渋沢栄一とともにパリ万博に参加した徳川昭武。徳川慶喜の弟で、水戸藩最後の藩主でもあります。彼の存在は、幕末、そして明治日本にどのような影響を与えたのでしょうか。この記事では、徳川昭武の生い立ちやパリ訪問、隠居後の生活などを中心にわかりやすく解説していきます。またおすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。
ペリー来航の約3ヶ月後である1853年10月26日、水戸藩第9代藩主の徳川斉昭の18男として徳川昭武が誕生しました。幼名は余八麿。母は万里小路建房の娘で、斉昭の側室だった睦子です。長兄で水戸藩第10代藩主となる慶篤とは21歳差、第15代将軍となる慶喜とは16歳差でした。
江戸にある水戸藩中屋敷で産まれた昭武は、生後半年で水戸に移り、養育されます。しかし、1863年には京で病に伏した同母兄の松平昭訓の看病という名目で上洛し、慶篤の補佐役を務めました。
「禁門の変」や「天狗党の乱」の際は、若年ながらも一軍の将として出陣。激動の時代に身を投じることとなります。
1867年、徳川昭武は御三卿のひとつである清水徳川家を相続します。清水徳川家は第5代当主の斉彊(なりかつ)が紀州藩主に転じて以降、20年にわたって当主不在の状態でした。さらに相続と同時に、慶喜から将軍名代としてパリ万国博覧会に参加することも命じられます。
昭武が清水家を継承した理由については、将軍名代として派遣する以上、箔をつける必要があったとする説が有力です。また慶喜は実子がなかったため、昭武を自らの後継候補に考えていて、清水家を継がせることで実家である水戸藩の影響力を削ごうとしたのではないかという説もあります。
1867年4月1日から10月31日まで開催されたパリ万国博覧会は、ナポレオン3世の勅令にもとづいて計画されたものでした。パリ市内に48ヘクタール、ビヤンクールに21ヘクタールの土地が用意され、メインパビリオンは長さ490m、幅380mと巨大なもの。
42ヶ国が参加し、会期中には約1500万人もの人々が来場しました。電気にまつわる出展作品を見て、フランスの小説家ジュール・ヴェルヌが『海底二万里』の着想を得たというエピソードも有名です。
日本が参加した初めての国際博覧会でもあり、幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展しました。
パリ万博以前から、浮世絵や工芸品などの日本美術はヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えていました。この風潮は「ジャポニズム」と呼ばれ、特にゴッホやクロード・モネ、ドガ、ルイ・ヴィトンなどに大きな影響を与えたそうです。
パリ万博では「和紙」「絹製品」「漆器」の3つが最高評価のグランプリを獲得。この風潮に一層拍車をかけることとなります。フランスの翻訳家ルイ・ファビュレが「日本は巨人のような大股で世界に登場し、今日世界中の眼がこの国に注がれている」と著書に記すなど、日本の文化や芸術はヨーロッパの人々の耳目を引く存在となっていきました。
また渋沢栄一をはじめ、随行した人々が日本に持ち帰ったヨーロッパの先進的な技術は、その後の日本の近代化に大きく貢献します。
徳川昭武を将軍名代とする訪欧使節団の責任者を務めたのは、若年寄格・勘定奉行格・外国奉行の向山一履(かずふみ)です。そのほか、ヨーロッパ渡航の経験がある田辺太一や杉浦譲、横浜仏語伝習所の1期生である保科俊太郎、外国奉行としてフランスと幕府の橋渡し役を担った栗本鋤雲(じょうん)、随行医の高松凌雲などが参加していました。この一行に、渋沢栄一も会計係として加わっています。
また幕府の人間だけではなく、佐賀藩の佐野常民、会津藩の海老名季昌、横山常守など諸藩の藩士、世話係として同行するフランス領事レオン・デュリー、民間人としては日本唯一の出品者だった商人の清水卯三郎なども参加していました。
フランスの蒸気船アルフェー号に乗って横浜を出発し、香港、サイゴン、シンガポール、セイロンなどを経由して約50日間かけてパリに到着します。
パリに到着した徳川昭武は、ナポレオン3世に謁見。パリ万国博覧会を訪問し、その後もパリに残って留学生活を送りました。昭武を送り出した徳川慶喜は留学期間について「3~5年、もしくはそれ以上の期間」と命じていて、昭武に相当の期待を掛けていたことがわかるでしょう。
