島津斉彬、伊達宗城、山内容堂とともに「幕末の四賢侯」と呼ばれた松平春嶽。「明治」という元号の名付け親でもあるのですが、一体どんな人物だか知っていますか?この記事では、彼の人生や名言などをわかりやすく解説していきます。またおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
1828年10月10日、御三卿のひとつである田安徳川家の第3代当主、徳川斉匡の八男として誕生した松平春嶽。幼名は錦之丞。母親は斉匡の側室のお連以の方で、閑院宮家司だった木村大進政辰の娘です。
幼い頃から聡明だった春嶽は、読書を好み、勉学に励みました。あまりに多くの紙を消費するため、父親の斉匡は春嶽のことを「羊」と呼んでいたという逸話が残されているほどです。
1837年11月、春嶽は伊予松山藩主である松平勝善の養子になることが決定します。しかし1838年7月、越前福井藩主の松平斉善が急死したため、急遽斉善の養子になり、第16代福井藩主になりました。
この時の春嶽は11歳。従兄弟で第12代将軍である徳川家慶から一字を賜り、慶永と名乗ります。一般には春嶽という名が有名ですが、これは慶永が名乗った号のひとつで、他にも礫川、鴎渚などの号も用いていました。
同じく田安徳川家出身で、「寛政の改革」を主導した松平定信を尊敬していた松平春嶽。自らも藩の改革を志向し、1840年には守旧派の頭目だった家老の松平主馬を罷免します。中根雪江、由利公正、橋本左内など有能な人材を身分に関わらず登用し、熊本藩士の横井小楠を顧問として招聘しました。
当時の福井藩には90万両という莫大な借金があり、春嶽は自身の出費を5年間削減するとともに全藩士を対象に俸禄を3年間半減することを打ち出すなど、藩の財政基盤整備に尽力します。木綿の服をまとい、一汁一菜の粗食に耐えるなど、11歳ながら自ら範を示しました。
春嶽が初めてお国入りしたのは16歳の時です。領内を巡察し、貧しい農民が食べていたヒエの団子と菜雑炊を試食。そのまずさに衝撃を受け、領民を救うため藩政改革に取り組むことを決意します。
西洋砲術の導入による兵制の刷新、天然痘の予防接種の導入、藩校である明道館を設立し教育の刷新など数多くの改革をしましたが、特に力を入れていたのが殖産興業です。一揆の原因にもなっていた藩による専売制を廃止し、生糸などの生産を奨励。その結果藩財政は好転し、領民から「春嶽さん」と親しまれる名君になりました。
松平春嶽が幕政に関わるようになったきっかけは、1853年のペリー来航です。もともと水戸藩の徳川斉昭と近しい関係にあった春嶽は攘夷を主張していましたが、老中首座である阿部正弘や薩摩藩主である島津斉彬などと交流を深めるなかで開国派へと転じました。
また第13代将軍徳川家定の後継をめぐる将軍継嗣問題においては、一橋慶喜を擁立する「一橋派」の重鎮になります。「一橋派」は慶喜が将軍になり、春嶽が大老として支える構図を描いていました。
しかし大奥の支持を得た彦根藩主の井伊直弼が家定の指名で大老に任じられ、紀州藩主の徳川慶福を第14代将軍としたため、彼らが描いた政権構想は実現しませんでした。
1858年7月、井伊直弼が孝明天皇の勅許を得ないまま「日米修好通商条約」を調印すると、松平春嶽は徳川斉昭、慶篤親子と、尾張藩主の徳川慶恕らとともに江戸城に登城して抗議します。しかし不時登城の罪を問われて隠居・謹慎の処罰を受けることになりました。その結果、福井藩主の座は越前松平家の分家で、越後糸魚川藩主だった松平茂昭が継ぐことに。
さらに井伊は「安政の大獄」を主導し、「一橋派」を弾圧します。春嶽の腹心だった橋本左内はこの時に処刑されてしまいました。
「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されると、松平春嶽の罪は赦され、幕政への参加を認められるようになりました。1862年には急死した島津斉彬の弟である久光が薩摩兵を率いて上洛。勅使を奉じて江戸へ下り、幕政改革を主導します。これは「文久の改革」と呼ばれ、一橋慶喜は将軍後見職に、春嶽は政事総裁職に任じられ、一橋派が復権しました。
1863年には慶喜とともに上洛しますが、尊皇攘夷派の勢力が強い京では思うように活動することができません。意見が対立し慶喜との関係も悪化して、春嶽は越前へと戻り、政事総裁職からも罷免されてしまいました。
1863年6月、福井城に集められた全藩士の前で「挙藩上京計画」が発表されます。これは熊本藩出身の横井小楠の主導で進められていた計画で、松平春嶽や松平茂昭を筆頭に、「一藩君臣再び国に帰らざる覚悟」で藩の全兵力を率いて京を制圧し、朝廷と幕府の対立を武力で仲裁し、改革を進めようとするものでした。
