NHK大河ドラマ「青天を衝け」に登場し話題になった洋式砲術家の高島秋帆。この記事では彼の生涯や渋沢栄一との関係などを焦点にわかりやすく解説していきます。またおすすめの関連本も紹介するのでぜひチェックしてみてください。
1798年9月24日、長崎町年寄の高島茂起の三男として生まれた高島秋帆。高島氏は近江源氏佐々木氏の末裔で、近江国高島郡を拠点として鎌倉幕府や室町幕府に仕える名門の家柄でした。戦国時代には六角氏の傘下に入りますが、織田信長によって六角氏が滅ぼされた後に一族は離散。1574年には高島茂春が長崎に移住します。その後、長崎の指導者のひとりに名を連ね、茂春の子・茂定以降、長崎町年寄を世襲するようになりました。
秋帆は、藤沢東畡の私塾「泊園書院」で学問をします。当時の泊園書院は大阪最大の私塾で、後の外務大臣となる陸奥宗光、武田薬品工業の創業者である武田長兵衛、森下仁丹の創業者である森下博などを輩出しています。
1817年、長兄の弥三郎が亡くなり、次兄の碩次郎が町年寄を務める久松家の養子となっていたことから、秋帆が家督を継承しました。町年寄見習となった秋帆が任されたのが出島台場です。もともとは1808年に起こった「フェートン号事件」をきっかけに設置されたもので、父の茂起が担当していました。秋帆は父とともに砲術家の坂本孫之進から日本式の砲術である荻野流砲術を学びますが、西洋式砲術との格差に愕然とすることになるのです。
鎖国体制下だった江戸時代、長崎は出島を介して西洋と繋がる唯一の都市でした。高島秋帆は日本の砲術と西洋の砲術との間に大きな格差があることを憂い、「ナポレオン戦争」への従軍経験もあるオランダ人のスチュルレルなどからオランダ語や洋式砲術を学びました。
また1824年には、兄の久松碩次郎がフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと「鳴滝塾」を開設。時の長崎奉行の高橋重賢に掛けあい実現しましました。
さらに秋帆は町年寄が認められていた「脇荷貿易」と呼ばれる特権を利用し、父や兄の協力のもと私費で武器や西洋の書物を買い集めます。1834年には3ポンド野砲の弾丸100発、歩兵銃20挺、1835年には歩兵銃10挺、3ポンド砲弾用鋳型3個、1836年には歩兵銃20挺、騎兵用ピストル2挺などを注文した記録が残っています。
そうして1834年頃には高島流砲術を完成させ、同年、肥前佐賀藩の武雄領主だった鍋島茂義が入門。翌年には免許皆伝を与え、自作第一号となる青銅製のモルチール砲を献上しました。秋帆の弟子のな中では、下曽根信敦、江川英龍、村上範致の3名が特に有名で、「高島門下の三龍」と呼ばれたそうです。
現在の東京都板橋区にある「高島平」は、団地が立ち並ぶベッドタウンとして有名です。この地名は高島秋帆にちなんで名付けられました。
1841年6月27日、当時は武蔵国徳丸ヶ原と呼ばれていたこの地で、秋帆は裁着袴を履いて筒袖上衣をまとい、頭には黒塗り円錐形の銃陣笠という斬新な姿の兵を率いて日本初となる洋式砲術と洋式銃陣を用いた公開演習をおこないます。
この演習の結果、秋帆は砲術の専門家として幕府に重用されることとなり、特に老中の阿部正弘からは「火技中興洋兵開祖」と称賛されました。
しかし高島秋帆の高島流砲術が万人に受け入れられたわけではありません。特に老中の水野忠邦の腹心だった鳥居耀蔵から嫌悪されました。鳥居は大学頭を務めた儒学者の林述斎の子で、江川英龍と江戸湾測量をめぐって対立したこともあり、大の蘭学嫌いとして有名でした。
