『52ヘルツのクジラたち』で2021年本屋大賞の大賞を受賞し、今最も注目される作家となった町田そのこ。2017年のデビュー作『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』以降、着実にキャリアを積み重ねてきた作家は、本屋大賞をきっかけに大ブレイクを果たしました。 今回はそんな町田そのこを取り上げて、現在までに刊行されている全作品を紹介します。優しく切ないその物語の世界は、苦しみの渦中にいたり、孤独を感じている人の心にも優しく寄り添い、生きる力を与えてくれる――。『52ヘルツのクジラたち』だけではない、町田そのこの世界に、ぜひ触れてみてください。
1980年生まれの町田そのこは、福岡県出身・在住の作家です。本屋大賞を契機に一躍時の人となったものの、デビューまでの道のりは、順風満帆ではありませんでした。町田は自らの来歴を振り返り、28歳までは流されるように生きてきたと語っています※。
(※参考:本屋大賞・町田そのこさんインタビュー。「28歳まで自分には何もなかった」)
20歳で理容師専門学校を卒業後、理容師の職に就くも1年で退職。その後は和菓子店や葬儀屋などさまざまな職を転々とし、結婚をして子どもが生まれた後は、専業主婦として子育てに専念していました。
そんな彼女の転機となったのが、2008年の氷室冴子の訃報でした。「婦人公論」のインタビュー※でも氷室への想いを語っているように、町田は小学生の頃から氷室冴子の本を愛読し、その小説に心を救われたことでいじめを乗り越えた経験がありました。敬愛する作家の死というショッキングな出来事を通じて、作家になって氷室冴子に会いたいというかつての夢を思い出した町田は、小説を書き始めます。
(※参考:本屋大賞受賞!町田そのこ、初告白「氷室冴子さんへの憧れ、自分を取り戻すための離婚…すべてが今につながった」)
28歳で作家を志したものの、そこから実際にデビューを果たすまで、10年近い月日がかかりました。子育ての合間にケータイ小説を執筆していた町田は、その後離婚。シングルマザーとして仕事に追われながらも、作家になる夢を諦めずに、小説を書き続けました。
ケータイ小説よりも、一般文芸の方が向いているのではという執筆仲間のアドバイスを受けて、34歳の時に新潮社が主催する「女による女のためのR-18文学賞」に応募します。ですが、この時は最終選考にも残らずに落選。その後の2年間は、冒頭の一文が印象的だった桜庭一樹『私の男』を一冊まるごと書き写すなど、独学で小説を学びながら執筆を続けました※。
(※参考:町田そのこさんが読んできた本たち 作家の読書道(第225回))
そして2度目の挑戦となった2016年、「カメルーンの青い魚」で第15回「女による女のためのR-18文学賞」の大賞に輝きます。受賞作は選考委員の三浦しをん、辻村深月の絶賛を受けました。2017年には、受賞作を収録した初作品集『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』(新潮社)を刊行。その後もコンスタントに小説を発表し続け、2021年には本屋大賞を受賞し、今最も注目を集める作家の一人となりました。
作家になって、氷室冴子にお礼を伝えたい――。決して平坦ではない歩みのなかで、町田そのこは諦めずに小説を書き続け、作家になるという夢を実現させました。氷室冴子本人にお礼を伝えることは叶わなかったものの、町田は氷室のエッセイ集『新版 いっぱしの女』(ちくま文庫)に愛のあふれた解説文※を寄せ、彼女の著作の中に名前を刻んでいます。
(参考:氷室冴子『新版 いっぱしの女』解説)
誰かの作品に心を救われて、それが生きる原動力になる――。町田そのこの小説のみならず、彼女の歩みそのものも、人の心を揺さぶらずにはいられません。
- 著者
- そのこ, 町田
- 出版日
2017年に刊行された『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』(新潮社)は、町田そのこのデビュー作です。「女による女のためのR-18文学賞」の大賞を受賞した「カメルーンの青い魚」のほか、「夜空に泳ぐチョコレートグラミー」「波間に浮かぶイエロー」「溺れるスイミー」「海になる」の5編が収録されています。
とある地方の町を舞台にした本作は、各話の登場人物がゆるやかに繋がった連作短編集。両親がおらず祖母に育てられた女性や、シングルマザーと暮らす息子、恋人が自死した人、夫からDVを振るわれている女など、社会的に弱い立場に置かれた人間が語り手となり、生きることの難しさや苦しさ、そして愛や救いが描かれます。
各編には、それぞれに異なる魚が象徴的に登場します。そのモチーフ選びと物語の展開の融合が見事で、とりわけチョコレートグラミーや、「波間に浮かぶイエロー」のブルーリボン(ネタバレになるためあえて詳しく説明しません)には心が震えました。他にも張り巡らされた伏線や、読者をあっと驚かせる展開など、巧みな構成からも作者の並々ならぬ力量がうかがえます。
そして何よりも魅力的なのは、繊細な心理描写と、そこに重なる美しい情景の数々です。〈夏休みに入るちょっと前、近松晴子が孵化した〉という印象的な一文で始まる「夜空に泳ぐチョコレートグラミー」は、それぞれに事情を抱えた少年と少女の物語です。本作のクライマックスを彩る、二人が夜の展望公園で語り合うシーンの儚い美しさは、忘れがたい読後感を残します。
「溺れるスイミー」には、燃え盛る炎のような夕日の中を走る電車に、夫の遺骨を置き去りにする母親という、壮絶な場面が登場します。〈――共生できないひとには、これでいいのよ〉という言葉から漏れ出る苦しみと、恐ろしくも鮮やかな情景には、ただただ圧倒されました。
抜きん出た筆力と、人間に対するあたたかい眼差しを通じて描かれる、生きる力を肯定する優しい物語。町田そのこの原点を示す名作です。
- 著者
- そのこ, 町田
- 出版日
インターネット上でまことしやかに噂されている、謎の言葉「ぎょらん」。「ぎょらん」とは、人が死ぬ瞬間に遺す、いくらのような赤い珠。それを口にした者は、死者の最期の願いが見えるという――。この言葉のルーツは、十数年前の雑誌に一度だけ掲載された、作者の正体も不明な幻の漫画でした。
三十路のニート青年・御舟朱鷺は、大学1年生の時に自死した友人の「ぎょらん」を口にして以来、家に引きこもって苦しみ続けているという。本当に「ぎょらん」は、存在するのだろうか?そしてこの漫画を描いた作者は、一体何者なのか?
