気が付くと、インプットとアウトプットがどうにも機能していない。思考回路はショート寸前である(セーラームーン世代)単にインプットとアウトプットの量が足りていないだけかと思ったが、問題はそのもっと手前で起きているようだった。
元々は洗面器とかバケツとか、それくらいの大きさがあるはずだったインプットのスペースが、子供用の茶碗くらい、いやお猪口くらいに萎んでしまったような感覚。すぐに溢れてしまって集中できない。そのくせアウトプットするには、とにかく時間がかかる。お猪口からポタポタ、一滴一滴しぼり出さねばならず、何らかの拷問のようだ。
たった今覚えたことを人に話そうとしただけで「・・・・・・・はて?わたしは今何の話をしようとしてたんだっけ?」と思考が回る前に霞んでしまって、そのままフリーズしたりする。まぁ簡単に言えば物忘れの酷い版なんだろうけど。仕事中に隣りにいる人の名前が出てこなくなったりもした(ごめんなさい)ピンマイクをそっと置いて、そのまま帰って引退した方が良い。
ちなみに、ここまで書くのにクッキーを3枚食べてから芋けんぴをドカ食いして、淹れたコーヒーもほとんど飲み干してしまった。食欲は旺盛なのにとにかく燃費がわるい。頭は働かずただ脂肪になるだけの芋けんぴ。いやになる。
小さな子供が二人いる友人も本を読まなくなったと話していた。子育てに忙しく、時間がないのもあるけれど、読みたい気持ちがなくなってしまったと。言われてみれば私も、本や音楽や映画にアート、その他カルチャー的なものに触れる時間がめっきり減ってしまった。確かになかなか時間が取れないのもあるが、子供が早く寝ようものなら自分も喜んで早く寝る(もしくは隣で寝落ちる)ので、時間を作ろうという努力すらしていない。時間や体力は言い訳に出来ない。
以前はとにかくいろんなものに触れ、吸収したかった。おもにラジオで話したりSNSで紹介したりと、人に話すことメインだったが、アウトプットできる場所も求めていた。例えば本を読みながらも、自分ならその感想をどう話すかとか、どんな物語を作りたいかとか、インプットと同時にアウトプットしているようなところもあった。(集中力がないとも言う)しかしその両方の機能を一旦止めてしまうと、再び動き出すにはそれなりに時間と気力を要するようだ。
確かに、産後は趣味に使う自分の時間だったり、精神力だったりが、一旦なくなる。今思えば、赤ん坊のうちは寝てばかりいるので、一日10分でも15分でも、寝ている子どもの横で本を読んだり、小さな音で音楽を聴くことだってできる。そうやってインプットの機能を守れば、徐々にそれが溜まっていって、もっと意欲が沸いたり、何かしらのアウトプットにつながったのかもしれない。
ただ、これはあくまでも理想論で、今の感情のまま娘がまだ寝返りも打てない時期に戻ってとしても、コツコツ何かをインプットできるかと言えば答えはノーだ。きっと、同じように悩んだり慌てたりふさぎ込んだり、見なくていいような育児ブログを読み漁ったりして、気がつけば娘が一歳を迎え、二歳になって今と変わらない今に追いついてしまうのだろう。
しかし、プラスに捉えれば、それもある種のインプットなのかもしれない。わが子の顔をインプットする時間。一歩離れたところから『子育てしている自分』を見てみると、それはとても貴重な時間なのだと思うことができる。すやすやと健やかに眠る子供の顔はただ可愛いだけじゃない。その時間も空間も、そして自分自身も、この世で一番平和で、温かく柔らかいものにしてくれる。疲れた身体や心を、比喩じゃなくちゃんと癒してくれるのだ。
公園から帰りたくないと大泣きされ、スーパーでもう歩きたくないと座りこまれ、せっせと作ったごはんを床に撒かれても、寝顔を見ると『まぁいっか』と思える。おまけに、怒ってしまったことを反省したり、明日はどんなことをして遊ぼうか、どんなごはんを作ってあげようかと考える心の余裕まで与えてくれる。毎日、ほんの少しずつ変わっていく寝顔。今の顔をインプットできるのは今しかない。そんな刹那的なことに気が付くと、インもアウトも、他に何もプットできなくても、いいのかもしれないなと思えてくる。むしろ、そんな時間こそが人生の中の壮大なインプットなのかもしれない。
ふと、母のことを考えてみた。母は私が小学生になってから新しい趣味を見つけた。木工や粘土などで、季節の飾りやらキッチンで使うような実用的なものを作るようになった。私が描いたイラストを母に作ってもらったりして一緒に楽しむこともあった。
