平岡円四郎はどんな人?徳川慶喜に気に入られ、渋沢栄一と引き合わせた男

更新:2021.5.14

NHKの大河ドラマ「青天を衝け」でも活躍する平岡円四郎。渋沢栄一と徳川慶喜を引き合わせた人物として有名ですが、一体どんな人生を送っていたのでしょうか。この記事では、平岡円四郎が慶喜と出会う前から暗殺されるまで、その生涯をわかりやすく解説していきます。またおすすめの本も紹介するので、あわせてチェックしてみてください。

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平岡円四郎はどんな人?旗本の家に生まれ慶喜に仕えるまで

平岡円四郎の誕生

1822年11月20日、旗本である岡本忠次郎の四男として誕生した平岡円四郎。後に仕えることになる徳川慶喜よりも15歳、そして慶喜と出会うきっかけを作った渋沢栄一よりも18歳年上です。

父親の忠次郎は、勘定奉行配下の役人であるとともに、岡本花亭と名乗る漢詩を得意としていた文化人でもありました。

円四郎は、同じく旗本であった平岡文次郎の養子となり、家督を継承します。文次郎は南会津にあった南山天領の代官を務めていて、飢饉に喘ぐ農民に江戸から取り寄せたじゃがいもの作付けを指導し大成功。名代官として慕われていた人物でした。

徳川慶喜の小姓に

若い頃から聡明だった平岡円四郎は「水戸の三田」と称された水戸藩士の藤田東湖や、幕臣の川路聖謨に才能を認められ、1847年に慶喜が一橋家を相続した際、小姓に推挙されます。

御三卿である一橋家には代々仕える独自の家臣団はなく、旗本や御家人といった幕臣が一代限りで出向するのが慣例でした。幕末史の資料『維新史料綱要』には円四郎の名が数回出てきますが、初めて登場するのは1858年3月の記事です。ここには、慶喜が将軍家の養子になることを渋り、越前藩士の中根雪江や水戸藩士の安島帯刀と自宅で議論したと書かれていて、第12代将軍・徳川家慶の後継として慶喜を推挙する運動の中心に円四郎も関わっていたとわかる内容になっています。

平岡円四郎を襲った「安政の大獄」と、再び慶喜に仕えるまで

将軍継嗣問題をめぐる対立

第12代将軍・徳川家慶の後継には、一橋慶喜ではなく実子の徳川家祥が選ばれ、1853年に第13代将軍・徳川家定となります。しかし病弱だった家定には子が誕生する見込みは薄く、就任直後から将軍継嗣問題が大きな課題となりました。

平岡円四郎は、薩摩藩主の島津斉彬、越前藩主の松平慶永、土佐藩主・山内豊信、宇和島藩主・伊達宗城などから援助を受けながら慶喜を推挙します。大きな後ろ盾となったのは老中首座だった阿部正弘で、阿部が進めた外様大名にも政治参加の道を開く「安政の改革」を支持する者たちが中心となり「一橋派」を形成しました。

その一方で、彦根藩主の井伊直弼、会津藩主の松平容保らは従来の譜代大名を中心とする体制の維持を訴えて、紀州藩主の徳川慶福を擁立。「南紀派」を形成します。

しかし1857年、阿部正弘が39歳の若さで急死したことで一橋派の勢いは削がれ、1858年、慶福が第14代将軍・徳川家茂となりました。

「安政の大獄」によって左遷

大老として幕府の実権を掌握した井伊直弼は、「日米修好通商条約」の勅許をめぐり、朝廷が幕府の頭越しに水戸藩にいわゆる「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を降下したことを問題視。密勅に関わった者や一橋派に対する弾圧をおこないます。この弾圧は「安政の大獄」もしくは「戊午の大獄」と呼ばれました。

皇族、公家、大名から町人に至るまで100人以上が処罰を受けるなか、追及の手は一橋家そのものにも向かい、一橋慶喜は隠居と謹慎を命じられます。この時に平岡円四郎も処罰を受け、小十人組に左遷させられることになりました。

再び慶喜の下へ

その後、甲府勝手小普請という役柄に就いていた平岡円四郎は、1862年に薩摩藩の島津久光が主導した「文久の改革」で一橋慶喜が将軍後見職に就任したのをきっかけに、一橋家に復帰。1863年に慶喜が上洛すると円四郎も随行しています。

京で慶喜は公武合体派諸侯の中心として活動しますが、その活動を大きく支えたのが円四郎でした。慶喜の信頼も篤く、1864年2月には側用人番頭、5月には家老並に任命されるなど一橋家を支える重鎮となります。

平岡円四郎と渋沢栄一の関係は?

