5分でわかる山内容堂!大政奉還や坂本龍馬との関係、大酒飲みの逸話などを解説

更新:2021.8.20

「幕末の四賢侯」のひとりとして知られる土佐藩主の山内容堂。どのような生涯を送ったのか、わかりやすく解説していきます。安政の大獄、大政奉還と激動の時代を乗り越えた彼には、多くの逸話も残されていますよ。またおすすめの関連本も紹介するので、最後までチェックしてみてください。

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山内容堂ってどんな人?「幕末の四賢侯」といわれた土佐藩主

山内容堂の生い立ち

1827年11月27日、土佐藩主山内家の分家である南邸山内家に生まれた山内容堂。幼名は輝衛、後に豊信と名乗ります。容堂は隠居後に用いた号です。

山内氏は藤原北家秀郷流の備後山内氏の分家で、戦国時代には尾張国守護代の岩倉織田氏に家老として仕えていました。しかし、当時黒田城主だった山内盛豊が、織田信長に居城を攻撃されて自害。一族は流浪の身になります。その後、盛豊の子である山内一豊が、織田信長や豊臣秀吉に仕えて遠江国掛川城主になりました。「関ヶ原の戦い」では徳川家康の東軍にいち早く居城を提供し、その功績で土佐一国を与えられています。

容堂の生まれた南邸山内家は、10代藩主・山内豊策の子であり容堂の父親でもある豊著を初代とする分家で、五家あった分家のなかではもっとも序列が低く、石高は1500石でした。しかし1848年に、第13代藩主の山内豊熈(とよてる)、第14代藩主の山内豊惇(とよあつ)が相次いで亡くなり、跡を継ぐべき山内豊範がまだ3歳と幼なかったことから、容堂が22歳で第15代藩主に就任することになりました。

藩主時代

土佐藩主になった山内容堂は、従来の門閥を重んじる藩政を改めようと「新おこぜ組」と呼ばれる改革派を登用します。1853年には「新おこぜ組」の中心人物だった吉田東洋を参政に任じ、門閥打破、軍制改革、富国強兵、殖産興業、開国貿易などを目的とする諸改革を実施しました。

改革の担い手となった「新おこぜ組」には、吉田東洋の義理の甥である後藤象二郎をはじめ、板垣退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎など優秀な若手藩士が集っていて、土佐藩の動向にも大きな影響を与えていきます。

安政の大獄で隠居

山内容堂は、薩摩藩主の島津斉彬、宇和島藩主の伊達宗城、越前福井藩主の松平春嶽らと交流を深め「幕末の四賢侯」と呼ばれました。4人は老中首座だった阿部正弘に対し、ペリー来航によって動揺した幕府を立て直すための幕政改革を訴えるとともに、第13代将軍徳川家定の後継をめぐる将軍継嗣問題では「一橋派」を形成して一橋慶喜を推挙。紀伊藩主の徳川慶福を推す井伊直弼ら「南紀派」と対立しました。

幕閣を二分する対立は井伊直弼が大老に就任したことで「南紀派」の勝利に終わり、敗れた「一橋派」は「安政の大獄」で弾圧されることに。容堂も謹慎を命じられ、藩主の座を豊範に譲ったうえで、隠居の身になりました。

山内容堂と大政奉還、武市半平太の処刑

酔えば勤皇、覚めれば佐幕

山内容堂ら「幕末の四賢侯」たちは、朝廷と幕府が協力あい幕藩体制を強化しようとする「公武合体」を唱えます。

しかし土佐藩内では尊皇攘夷派が台頭しつつありました。その中心人物が、武市半平太です。彼は長州藩の桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らと交流があり、吉田松陰が唱えた「草莽崛起」の思想に共感。攘夷と挙藩勤王を掲げる「土佐勤王党」を結成し、藩内での影響力を高めていました。土佐勤王党には坂本龍馬や中岡慎太郎、土方久元らも名を連ねています。

土佐藩内では、山内一豊に従っていた山内家の家臣が上級藩士として君臨する一方で、もともと土佐を支配していた長宗我部家の旧臣が下級藩士として虐げられてきたという歴史的な対立構造がありました。藩主一族や上級藩士にとって徳川家は土佐藩主に封じられた恩義ある存在であるのに対し、下級藩士にとっては主君を滅ぼされた因縁の相手。その構図は「関ヶ原の戦い」から260年以上経過しても根強いものがあったのです。