一時的にその趣味から離れていた時期もあったようだが、母は今でもそれを続けていて、孫のために積み木やおもちゃ、クリスマスのリースを作ってくれたりする。娘はばあばの家に行くと、ばあばの作業スペースに興味津々だ。じいじやばあばの手を握って、そこまで引っ張っていって、いろんな作品や材料があるのを楽しそうにいつまでも眺めている。
そんな母は、私を育てたことで何かをインプットできただろうか。そして、アウトプットできているだろうか。私の子育てについて、母はほとんど口出ししない。友達から『昔と今では子育ての方法が変わっているから、とにかく口出しするな』と教わったそうだ。もし、娘や息子の子育てについてアドバイスすることが、アウトプットだとすれば、母は不完全燃焼なのかもしれない。
しかしきっと、母にそのことを訊いてみたとしても「・・・イン?アウト?・・え?なに?なにプット?なにそれ?」と、話の筋のかなり手前から説明することになりそうだし、答えも想像がつく。きっとただ一言、「わからへん」
そういえば母は「美容室で子育てについて訊かれたけど、勝手に育ったからわからへんと答えた」と、なぜか胸を張っていた。
でもそれがいいのかもしれない。アウトすることが全てじゃない。“子育て”という分野はひたすらインプットするものなのかもと思った。母のように、何か違う形にしてアウトプットできる日までは。
わたしの“子育てインプット”はまだまだ始まったばかり。これからの人生の中で、やっぱり何かしらアウトプットする機会は欲しいけれど、心にそっと積もらせておくのもいいのかもしれない。そのための場所は、お猪口よりは大きく取っておきたい。
さて、実は私はこれを「インプットしたい気持ちを取り戻した話」を書くつもりだった。ここ半年ほどで、わくわくゾクゾクするような、「もっと知りたい!」という前のめりになるあの感覚が蘇ったのだ。
それは「韓国ドラマ」である。観たことある人は「わかるー!」と共感してくれるだろうけど、ない人は「あー、はいはい。」といった感じだろう。コロナ禍にみんなハマった「梨泰院クラス」と「愛の不時着」から始まり、あらゆるドラマを観ては、わくわく、ドキドキしてときめいた。早く続きが知りたいのに、知りたくないソワソワした気持ちなんて、いつぶりだろうか。漫画を読み漁っていたとき以来か。役者さんたちも素晴らしければ、物語の展開も面白く、映像も綺麗だし音楽もいい。そんな韓流の素晴らしさをネチネチと語るつもりだったのに、わたしの「かっこつけたい」という悪い癖が出てしまい、ちょっとハートウォーミング的な話になってしまった。読み返すのが恥ずかしい。
- 著者
- チョ・ナムジュ
- 出版日
- 2018-12-07
このコラムで韓国ドラマを紹介するにあたって、せっかくだから韓国の小説も読んでみようと、以前から気になっていたこの本を手にとりました。あらすじも何も確認せず読み始めて、鳥肌がたちました。“キム・ジヨン”という1982年に生まれた女の子に一番多い名前を持つ主人公を通して、日常のあらゆるところにこびりついたジェンダー問題にスポットが当たった作品で、産後にちょうど私が感じていた(というよりほとんどの女性が感じるであろう)モヤモヤの渦を思い出させてくれました。
これは韓国の物語ですが、日本も同様の問題を抱えているはずです。そして、その多くは「まあ、そういうもんだから仕方ない」と目を背けられている類のものでしょう。だからこそ、男女関係なく沢山の人がこの本をインプットして、考えて、アウトプットできればいいなと思いました。この本が話題になる世の中ならば、モヤモヤを抱えたあらゆる人がもっと生きやすくなる日はそう遠くないのかもしれません。
- 著者
- 町田 康
- 出版日
「笑い死に寸前!笑劇の恋愛小説」という帯がかかっているところを見かけて、すっかりインプット音痴になっていた私はこれならばと思い、読み始めました。湖畔にあるホテルで働く人、そしてそこに訪れる人のガチャガチャした事件を、ユーモアたっぷり、というかほぼギャグで綴られています。このギャグ満載なところが、ガチガチに固まった脳みそをほぐしてくれて、とてもいいのです。
正直笑い死に寸前のところまではいきませんでしたが、インプットしたい欲求と、自由にアウトプットすればいいんだという許しのようなものを同時に得られた気分でした。
小塚舞子の徒然読書
毎月更新!小塚舞子が日々の思うこととおすすめの本を紹介していきます。