2018年刊行の『ぎょらん』(新潮社)は、「ぎょらん」という謎めいた存在をめぐる連作短編集です。「ぎょらん」「夜明けのはて」「冬越しのさくら」「糸を渡す」「あおい落葉」「珠の向こう側」という6編を通じて、死んだ者と遺された者をめぐるヒューマンドラマが展開します。
「ぎょらん」という幻想的なモチーフは、あくまでも物語の小道具にすぎず、本作の核をなすのは、どこまでも地に足のついた人間同士の関係性です。地方の葬儀社を舞台に、さまざまな登場人物の姿を通じて、大切な人を失った人間の後悔や葛藤、贖罪、そして心の救済が描かれます。町田そのこらしい巧みな構成や見事な伏線は、今作でも遺憾なく発揮されています。「ぎょらん」をめぐる真実を、ぜひご自身の目でお確かめください。
死をテーマにした物語ではあるものの、本作ではところどこに顔を出すコミカルな描写が絶妙なバランス感を醸し出し、シリアス一辺倒では終わりません。不器用で真面目な朱鷺の人物造型が秀逸で、そんな兄に対する妹の華子の辛辣な言動も笑いを誘います。引きこもりだった朱鷺が葬儀社で職を見つけ、少しずつ社会との繋がりを築いていくという成長譚も、本作の見どころです。彼を見守り続けた母とのエピソードを描く「珠の向こう側」には、忘れがたい印象を残します。
死者の願いは、遺された者に何をもたらすのか――。生と死の双方を包み込みながら、遺された者に希望を与える感動作です。
- 著者
- 町田 そのこ
- 出版日
25年前に開発された新興住宅地「うつくしが丘」に建つ、3階建ての一軒家。この家を購入した美容師の美保理は、一階を店舗用に改築し、明日は「髪工房つむぐ」の開店日です。夫婦の住居と店舗として手に入れたこの家は、美保理の夢としあわせの象徴となるはずでした。ところが通りすがりの女性から、ここが “不幸の家”と呼ばれていることを知らされ、ショックを受けます。自分が購入したのは、次々と住人が入れ替わり、暮らした人がみな不幸になって出ていったという、いわくつきの家だったのか。そんな美保理に、隣の家で暮らす老女の荒木信子は、この家のもう一つの姿を語ってみせるのでした――。
2019年刊行の『うつくしが丘の不幸の家』(東京創元社)は、とある一軒家を舞台に、ここで暮らした歴代の5つの家族を描く連作短編集です。「おわりの家」「ままごとの家」「さなぎの家」「夢喰いの家」「しあわせの家」の5編が収録されています。
本作は一番新しい住人からスタートし、年月を遡っていくという構成で執筆されています。壁に刺さった釘や、庭の枇杷の木、そして「おんなのおはか→じごくいき」という落書きなど、かつての住人が残していった謎めいた痕跡……。過去に遡るにつれて、それらの背景が明かされていく巧みな展開が面白く、小さな謎があぶり出すさまざまな家族のドラマが、静かに心を揺さぶります。
“不幸の家”の隣でずっと暮らしている荒木信子は、物語のキーパーソンともいえる、よき隣人です。そんな魅力的な老女が抱えていた秘密が語られる「夢喰いの家」は、不妊というテーマとあわせてとりわけ印象に残りました。「おんなのおはか→じごくいき」という落書きの背景が明かされる「さなぎの家」も、シスターフッドの物語として、思い入れの深い一篇です。
この家で暮らした家族は、さまざまな悩みを抱えながらも、最終的にはみな前向きな気持ちで退去していきました。不幸かどうかを決めるのは、家でも他人でもなく、しあわせとは自分自身で作り上げるもの。そんなメッセージが通底する『うつくしが丘の不幸の物語』は、しあわせな読後感をもたらす、愛おしくもやさしい物語です。
- 著者
- 町田 そのこ
- 出版日
とある事情を抱えた三島貴瑚は、東京を離れ、祖母が住んでいた大分県の田舎町の一軒家に引っ越しました。仕事をせずに暮らし、お腹に刺し傷をもつ貴瑚は、住人たちの好奇の目にさらされながらも、新しい人生に踏み出そうとしています。