昭武はフランス政府から派遣された陸軍中佐レオポルド・ヴィレットに師事しながら、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどのヨーロッパ各国を歴訪。オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアに謁見しています。
1868年1月、徳川昭武は外国奉行の川勝広道からの連絡を受け、日本で「大政奉還」がおこなわれたことを知ります。政府を代表する存在でなくなったことから使節団の立場も微妙なものとなり、滞在費用にも事欠くようになりました。
5月15日には新政府から帰国命令が届き、昭武は帰国することに。最後はヴィレットとともに、ノルマンディーのカーンやロワール川河口のナントなどをめぐる10日間の旅をしました。パリに戻ると、兄の慶篤が死去し、昭武が水戸藩の次期藩主に指名されたという報せが届きます。これを受けて昭武は、9月4日、イギリス船ペリューズ号でマルセイユを出港。11月3日に日本に到着します。
ちなみに昭武は、留学中の生活を『徳川昭武幕末滞欧日記』に纏めていました。そのなかで、1868年8月3日の出来事として「朝8時、ココアを喫んだ」という記述があり、これが日本人が初めてココアを飲んだ記録とされています。
徳川昭武が帰国する直前、水戸藩内は旧幕府に与する保守派の「諸生党」と、新政府側についた改革派の「天狗党」との間で分裂。「弘道館戦争」と呼ばれる内戦に発展し、双方合わせて約180人の戦死者を出す事態となっていました。
その混乱が冷めやらぬなかで帰国した昭武は、翌1869年に水戸徳川家を相続し、水戸藩の第11代藩主になります。7月には版籍奉還にともない水戸藩知事となったため、最後の水戸藩主となりました。
1871年には廃藩置県によって藩知事を免じられ、東京の旧水戸藩下屋敷に居を移します。1875年には陸軍少尉となり、陸軍戸山学校の教官を務めました。同年、公家である中院通富の娘の盛子と結婚しています。
1876年、徳川昭武はフィラデルフィア万国博覧会の御用掛に任じられて渡米します。役目を果たした後、兄の土屋挙直、弟の松平喜徳とともにフランスに再留学。レオポルド・ヴィレットとも旧交を温めました。
フランス留学中だった甥の徳川篤敬とは、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア、ベルギーを旅行。ロンドンに半年滞在した後、1881年6月に帰国します。
1883年1月に長女の昭子が生まれますが、産後の肥立ちが悪く、妻の盛子が亡くなってしまいました。ショックを受けた昭武は隠居願を提出。徳川篤敬に家督を譲って隠居します。まだ30歳の若さで、生母をともなって千葉県松戸市の別邸・戸定邸に移り住み、狩猟や園芸、自転車など多くの趣味に取り組んだそうです。
特に力を注いだのが造園で、西洋式庭園を築き、植物の栽培を手掛けました。この庭園は後に与謝野晶子が「松戸の丘」と和歌に詠み、現在では千葉大学園芸学部の用地となっています。
また足繁く静岡に通い、兄の慶喜の趣味だった写真をともに楽しんだそう。現像も自ら手掛け、現在でも多くの写真が残されています。
- 著者
- 泉 三郎
- 出版日
徳川昭武に随行し、ヨーロッパへと渡った渋沢栄一。後年、「自分の一身上、一番効能のあった旅は、44年前の洋行」と振り返っています。
本書は「銀行」や「合本主義」などヨーロッパで栄一が見たもの、感じたものを取りあげ、「日本資本主義の父」と呼ばれるまでの基礎がどのように培われたのかを解き明かそうとするものです。
技術や文明の差にただ圧倒されるのではなく、貪欲に吸収し、自国に取り入れていった明治日本の精神を強く感じられる、おすすめの一冊です。
- 著者
- 寺本 敬子
- 出版日
徳川昭武が訪れた1867年のパリ万博と、前田正名が活躍した1878年のパリ万博。この2度のパリ万博を通じて、ジャポニズムが開花したといわれています。この間に日本は、江戸時代から明治時代へ大きな変革の時を迎え、フランスもまた普仏戦争に敗れ、改革の時を迎えていました。
本書ではこの2度のパリ万博を中心に、日本の出展品の売り上げなどのデータ、フランス人の反応などを取り上げ、ジャポニズムがいかに生まれ、どのように広がっていったのかをわかりやすく解説しています。日仏双方の史料を丹念に分析することで浮かび上がってくるのは、まさにヨーロッパが「日本」を認知していく過程。読みごたえのあるおすすめの一冊です。