平岡円四郎と渋沢栄一の出会い

渋沢栄一を一橋慶喜に引き合わせたことでも知られる平岡円四郎ですが、円四郎と栄一が出会ったのは、円四郎が一橋家に復帰した1862年頃のことです。両者を引き合わせたのは一橋家の家臣で、御用談所調方頭取の川村恵十郎でした。

御用談所調方頭取の仕事は、江戸の道場や塾を回り、有能な人材を探して家臣に推挙するというもの。簡単にいえばスカウトです。当時の栄一は遊学のために江戸にいて、「徳川300年屈指の大儒」とされた海保漁村や、お玉が池にあった千葉道場などで学んでいました。

そんな栄一の噂を聞いた川村が円四郎に推挙。円四郎も栄一を気に入り、従兄弟の渋沢喜作ともども一橋家の家臣に誘ったのです。

しかし、この時2人は仕官の誘いを断りました。実は当時の栄一は勤皇の志士たちと深い交わりを持つなかで尊王攘夷思想に目覚めていて、幕府を倒すことを考えていたのです。1863年には喜作や従兄弟の尾高惇忠らと高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜の外国人居留地を焼き討ちを計画しています。

この計画は未遂に終わったものの、追われる身となってしまった栄一と喜作は再び円四郎から誘われて、その後一橋家に仕官することになりました。

渋沢栄一の平岡円四郎評

渋沢栄一にとって大恩人である平岡円四郎ですが、栄一が一橋家に仕えるようになった直後に非業の死を遂げてしまいました。栄一は後年、円四郎について「この人は全く以て、一を聞いて十を知るという質で、客が来るとその顔色を見ただけで何の用事で来たのかちゃんと察する程」だったと振り返りつつ、「あまりに先が見えすぎて、人の先回りばかりをする人は兎角人に嫌われ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞするもの」と評価しています。

「日本資本主義の父」と呼ばれる栄一にそこまで言わせるほどの切れ者だったとわかる逸話です。

平岡円四郎が暗殺された理由とは

平岡円四郎暗殺

平岡円四郎は1864年6月14日、京の京都町奉行所与力長屋の近くで、江幡広光や林忠五郎らによって暗殺されます。一橋慶喜の請願によって太夫となり、近江守に叙任された2週間後のことでした。

暗殺犯の江幡、林はいずれも水戸藩士で、慶喜の兄である水戸藩主の徳川慶篤に随行して上洛。水戸藩および一橋家警衛世話役として禁門の守衛を担っていた人物です。

暗殺の理由は?

徳川慶篤の上洛は、第14代将軍・徳川家茂の上洛に随行したものでした。征夷大将軍としては実に229年ぶりの上洛で、3月7日に朝廷に参内し、孝明天皇に対し「攘夷」の実行を約束していました。

これに対し尊王攘夷派の人々の士気は上がりましたが、その後3ヶ月以上経っても幕府が攘夷を実行しなかったため、怒りが爆発。彼らは幕府が攘夷を実行するのを妨げているのは公武合体派諸侯の中心にいた一橋慶喜であり、慶喜を唆しているのはその周辺にいる家臣たちだと考えました。

これが暗殺の理由で、平岡円四郎だけでなく中根長十郎や原市之進といった有能な家臣たちも相次いで暗殺されています。慶喜にとっては頭脳とも両腕ともいえる家臣たちを失ってしまい、以降、慶喜の下す判断が精彩を欠くようになった大きな要因のひとつといわれています。

平岡円四郎と渋沢栄一の関係がわかるおすすめ本

著者
露伴, 幸田
出版日

大名の取次を職務とする表御坊主衆と呼ばれる旗本の子として生まれ、尾崎紅葉とともに明治の文学界に「紅露時代」と呼ばれる一時代を築いた幸田露伴。本書は「頼朝」「平将門」「蒲生氏郷」など史伝にも力を注いだ露伴が描いた、渋沢栄一の評伝です。

渋沢栄一の生涯において人生の転換点ともなった人々との出会いが詳細に描かれていて、尾高惇忠や平岡円四郎、一橋慶喜などが彼に与えた影響の大きさがひしひしと伝わってくるでしょう。

その時々の栄一の心情表現も卓越したもので、特に異国の地パリで大政奉還を知った時の慟哭は胸が苦しくなるほど。文豪らしい流れるような筆致も読みやすく、おすすめの一冊です。

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