「妖怪」「蝮の耀蔵」という異名を持つ鳥居は、「秋帆が密貿易をしている」と噂を流して陥れ、1842年に秋帆は長崎奉行の伊沢政義によって逮捕され、高島家は断絶処分を受けます。逮捕された秋帆は武蔵国岡部藩にて幽閉されました。
1853年、ペリーの来航をきっかけに高島秋帆は罪を許され、釈放されます。幽閉中に攘夷派から開国派へと考えを改めていた秋帆は『嘉永上書』を幕府に提出し、開国と通商を主張しました。
その後、阿部正弘が「安政の改革」の一環として設置した講武所の支配および師範として幕府軍の砲術訓練を指導。1864年に教練書『歩操新式』を発表した後、1866年に亡くなります。享年69。墓所は東京都文京区の大円寺と、長崎県長崎市の晧台寺にあります。
高島秋帆は日本人で初めて「号令」を用いた人物だといわれています。
秋帆に砲術を教えたスチュルレルは、日本に対するオランダの影響力を強化するという本国の施策に従い、秋帆に対して号令は「オランダ語」でおこなうよう条件を出していました。そのため、高島流砲術では「マルス(進め)」「ハルト(止まれ)」「ペトロン(前へ習え)」「セット(狙え)」「ヒュール(撃て)」などオランダ語の号令が用いられています。
これらの号令やオランダ語由来の軍事用語の多くは幕末から明治にかけて徐々に日本語に翻訳され、ほとんど姿を消しました。しかし、背嚢を意味するランセルがランドセルとなるなど、日常生活で用いられる外来語として定着したものも存在しています。
大河ドラマ「青天を衝け」では、高島秋帆が第1話から登場し、渋沢栄一と出会う様子が描かれました。
秋帆が幽閉されたのは岡部藩。そして、栄一の生まれ故郷である血洗島も岡部藩領にあります。そのため岡部藩の陣屋へと送られる秋帆の姿を当時7歳の栄一が目撃した可能性は否定できません。しかし史実でわかっている限り、秋帆と栄一の間に直接的な関りはなく、「青天を衝け」で描かれた出会いは想像の産物です。
ただ間接的な繋がりはあります。1922年、秋帆の門人で、東京兵器本廠長などを務めた押上森蔵を中心に「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」を建立した際、その趣旨に賛同した渋沢栄一が200円の寄付を贈っているのです。
この碑は現在、秋帆ゆかりの地である東京都板橋区の登録有形文化財に指定されています。
- 著者
- 広瀬 隆
- 出版日
江戸時代の日本というと、鎖国のイメージもあり、知識や文化において西洋に大きく劣っていたと考えられがちです。しかし実際には長崎を通じて、西洋の最先端の科学や文化が日本にもたらされていました。
本書はそんな長崎を中心に、天才・俊才・奇才と呼ばれた人々がどのように西洋の科学や文化を受容していったのかを解き明かしていきます。「火技中興洋兵開祖」と讃えられた高島秋帆もそのなかのひとり。日本に西洋式砲術を導入した功績は否定のしようもありません。
筆者の豊かな知識に裏付けされた文章は読み応えがあり、読み進めるほど目から鱗が落ちるでしょう。おすすめの一冊です。
- 著者
- 佐々木 譲
- 出版日
世界遺産にも登録されている韮山反射炉を築いたことで有名な伊豆韮山代官の江川英龍。高島秋帆から西洋砲術を学び、日本に広めた人物でもあります。
本書はその卓越した先見の明と行動力で「世直し江川大明神」と讃えられた江川英龍の生涯を描いた一代記。榎本武揚を描いた『武揚伝』、中島三郎助を取り上げた『くろふね』とともに幕臣三部作と呼ばれています。
幕末というと新政府側の人間が注目されることが多いですが、幕府側にもこれほど優秀な人物がいたのかとあたらめて驚かされるでしょう。