「政治学」「倫理学」「生物学」…など、あらゆる学問の基礎を築いたアリストテレスは「万学の祖」と言われています。 例えば、生物学。哺乳類や爬虫類など、生物を分類するカテゴリーを最初に発案したのは、アリステレスだと言われています。アリステレスが現在の私達に影響を与えている項目を並べると、枚挙のいとまがありません。 アリストテレスの業績を全て説明すると、膨大な時間がかかってしまいます。そのため今回は、プラトンとの関係性に限定して説明したいと思います。 プラトンに対して、アリストテレスは批判的な姿勢を貫きました。その目的は、イデア論に代わる新しい存在論を築くことでした。
アリストテレスは紀元前384年、ギリシア北方にあるマケドニアの都市スタゲイラに生まれました。父親が医師になるため、経済的に恵まれた幼少期を過ごします。
17歳の時アテナイに赴き、プラトンのアカデメイアに入学。プラトンが死ぬまで 20年近く学びました。アリストテレスは贅沢な仕送りを受けていた異色の学生であり、 派手な服装をしてプラトンのひんしゅくを買ったという話も残っています。
またアリストテレスはソクラテスやプラトンのように、祖国アテナイのために「なんとかしたい」という愛国心を持っていませんでした。
この事実は理解しておく必要があります。
アリストテレスは、 プラトンが強い影響を受けたピタゴラス教団の思想、 またプラトン自身の思想も含めて「異国風」 と呼んでいます。ソクラテスやプラトンのように強い愛国心を持たないアリストテレスにとって、イデア論も1つの理論体系にしか見えなかったからです。
アリストテレスの育ったスタゲイラは、 イオニア的と呼ばれるギリシアの伝統的な影響が色濃く残っている土地柄になります。それだけにアリストテレスは、イデア論にはかなりの違和感を持ったことが想像できます。
アリストテレスの課題はプラトンのイデア論を批判しつつも、古代ギリシアの伝統的な存在論と折り合いをつけることでした。
イデア論には「作り上げる」という「制作論」的な側面が含まれています。古代ギリシア伝統の「成り行きに任せた政治哲学」 をプラトンは否定し、国家は正義の理念(イデア)を目指して「作り上げるべきものだ」という新しい政治哲学を主張したかったためです。
イデア論を展開するにあたって、プラトンは2つの世界(私達の世界とイデア界)を主張します。あらゆる「存在の起源」はイデア界であり、私達の世界は「イデア界のコピーに過ぎない仮象の世界」であると言います。
イデアを常に意識しながら、国家の進むべき方向性を定め、私達の世界をイデア(理想)に近付ける努力をしなくてはいけない。祖国アテナイを「いかにすべきか」という強い実践的関心に促されて、プラトンは「イデア論」を構想します。
そのため政治における実践的関心から切り離して、単なる理論体系として見た場合、プラトンのイデア論には多くの矛盾があります。この事実はプラトン自身も把握していました。 彼自身、晩年には弟子たちの展開するイデア論に批判を加えています。
先程確認したように、アリストテレスの課題は「異国風」であるプラトンのイデア論と、古代ギリシアの伝統的な存在論との折り合いをつけることでした。
アリストテレスはプラトンのイデア論について、以下のように説明します。
プラトンは「形相」と「質料」という概念を用いて、全ての存在者を説明しようとした。
「形相」はイデアからもたらされる「形」であり、設計図のようなものです。「質料」は「素材や材料」を意味します。
ここからプラトンは、全ての存在者は「形相」と「質料」の合成物であると主張します。
彼の代表作である『国家』では、机を題材にしながら、イデア論が詳細に説明されています。少し見ていきましょう。
まず机が存在するためには、机を作る人(職人)が必要です。
職人はこれから作る机の形(設計図)を思い描き、それを参考にしながら、木や大理石などの材料を用いて机を作り上げます。プラトンの主張に従うならば、職人は「机のイデア(形相)」を魂の瞳で見ながら、材料(質料)を加工し、実物の机を完成させるわけです。
こうして「イデアとしての机」と「職人によって作られた机」という2種類があり、さらにもう一つの机が考えられます。「キャンバスの上に描かれた絵の机」です。画家においても「机のイデア」を見ながら描く以上、やはり絵の机も選択に加えざるを得ません。
そのため3種類の机「イデアとしての机」「職人によって作られた机」「画家によって描かれた絵の机」が出揃います。いずれも「机のイデア」を備えた机ということになります。
それでは3種類の机のうち、最も高い価値があるのはどれでしょうか?
