一国立銀行」の盛岡支店や仙台支店の支配人を歴任しながら、『蚕桑長策』や『藍作指要』などを執筆。製藍法の改良や普及に尽力しました。

尾高惇忠と渋沢栄一の関係がわかるおすすめ本

著者
林田 明大
出版日

本書の作者は、ビジネススクールであるグロービス経営大学院にて長らく必読書に指定されている『真説「陽明学」入門』などを著し、陽明学研究の権威としてられる人物。本書では渋沢栄一を軸に、彼の師となった尾高惇忠や菊池菊城、深い関係をもった井上馨や岩崎弥太郎などについても言及しています。

500以上の企業を創設し、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一ですが、本書では渋沢が「何を」成し遂げたかではなく、「いかにして」成し遂げたかを陽明学と関連づけながら解説。彼らの思想や価値観を学べる、おすすめの一冊です。

著者
今井 幹夫
出版日

1872年、尾高惇忠は自身が用地の選定から建設にまで関わった富岡製糸場の初代場長に就任します。1876年には黒字化を実現し、質の高い生糸を輸出することで日本の近代化を大いに支えました。明治維新が起こったのが1867年と考えると、新政府のスピード感にも驚かされるでしょう。

富岡製糸場は現在も良好な状態で残っていて、赤レンガ造りの巨大な建造物群としても価値があり、当時の功績も含めて2014年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録されました。本書には、尾高が場長を務め、娘の勇が工女として働いていた創業当時から、現在までの姿を伝える写真や絵画をふんだんに盛り込んだカラーグラビアも収録。興味深い工女たちの生活も紹介されています。

建造物としても、歴史的意義としても価値のある富岡製糸場について知ることができるおすすめの一冊です。

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