孝明天皇の了承も得ていたとされ、薩摩藩や熊本藩、加賀藩などの協力を得る予定でしたが、藩内外の反対派の活動や他藩との連携不足で、計画は直前で中止になってしまいます。
その後、京では会津藩と薩摩藩の主導で「八月十八日の政変」や「禁門の変」が発生。尊王攘夷派の後ろ盾だった長州藩の勢力は一掃され、朝廷主導のもと、「公武合体政策」の集大成ともいうべき参預会議が設置されました。
参預に任じられた春嶽は上洛し、会議に加わります。しかし長州藩の処分問題や横浜の鎖港問題をめぐって徳川慶喜と春嶽、島津久光、伊達宗城らが対立。わずか数ヶ月で瓦解してしまいました。
1867年5月、第15代将軍である徳川慶喜と、摂政だった二条斉敬に対する諮詢機関として「四侯会議」が開かれ、松平春嶽も参加することになりました。この会議は薩摩藩の島津久光が主導したもので、朝廷や幕府が設置した正式なものではありませんでしたが、それらに準ずるものとして扱われます。
議題は参預会議とほぼ同じで、長州藩の処分問題と兵庫の開港問題です。薩摩藩は幕府の権威を抑え、朝廷と雄藩連合による合議でこれに代えることを目論んでいましたが、慶喜の巧みな交渉術によって失敗。かえって幕府の権威を一時的に回復させてしまうことになりました。
その結果、薩摩藩は従来の姿勢を転換し、武力討幕路線へと舵を切ります。一方で土佐藩の山内容堂は幕府擁護論へと傾き、慶喜に対して大政奉還を建白。春嶽もこれに同意しました。
大政奉還後には徳川宗家を筆頭に公議政体体制を樹立する予定でしたが、1868年1月3日に明治天皇が「王政復古の大号令」を発し、新政府が成立した際、慶喜は政府中枢から排除されてしまいました。
同日に京都御所で開かれた小御所会議で、春嶽や容堂らは慶喜の出席を求めますが、岩倉具視や大久保利通はこれを拒否したうえで、慶喜に対し辞官納地を求めます。これに旧幕府側が反発し「戊辰戦争」へと発展していくことになるのです。
明治維新後、春嶽は内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などの要職を歴任した後、1870年に官を辞し、1890年に肺水腫のため亡くなります。享年63。墓所は東京・品川の海晏寺にあります。
幕末の四賢侯と讃えられた松平春嶽は、多くの名言を残しているので紹介しましょう。
「明治」
明治という元号は、春嶽が命名したものです。春嶽がいくつか候補を出し、明治天皇がくじを引いて決定したそう。「聖人南面して天下を聴き、明に向かいて治む」という言葉に由来しています。
「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ」
四賢侯と讃えられながら、「私には才知も謀略もなく、優れているところもない」と謙虚だった春嶽。「多くの人の言葉に耳を傾けて良い意見に従う」と語り、身分に問わず有能な人材を登用しました。老婆の話を聞いて改革を決意したとされるエピソードもその性格をよく示しています。
春嶽は自身が四賢侯と呼ばれることに対しても、「本当の意味で賢候だったのは島津斉彬公お一人」と語っていました。柔軟な考え方の持ち主で、当時日本にはなかったりんごをアメリカから導入し、初めて植え、育てたという逸話も伝えらえています。
- 著者
- 葉室 麟
- 出版日
明治維新の影の立役者として活躍した松平春嶽を主人公にした、長編小説です。
作者は『蜩ノ記』で直木賞を受賞した葉室麟。時代小説の名手として知られています。同じく直木賞作家でもある東山彰良が「葉室さんは作品に自身の美学や哲学を込めていた」と語るとおり、本書にも美学が貫かれていて、タイトルは春嶽の辞世の句「なき数に よしや入るとも 天翔けり 御代をまもらむ すめ國のため」から用いられました。
幕末の動乱のなかで、名君と讃えられた春嶽。時代のうねりに翻弄されながらも、その存在感の大きさから目を離せません。春嶽について知りたい人はもちろん、幕末の様子を小説で読みたい人にもおすすめの一冊です。
- 著者
- ["ひろみ, 後藤", "健志, 中島", "耕三, 加来"]
- 出版日
松平春嶽の生涯を漫画で解説した作品です。
御三卿のひとつ田安徳川家に生を受け、若くして福井藩主となった春嶽。老獪なイメージを抱かれがちですが、幕末の動乱時にはまだ30代だったことにあらためて驚かされるでしょう。
身分にとらわれず優秀な人材を登用し、坂本龍馬のような脱藩浪士とも交流をもち、早くから開国論や大政奉還を唱えた先見の明の持ち主。西郷隆盛や大久保利通などと比べると地味な印象がありますが、彼の人生を追っていくと幕末から明治にかけて欠かせない人物だったとわかるでしょう。
漫画なので読みやすく、大人にも子どもにもおすすめの一冊です。