私達の感覚だと、おそらく「職人が作った机」になると思います。なぜなら、机の上で書いたり読んだりできるという実用性があるからです。
ところが、プラトンは全く異なる発想をします。
プラトンの考えでは「机のイデア」を「どれだけ純粋に、豊かに表現しているか」が、最も大事な基準になります。この基準に従うと「イデアとしての机」が最も価値が高いことになります。プラトンによると「職人が作った机」には材料(質料)が混じっているため「イデアが濁ってしまっている」というのです。
私達の感覚からすると、不思議な考え方になりますが、プラトンの主張から様々なヒントを導き出すことができます。
プラトンの考え方に従うと、まず全ての存在物は、イデアからもたらされた「形相」と「質料」との「合成物」になります。次に「形相」と「質料」の合成物(存在者)の価値を決めるのは、イデアと関係がある「形相」であって、あくまでも「質料」は取るに足らない材料に過ぎないものになります。
アリストテレスは、私達の世界とは別にある「イデア界」の存在を否定します。また同時に、プラトンの存在論を否定するのです。
プラトンの存在論は人間が手を加えた「人工物(制作物)」には応用可能ですが、植物や動物などの「自然物」には適用が難しいからです。自然物の場合、どこまでが「形相」と「質料」を区別することは不可能です。
制作物だけではなく自然物にもうまく適用できるように、プラトンの「形相 − 質料」という存在論を組み換えようとする狙いが、アリストテレスにはあったように思われます。
プラトンの場合「形相」と「質料」との関係性について、特に詳しい説明はありません。むしろ「質料」は「イデアを濁している」という悲しい扱い方です。しかしアリストテレスは、例えば仕事場にある材木にしても「家の柱に適したもの」と「机の制作に向くもの」があるはずだと考えました。
「質料」には「形相」として花開く“可能性”が含まれている「可能態」の状態にあると、アリストテレスは言います。またその可能性が「形相」として“現実化”された状態を「現実態」と呼びます。
アリストテレスは「形相 − 質料」と言う図式を「可能態 − 現実態」に組み替えることで、プラトンを克服しようとしました。この図式ならば、制作物の存在構造だけでなく、植物や動物などの自然物にも応用することができるからです。
こうしてアリストテレスは、自然物と制作物の存在者を統一し、これら全ての存在者は「可能態から現実態」へ向かう「運動」のうちにあると考えます。森の中にそびえている樹木は、材木になる「可能態」であり、仕事場にある材木は「現実態」ということになります。「可能態 − 現実態」という関係はどこまでも相対化されて、あらゆる存在者に適用可能です。
アリストテレスに従うと、全ての存在者は「自身の内側に滞在している可能性」を次々に現実化していく存在になります。つまり「目的を伴った運動(目的論的運動)」ということです。
「種子から成長した樹木は、材木になって家の柱になる」という動的なイメージを思い浮かべると、理解できるかもしれません。全ての存在物には、必ず「目的」が含まれています。
アリストテレスの描く世界像は、プラトンのイデア論とは違って「流動的」であり、生物主義的な印象を受けます。一方、プラトンは原理的には「変化」を認めません。プラトンの場合、私達の世界は「永遠不変なイデア界」のコピーになります。動き(変化)があるとすれば、それは「質料」が変質したり、腐敗したり、壊れたりすることによって起こる「無意味」な変化でしかありません。
そのためプラトンの世界像は「数学的」で、アリストテレスは「生物主義的」と呼ばれることになります。
2人の世界観は対照的に見えますが、アリストテレスの狙いは、あくまでプラトンの行き過ぎを巻き戻すことです。古代ギリシアの伝統的存在論と折り合いを付けようとしたら、自然な流れで「可能態 − 現実態」という理論になってしまったという感じです。
アリストテレスはプラトンの思考様式(イデア論)を批判し、古代ギリシアの伝統的思考に立ち返ろうとしたことを確認してきました。
しかし結局は、アリストテレスも師匠であるプラトンのイデア論を修正しながらも、受け継ぐことになってしまいます。イデア論の核心的部分は受け継がれてしまったからです。詳しく見ていきましょう。
アリストテレスは、私達の世界には存在しない「イデア、またイデア界」を否定します。
しかし彼自身が主張する「可能態 − 現実態」という運動には、必ず「目的」が含まれています。つまり目的があるということは「ゴール」がなくてはいけません。