そのため、下級藩士を中心とする土佐勤王党は上級藩士を中心とする公武合体派と対立。特に公武合体派の中心人物だった吉田東洋の先祖、吉田正義は、長宗我部家の家臣であったにも関わらず一豊から上級藩士として迎えられた経緯があり、下級藩士からの反発を招きやすい人物でした。

容堂は公武合体を真意としつつも土佐勤王党の勢いに押され、対立を止めることできず、世間からは「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されてしまいます。

1862年5月6日、土佐勤王党員が吉田東洋を暗殺。武市半平太が藩政を掌握することになりました。

八月十八日の政変と武市半平太の処刑

武市半平太は尊王攘夷派の公家である三条実美らとも図り、土佐藩に対する在京警備や国事周旋の勅命降下を工作。土佐藩を中央政界に参画させることに成功します。

この頃の京では過激な尊王攘夷派が「天誅」と称して幕府の役人や佐幕派と見られる者たちを暗殺する事件が多発していました。半平太が直接指示した事件は確認されていないものの、少なからず関りはあったと考えられています。

1862年10月、幕府に対して攘夷を促すために、三条実美と姉小路公知が勅使として派遣された際、半平太は土佐勤王党の同志を率いて警衛役を務め、江戸城では第14代将軍徳川家茂にも拝謁。この頃が土佐勤王党や半平太にとっての絶頂期でした。

1863年に入ると、山内容堂は徐々に土佐勤王党に対する弾圧を始めます。8月18日、薩摩藩と会津藩が「八月十八日の政変」で長州藩や三条ら尊王攘夷派の公家を京から一掃すると、土佐勤王党の勢力は衰え、公武合体派が藩政を奪還しました。

9月21日には半平太ら土佐勤王党の幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は投獄されます。約1年8ヶ月の獄中生活の間、半平太は吉田東洋暗殺事件に関わった者を明かすようにと拷問され続けましたが、口を割ることはありませんでした。

1865年7月3日、業を煮やした容堂は白状させることを諦め、切腹を命じます。刑は即日執行され、半平太は実際に成功したものがひとりもいないとされる「三文字割腹の法」で切腹を遂げました。37歳でした。

大政奉還

土佐勤王党を壊滅させ、藩政を掌握した山内容堂。しかし1866年1月に薩長同盟」が成立するなど、時代は明治維新へと向けて大きく動き出していました。

土佐藩内では板垣退助、谷干城らを中心とする派閥と後藤象二郎らを中心とする派閥で藩論が分裂。板垣らは1867年5月、慎太郎の仲介のもとで薩摩藩の西郷隆盛と会見し、武力討幕を行うための「薩土密約」を締結します。

一方で後藤象二郎は龍馬の仲介で薩摩藩の小松帯刀と会い、大政奉還を進める「薩土盟約」を締結しました。武力討幕を目論む薩摩藩が平和的に体制転換を図ろうとする大政奉還に同意したのは、第15代将軍の徳川慶喜がこれを拒絶するという読みがあったためです。そのため、薩土盟約には土佐藩の率兵上洛と将軍職の廃止が明記されていました。

山内容堂はこれに反発。大政奉還には同意したものの、率兵上洛と将軍職の廃止には反対し、慶喜に提出する建白書から条項を削除させます。これによって薩土盟約は崩壊しました。

老中の板倉勝静を通じて容堂からの建白を受けた慶喜は、薩摩藩の予想に反して大政奉還を受け入れます。討幕を目指す薩長同盟は機先を制せられる形となり、容堂は慶喜を中心とする公議政体構想の実現に奔走しました。しかし構想が実現する目前、討幕派が王政復古のクーデターを起こし、新政府を成立させたことで構想は途絶え、新政府軍と旧幕府軍は「戊辰戦争」へと突入していくのです。

山内容堂と坂本龍馬の関係は?

山内容堂と坂本龍馬

藩主である山内容堂と、下級藩士にすぎない坂本龍馬との間に面識はありません。しかも龍馬は容堂の右腕だった吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の一員でした。事件が起こる前に土佐勤王党を脱退し、土佐藩も脱藩していますが、当時の脱藩は重罪です。しかし容堂はこれを厳しく追及することなく、脱藩を見逃してしまった龍馬の家族を咎めることもありませんでした。