貴瑚はこの町で、小汚い身なりをして、ガリガリに痩せた子どもに出会いました。「ムシ」と呼ばれ、母親から虐待を受けている少年は、言葉をしゃべることができません。貴瑚自身もまた、両親に虐待されて育った子どもでした。助けを求めることもできず、誰にも届かないままに苦しんでいたかつての貴瑚の心の声に、アンさんこと岡田安吾が初めて気づき、彼女を家から救い出したのでした。ですがそのアンさんも、今はもういない――。一人でひっそりと生きようとしていた貴瑚は、少年に手を差し伸べ、彼の面倒を見ようと決意します。ですが、二人の前にさまざまな困難が立ちはだかるのでした……。
町田そのこの初長編小説『52ヘルツのクジラたち』(中央公論新社)は、虐待やDV、ヤングケアラーやセクシュアル・マイノリティなど、社会の大きな課題をテーマに据えた小説です。物語のモチーフになっているのは、52ヘルツという他の個体が聴き取れない高い周波数で鳴き続ける、世界でもっとも孤独なクジラ。その姿は、誰にも気づかれないままに声なき声をあげている人間の姿に重ねられています。
物語は田舎町で暮らす現在と、かつて東京であった出来事が交差しながら進み、少しずつ貴瑚の過去が明かされます。それぞれの苦しさを抱えながらも、弱者の声に耳を傾け、必死に生きようとする人々の姿を描く『52ヘルツのクジラたち』は、多くの人に感動を与えました。2021年本屋大賞の1位に選出された、町田そのこの代表作です。
- 著者
- 町田 そのこ
- 出版日
九州地方のみに展開するコンビニチェーン「テンダネス」。その名物店「門司港こがね村店」のイケメン店長・志波三彦は、意図せずに老若男女を籠絡してしまう魔性のフェロモンを発する“フェロ店長”だった。パートとして働く主婦の中尾光莉の趣味は、そんな志波の観察と、彼をモデルにした漫画の執筆。ほかにも、強面の筋肉情報屋老人や、ひげもじゃの廃品回収業者が常連客として通っています。〈誰かの人生の欠片でも、手助けできたら、いいよね〉と語る志波が働くテンダネスには、幅広い年齢の人がそれぞれの悩みを抱えて集まるのでした……。
2020年刊行の『コンビニ兄弟―テンダネス門司港こがね村店―』(新潮文庫nex)は、門司港にあるコンビニを舞台にした、連作短編集です。本作はこれまでの作品と比べてコメディ色が強く、町田そのこの新しい一面を楽しめる、ポップかつキャッチーなキャラクター小説に仕上がっています。また、レトロな観光地としても有名な門司港を舞台にしたご当地小説という要素も、本書の読みどころの一つ。「こんなコンビニに通いたい! そして門司港に出かけたい!」というわくわくした気持ちを呼び起こす、ハートウォーミングなお仕事小説です。
よい意味でのライトさも兼ね備えた本作ですが、町田そのこらしい人間ドラマも健在。なかでも、漫画家になる夢をあきらめきれないまま、惰性で塾講師を続けている男性を描く「第二話 希望のコンビニコーヒー」は、門司港の美しい景色と相まって、切ない余韻を残します。
また、思春期の女子中学生の友情や葛藤を掘り下げた「第三話 メランコリックないちごパフェ」は、女の子同士の思春期小説が大好きな私のお気に入りです。〈わたしは誰かの選んだ道じゃなくて自分で選んだ道を歩きたいだけだよ〉と、長年の幼馴染との決別を果たす主人公の姿と、彼女が掴んだ新しい友情に、胸が熱くなりました。
タイトルに”兄弟”とあるように、作中で意外な人物が志波の兄弟だと明かされます。実は5人兄弟である志波の、他の家族もとびきり個性的です。本作はシリーズ化も決まっているそうで、続編への期待も高まります。
社会問題をテーマにしたシリアスな作風から、コミカルなお仕事小説まで――。町田そのこの多彩な物語世界には、悩みや孤独を抱えている人の心に寄り添ってくれる、やさしい眼差しが通底しています。苦しみの中にも救いや希望を描き、読み終わると元気がもらえる小説は、私たちの生きる希望となり、前に進んでいけるよう、そっと背中を後押ししてくれるのです。読書が好きな人はもちろん、今現在何かに悩んでいたり、苦しんでいる人にもおすすめの作家です。
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