幕閣を二分する将軍継嗣問題の結果、第14代将軍となった徳川家茂。一体どんな生涯だったのか、性格や和宮との夫婦仲、上洛などを鍵にわかりやすく解説していきます。また、理解を深められるおすすめの本も紹介するので、ぜひご覧ください。
1846年7月17日、紀州藩の江戸藩邸で誕生した徳川家茂(いえもち)。幼名は菊千代といいます。父親は第11代紀州藩主の徳川斉順(なりゆき)で、母親は側室のお操の方です。
斉順は家茂が生まれる2週間ほど前に死去していて、紀州藩の家督は叔父の徳川斉彊(なりかつ)が継承しました。しかし1849年には斉彊も亡くなり、養子になっていた家茂が4歳で家督を継承することに。当時の将軍で、叔父でもある徳川家慶から一字を賜り、慶福(よしとみ)と名乗ります。
家茂が紀州藩主だった期間は9年2ヶ月ですが、この間江戸を離れることはなく、自らの領地に赴く「お国入り」は1度もありませんでした。
徳川家茂が紀州藩主になった頃、紀州藩では隠居中の元藩主である徳川治宝、家老の山中俊信、陸奥宗光の父親として知られる国学者の伊達千広を中心とする「和歌山派」が藩政改革を主導していました。
しかし1852年に治宝と俊信が相次いで死去。代わって「江戸派」と呼ばれていた附家老の水野忠央、安藤直裕らが藩政を握るようになります。忠央は3万5千石と大名並みの所領を持ちながら附家老として陪臣扱いされることを不服とし、尾張藩の成瀬家、竹腰家、水戸藩の中山家ら附家老5家と連携。幕府に対して待遇改善を求める運動をおこないました。
その過程で、第12代将軍の家慶、第13代将軍の家定らに姉妹を側室として送り込むなど大奥への影響力を拡大。彦根藩主の井伊直弼との関係も深めていったのです。
1853年に第13代将軍となった徳川家定ですが、生来病弱で後継者の誕生が望めなかったため、将軍就任直後から次の将軍の座をめぐって継嗣問題が勃発します。
水野忠央は、井伊直弼や大奥とともに「南紀派」を形成して家茂を推挙。一橋慶喜を擁立する「一橋派」と対立します。この争いは1857年に一橋派の後ろ盾でもあった老中首座の阿部正弘が急死し、1858年に直弼が大老に就任したことで南紀派の勝利となり、家茂は13歳で第14代将軍に就任しました。
1862年、徳川家茂はは孝明天皇の異母妹で、同い年の和宮親子内親王と結婚します。もともと和宮は11歳年上の有栖川宮熾仁親王と婚約していたため、孝明天皇、和宮ともども降嫁には反対していました。
しかし「桜田門外の変」で大老の井伊直弼が殺害され、幕閣の中枢を担った安藤信正、久世広周は公武合体政策を推進。和宮降嫁をその目玉政策に据え、交渉を重ねた結果、孝明天皇は幕府が攘夷を実行することや、大奥でも御所風の暮らしを貫くことなどを条件に、和宮を降嫁させることを認めるのです。
ところが実際に大奥に入った和宮は、降嫁の条件だったた御所風の生活を送ることを許されず、姑である天璋院篤姫との関係もうまくいきませんでした。
大奥になかなか馴染むことができなかった和宮ですが、政略結婚で結ばれた徳川家茂との夫婦仲は良好だったと伝わっています。家茂は側室をもつことなく、少しでも時間があれば和宮のもとに足を運び、かんざしや金魚を贈り、雑談に興じました。
1863年に家茂が上洛した際、和宮はその身を案じ、海路ではなく陸路をとるよう進言。長年、降嫁を決心した際に詠んだとされてきた「惜しましな 君と民とのためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも」という歌に関しても、近年の研究では家茂が上洛した際に詠んだ歌とする説が有力です。
後年、和宮の墓所が発掘調査された際は、棺から烏帽子で直垂姿の若い男性が映った写真乾板が発見されています。保存状態が悪く、映っている男性の正体は不明ですが、家茂の写真である可能性が有力です。
1863年、徳川家茂は公武合体のため3000人の将兵を率いて上洛しました。征夷大将軍の上洛は、第3代将軍・徳川家光以来、実に229年ぶりのこと。3月7日には参内し、孝明天皇に対して大政委任に対する謝辞を述べるとともに、攘夷の実行を約束します。