アリストテレスは、全ての存在者が運動の果てに行き着く「最終目的地(ゴール)」のことを「純粋形相」または「神」と呼びます。
「純粋形相」とは、自分自身の中に含まれている可能性を全て現実化し、もはや現実化されていない可能性が全く残されていない存在を意味します。名前の通り、質料から解放された純粋な存在(形相)です。したがって、それ以上「変化もしない存在」「動く必要のない存在」つまり「神」を意味します。
アリストテレスは、世界の“中心”に「神」を設定します。もはや自分は動くことなく、自身の周りにある全ての存在者を動かし、中心(神)の方へ引き寄せようとする存在を意味します。「神」とは、全ての存在物が「目的を伴った運動(目的論的運動)」の果てに到達する究極の目的であり、最終地点(ゴール)になります。
この「純粋形相」であり「神」は、もはや一切の生成消滅を免れ、変化はしないわけです。そうなると「純粋形相(神)」もプラトンのイデアと同じように、やはり「超自然的な存在」と見なすしかありません。結局はプラトンと同じ帰結になってしまうのです。
アリストテレスはプラトンの超自然的思考様式を批判し、イデア論を否定しようとしました。しかし結果的には「プラトンの核心的部分は受け継いでしまった」というのが結論になります。
今回の記事内容をまとめてみます。
・アリストテレスには、プラトンやソクラテスのような愛国心がなかった。そのため実践的な理論であるイデア論が、アリストテレスには単なる理論体系にしか見えなかった。
・アリストテレスは、プラトンの「異国風」なイデア論と古代ギリシアの伝統的な価値観の折り合いを付けたかった。
・アリストテレスは「イデア、またイデア界」の存在を否定する。プラトンの存在論(「形相 − 質料」)は、植物や動物などの自然物には適用できない。
・そのためアリストテレスは「形相 − 質料」を「可能態 − 現実態」に置き換えることで、自然物にも応用可能にした。
・「可能態 − 現実態」は「目的を伴った運動(目的論)」であり、全ての存在者には必ず目的が含まれている。
・目的の最終地点(ゴール)のことを、アリストテレスは「純粋形相」または「神」と呼んだ。
・「純粋形相」は質料から解放され、もはや「動く必要のない存在」「完全に目的を達成した存在」である。
・「純粋形相」は世界の中心に位置し、全ての存在者を最終地点に引き寄せる「神」のような役割を果たしている。
・「純粋形相」は生成消滅をせず変化しない存在である以上、プラトンのイデアと同じような概念と見なすしかない。
・アリストテレスは、プラトンのイデア論と古代ギリシアの伝統的価値観の調停を試みたが、結局はプラトンの核心的部分は継承することになった。
師匠であるプラトンが死んだ後、アリストテレスはアテナイを去ります。そして祖国であるマケドニア国王フィリッポスの招聘を受け、国王の子であるアレクサンドロスの家庭教師を担当することに。アリストテレスは42歳になっていました。
アレクサンドロスは、世界史の教科書にも掲載される大偉人です。世界遠征を実施し、次々と領土を拡大。病気で死んでしまったため、短期間になりますが大帝国を築き上げました。
その後、アリストテレスはアテネに再び戻り、学園である「リュケイオン」を創設します。
そして62歳のとき、アリストテレスはこの世を去ることになります
(参考文献)
今道友信(2004)『アリストテレス』講談社
- 著者
- 今道 友信
- 出版日
会話形式であるプラトンの作品に比べて、アリストテレス著作は非常に難解です。また独特のレトリックもあるため、いきなり初心者がアリストテレスを読むことは厳しいと感じます。そこでオススメなのが本書。長年アリストテレスを研究してきた今道先生が、懇切丁寧に分かりやすく説明してくれます。
アリストテレス(2015)『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫、立花幸司訳)光文社
- 著者
- ["アリストテレス", "渡辺 邦夫", "立花 幸司"]
- 出版日
まずなにより翻訳が素晴らしいです。丁寧な解説もあるため、分からない箇所に関しては、解説を読んでください。すんなりと理解できます。アリストテレスの人間に対する推察の鋭さ、深さを痛感できる1冊です。もし面白いと感じることができたならば、下巻の方に進んでもらえればと思います。
荻野 弘之(2003)『哲学の饗宴 ー ソクラテス・プラトン・アリストテレス』NHK出版
- 著者
- 荻野 弘之
- 出版日
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