その後、龍馬は勝海舟と出会って海軍操練所の設立に尽力。亀山社中を作ったり、薩長同盟の締結に貢献したりと幕末の政局における重要人物へと成長していきました。

土佐勤王党を壊滅させた後、参政の後藤象二郎を中心として武器弾薬の購入を進めていた土佐藩は、通商や航海の経験があり薩摩にも長州にも深い人脈を持つ龍馬に着目。1867年1月13日には龍馬と後藤が会談し、脱藩の罪が赦免されます。これを機に龍馬が設立した亀山社中は土佐藩の外郭団体となり、後の海援隊となりました。

船中八策

1867年6月9日、山内容堂が出席する四候会議へと向かう船の中で、坂本龍馬は後藤象二郎に新たな国家体制の基本方針を示した「船中八策」を示します。後藤はこれをもとに容堂に対して大政奉還を提言。これを受け入れた容堂が慶喜に建白書を出したことで、大政奉還が成就します。

大政奉還、上下両院による議会政治、有能な人材の登用、不平等条約の改定、憲法制定、海軍力の増強、御親兵の設置、金銀交換レートの変更という8項目からなる「船中八策」は、勝海舟や、大久保一翁、横井小楠、由利公正、赤松小三郎、真木和泉など先進的な考えをもつ人々の意見をまとめたもの。容堂にとって龍馬は土佐藩の外から進んだ考えを取り込むための大きな窓口の役割を果たしたといえるでしょう。しかし後藤が自分の意見として「船中八策」を提言したこともあってか、容堂は龍馬の発案であることを知りませんでした。

後年、海舟から龍馬の話を聞く機会がありましたが、容堂は「一向に存じませんな」とそっけなく、興味も示さなかったという逸話が残っています。

山内容堂の性格や逸話を紹介!武芸に秀でた酒豪

容堂という号

山内容堂にはその性格を示す逸話が多く残されています。「容堂」という号にまつわる逸話もそのひとつ。「安政の大獄」によって藩主の座を追われた容堂は、はじめ「忍堂」と名乗っていました。しかし水戸藩の藤田東湖から「指導者はただ忍ぶだけではなく、多くの衆の意見を容れることが大切だ」と言われると深く同意し、「容堂」と改めたそうです。

武芸の達人

山内容堂は武芸の達人としても有名です。北条流軍学、吉田流弓術、大坪流馬術、以心流槍術、無外流剣術などを学んでいました。特に居合術の腕前に秀でていたとされ、14歳で長谷川流の目録を得たほど。板垣退助はその様子を「七日七夜の間休みなしの稽古を続けた」と表し、「あまりの烈しさにみな倒れて、最後まで公のお相手をしたものはわずか二人か、三人にすぎなかった」と振り返っています。

鯨海酔候

山内容堂は酒豪として知られ、「鯨海酔」とも名乗っていました。明治維新後は、「綾瀬草堂」と名付けた別邸で隠居生活を送りつつ、連日のように両国や柳橋で豪遊し、家産が傾くほど。しかし容堂自身は「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」と意に介さなかったとされています。

山内容堂に関するおすすめ本

著者
司馬 遼太郎
出版日

本書は「幕末の四賢侯」のうちの3人、土佐藩の山内容堂、薩摩藩の島津斉彬、宇和島藩の伊達宗城と、「肥前の妖怪」と呼ばれた佐賀藩の鍋島閑叟を取りあげ、それぞれを主人公とする物語を収めた短編集です。

山内容堂を主人公とする「酔って候」では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されるほど勤王と佐幕の間で揺れ動く容堂を見事に描写。時にはその姿を「痛烈な喜劇」「道化の役回り」と表現するなど手厳しさも感じ、文章からは司馬遼太郎ならではの歴史への視線を感じられるでしょう。

短編といえどその内容は濃厚で、読みごたえのある一冊です。

著者
河合 敦
出版日

江戸時代、その数が300ほどだったことから俗に「三百諸侯」とも呼ばれる各地の藩を収めていた大名たち。彼らの生活は、廃藩置県によって大きく揺らぐことになりました。「戊辰戦争」の勝敗にかかわらず領地は没収され、家臣は解散、東京住まいを強制されるなど容赦のない改革です。

本書はそんな改革を経た後に、かつての殿様たちがどのような生活を送ったのかを描いた作品。山内容堂については、新政府にて内国事務総裁に就任しつつも1869年には官を辞し、亡くなるまで豪遊を続けたと説明されています。

ただ必ずしもすべての元殿様が容堂のように暮らせたわけではなく、脇役に追いやられた者も数知れず。徳川の世を生きた彼らの晩年の様子はまるで歴史の裏話のよう。興味深く読める一冊です。

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