さらに孝明天皇や一橋慶喜とともに賀茂神社を参拝。天皇が御所を公式に出るのは、237年ぶりだったそうです。しかしその後に予定されていた石清水八幡宮への参拝に関しては病を理由として欠席しています。源氏にゆかりのある石清水八幡宮において、孝明天皇から直に攘夷を命じられることを避けるためだったとされ、尊皇派志士たちは激怒。将軍殺害を予告する落首が掲げられるなど不穏な事態となります。
江戸に帰還する際、家茂は襲撃を警戒して海路をとりますが、陸路を選んだ慶喜は実際に襲撃を受けました。
1866年、徳川家茂は大軍を率いて第二次長州征伐に向かう道中、大坂城にて病に倒れ、7月20日に急死します。20歳の若さでした。訃報を聞いた勝海舟は自身の日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記していて、その衝撃の大きさが伝わるでしょう。
出発の際、家茂は和宮に対し、凱旋の土産は何がいいかと質問し、和宮は西陣織を所望していました。この西陣織は家茂の死後、形見の品として和宮に届けられます。縁起物とされる七宝柄の美しい織物で、和宮はその西陣織を「空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」と詠んだ歌を添えて増上寺に奉納。その後この西陣織は袈裟として仕立てられたことから、現在では「空蝉の袈裟」と呼ばれています。
徳川家茂は、羊羹や氷砂糖、カステラ、金平糖、懐中もなかなどを好むスイーツ男子でした。そんな家茂のために和宮はたびたび茶菓子などを差し入れ、ともに雑談を楽しんだと伝わっています。
また、後年家茂の遺骨調査がおこなわれた結果、残存する31本の歯のうち、30本が虫歯に罹っていたことが判明。若くして急死した家茂の死因は虫歯によって体力を奪われるなか、持病の脚気衝心が悪化したものだと考えられています。
徳川家茂には動物好きの一面もありました。幼少の頃は池の魚や籠の鳥を愛でるのを好んだといわれています。将軍となった後は文武両道を修めるため、動物を顧みることも少なくなったそう。ただ和宮に金魚を贈った逸話が残っていて、夫婦で金魚を愛でながら仲睦まじく語り合ってたのではないかと考えられています。
また、フランスやイタリアで蚕の伝染病が流行し、養蚕業が壊滅状態となってしまったと知った家茂は、農家から蚕の卵を買い集めてフランスのナポレオン3世に寄贈。ルイ・パスツールやジャン・アンリ・ファーブルらがこの卵をもとに品種改良をして、病気を克服したという逸話も残されています。
徳川家茂の性格を表す逸話として、戸川安清のエピソードも有名です。彼は書の達人として知られていた幕臣で、70歳を過ぎた老人ながら家茂に書を教えていました。
ある日、講義の最中に突然、家茂が安清の頭の上から墨を摺るための水をかけ、「あとは明日にしよう」と退席してしまいます。同席していた家臣たちが驚くなか、安清は一人涙を流したそう。
家茂の突然の暴挙に涙を流しているのかと思いきや、実はふとした弾みで失禁してしまったことを告白。本来は将軍の前で粗相をしたとなれば厳罰を免れませんが、家茂が咄嗟に水をかけて失禁を隠し、「あとは明日にしよう」と翌日の出仕を命じることで不問に処すことを明確にしたのです。安清の涙は家茂の配慮に対する感激の涙でした。
- 著者
- 篠田 達明
- 出版日
- 2005-05-01
現役の医師である作者が歴代将軍を医学の面から解説した作品です。
徳川家茂に関しては、遺骨から面長で鼻が高く、反り歯であったこと、また多くの歯が虫歯となっていたことから甘党であり、それが若すぎる死の原因となってしまったなどと解説されています。
さらに、これまで180cm以上の偉丈夫とされてきた第8代将軍・徳川吉宗の身長が、本当は155cmほどしかなかったのではないかなど、目から鱗の事実が盛りだくさん。新しい角度で楽しみながら読める一冊です。
- 著者
- 有吉 佐和子
- 出版日
公武合体政策の為、徳川家茂のもとへ降嫁を余儀なくされた和宮。しかし実際に降嫁した和宮は、実は身代わりだったという説があります。
本書はその発端とされるもの。小説である以上フィクションではあるのですが、「もしかしたら」と読者に思わせる筆力は確かなもの。反響も大きく、テレビドラマ化もされました。
作中に通底している「哀しみ」というテーマとも相まって、歴史情緒を掻き立てられる一冊です。